第16話 消えた名前たち

田中は「佐々木遥香」という名前を看板に見つけたとき、胸の奥が妙にざわつくのを感じた。これまでに導いてきた「客」の姿が頭の中をかすかによぎるが、その詳細を思い出そうとすると、霧のようにぼやけて消えていく。


「導いた人数は……何人だった……?」


九人目の「客」を送り出したばかりのはずだが、彼は自分が何人の人間を見送ったのか確信が持てなくなっていた。記憶は薄れていき、空虚感だけが増していく。


その朝、田中は背中に看板を背負い、山道へ向かった。霧はいつもよりも濃く、木々の間に奇妙なざわめきが漂っていた。風が吹くたびに、遠くから誰かが自分を呼んでいるような気がした。


「田中……田中雅也……」


名前を呼ばれる感覚に、田中は立ち止まった。誰が呼んでいるのか分からないが、背筋が寒くなるほどの恐怖を覚える。それでも彼は足を止めることなく、山道のいつもの場所に立ち続けた。


昼過ぎ、田中はふと背中の看板に奇妙な変化を感じた。これまでに浮かび上がっていた名前の痕跡が、少しずつ消えつつあるのだ。薄れた文字が消えるたび、胸に強烈な痛みが走る。


「……どういうことだ……?」


田中は震える手で看板を触った。名前が消えていくと同時に、彼の記憶もまた薄れていく。門を通過した「客」たちの顔、その名前、彼らが残した言葉――すべてが霧のようにぼやけていく。


その時、背後から足音が聞こえた。


霧の中から現れたのは、20代半ばと思われる若い女性だった。白いブラウスにスカートという簡素な服装だが、その目には不安と恐怖が宿っている。彼女は田中を見つめ、足を止めた。


「佐々木遥香さん……ですか?」


田中が声をかけると、彼女は小さく頷いた。そして看板を見つめると、目に涙を浮かべた。


「これ……どうして……私なんですか……?」


彼女の声には震えが混じっていた。田中はどう答えていいか分からなかった。ただ自分の背負う看板が、彼女を導くための「鍵」になっていることだけは確信していた。


佐々木は田中の横を通り過ぎ、ゆっくりと山道の奥へ歩き出した。その姿が霧の中に消えようとした時、田中は叫んだ。


「待ってください! この先に何があるんですか!? 俺は何をさせられているんですか!」


彼女は一瞬立ち止まり、振り返った。しかし、田中の質問には答えなかった。ただ一言、低い声で呟いた。


「あなたも、もうすぐ分かります……」


そして彼女の姿は霧の中へと消えていった。


夕方、小屋に戻った田中は看板を壁に立てかけた。そこにはまた新たな文字が浮かび上がっていた。


「十人目、門を通過。」


田中はその文字を見つめながら、深い喪失感に苛まれた。そしてふと気づいた。


これまでに導いた「客」の名前が、すべて看板から消え去っている。


その夜、田中はまた奇妙な夢を見た。


夢の中で、彼は暗闇に包まれた広大な空間に立っていた。周囲には無数の看板が浮かび上がり、それぞれに名前が刻まれている。しかし、彼が近づくとその名前は次々と消えていき、看板は空白の板になっていった。


その時、暗闇の奥から声が響いた。


「名前はもう不要だ。次はお前の番だ。」


田中はその声に背筋を凍らせながら目を覚ました。部屋の中は暗く、静寂が広がっている。彼は恐る恐る看板に目を向けた。


そこにはまた新たな名前が浮かび上がっていた。


「村上孝二」


田中はその名前を見つめながら、震える声で呟いた。


「俺の番……って……どういうことだ……?」


(第16話 終)

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