第17話 看板の声
田中は「村上孝二」という名前を見つめたまま、手が震えるのを止められなかった。これまでに送り出した10人の「客」の名前が消え、自分の記憶さえも曖昧になっていく状況で、次に来る「客」が何をもたらすのか、恐怖しかなかった。
「俺は……このまま、どうなるんだ?」
田中は背中の看板を重く感じながら、再び山道へと向かった。
山道はいつも通りの静寂に包まれていたが、この日はそれ以上に異様だった。霧が濃くなり、視界は数メートル先さえ見えない。森全体が何かを待ち構えているような気配を漂わせていた。
田中が看板を立てて待つ中、不意に奇妙な音が聞こえてきた。それは低い唸り声のような音で、どこからともなく響いている。
「……田中雅也……」
声が風に紛れるようにして、どこかから彼の名前を呼んだ。田中は周囲を見回したが、誰もいない。ただ背中の看板が、微かに震えているように感じた。
突然、看板から声が聞こえた。それは田中の頭の中に直接響くような、不気味な低い声だった。
「門は開きつつある。お前の役目はもうすぐ終わる。」
田中は驚き、背中の看板を振り返った。しかし、それはただの木の板に見える。彼は恐怖を押し殺しながら尋ねた。
「俺の役目って何なんだ? お前は一体何なんだ?」
看板は答えなかった。ただ、背中に感じる重みがさらに増していくようだった。
昼過ぎ、霧の中から足音が聞こえた。田中は緊張しながら、その方向を見つめた。やがて霧の中から一人の男性が現れた。40代後半と思われるその男は、どこか怯えた表情を浮かべていた。
「村上孝二さんですか?」
田中が声をかけると、男は驚いたように足を止めた。そして、田中の背負う看板を見つめると、その顔が青ざめた。
「これが……噂の……いや、俺は行きたくない……」
村上は恐怖に震えながら後ずさった。しかし、何かに引き寄せられるように、ゆっくりと山道の奥へ進み始めた。
「待ってください! そこに何があるんですか?」
田中が叫ぶと、村上は振り返らずに答えた。
「そこには……終わりがある。だけど、お前にとっては……始まりだ。」
その言葉を最後に、村上は霧の中へと消えていった。
田中はその場に立ち尽くしたまま、背中の看板の震えを感じていた。そして、また新たな文字が看板に浮かび上がった。
「十一人目、門を通過。」
田中はその文字を見つめ、胸に深い不安を感じた。この「門」が何を意味するのか。そして、自分がその役目を終えた時、どこへ導かれるのか――。
その夜、田中は再び夢を見た。
夢の中で、彼は暗闇に包まれた広大な空間に立っていた。目の前には巨大な門があり、そこから黒い影が溢れ出していた。
影の中に、これまで導いた「客」たちの顔が見える。そして、その中に自分自身の顔も混ざっているのを発見し、田中は恐怖で叫んだ。
「お前も門を通る者だ。」
その声とともに、田中の体が門へと引き寄せられる感覚に襲われた。
目を覚ました田中は、全身が汗で濡れていた。呼吸は荒く、胸が苦しい。恐る恐る看板を見ると、新たな名前が浮かび上がっていた。
「鈴木良太」
田中はその名前を見つめながら、震える声で呟いた。
「俺も……門を通るのか……?」
(第17話 終)
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