第15話 契約の代償

田中はぼんやりと「山本剛」という名前を見つめていた。自分の名前すら曖昧になりつつある状況で、次の「客」を迎える準備をしなければならないという事実が、彼を押しつぶしそうだった。


「俺は……本当に田中雅也……だったよな?」


自分に問いかけても答えは返ってこない。胸の中には虚無感が広がり、背中の看板はさらに重く感じられた。それでも契約に縛られた彼は、いつものように山道へ向かった。


その日は特に空気が冷たかった。霧が濃く、視界はわずか数メートル先までしか見えない。田中は看板を立て、ぼんやりと周囲を見渡した。


時間が過ぎるにつれ、頭がぼんやりとしてくる。記憶の断片が霧の中に吸い込まれるような感覚がした。そして、ふとした瞬間、田中はあることに気づいた。


「……俺はなぜ、この契約を受けたんだ?」


契約の詳細を思い出そうとしたが、頭の中には断片的なイメージしか浮かばない。古びた喫茶店、無表情な男、サインした契約書――それ以外の記憶は完全に消え去っていた。


「これは……何の代償なんだ……?」


その疑問に答える者は誰もいない。ただ、遠くから足音が近づいてくる音が聞こえてきた。


霧の中から現れたのは、中年の男だった。スーツ姿だが、服はボロボロで、足元は泥だらけだった。顔には深い疲労が刻まれており、まるで何かに追われているようだった。


田中は声をかけた。


「山本剛さん……ですか?」


男は一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに看板に目を移した。その目は恐怖と諦めが入り混じっていた。


「……ここまで来てしまったんだな……」


男はそう呟くと、田中の隣を通り過ぎ、霧の中へと進んでいった。その歩みはゆっくりとしていたが、確実に「何か」に引き寄せられているようだった。


田中は追いかけようとしたが、看板が再び重くなり、その場から動けなくなった。そして、背中の看板に新たな文字が浮かび上がった。


「代償を知るな。導け。」


その文字を見た瞬間、田中の頭の中にまた映像が流れ込んできた。門を通過する山本剛の姿、そして門の奥に広がる黒い影。その影の中には、無数の顔がうごめいている――田中自身がこれまで見送った「客」たちの顔だ。


夕方、小屋に戻った田中は、看板を壁に立てかけた。そこにはまた新たな文字が浮かび上がっていた。


「九人目、門を通過。」


田中はその文字を見つめながら、手が震えるのを感じた。この仕事が持つ本当の意味、そしてそれが自分に課している「代償」とは何なのか。それが少しずつ彼の中で形を成し始めているようだった。


その夜、田中は再び夢を見た。


夢の中で、彼はあの門の前に立っていた。門は大きく開かれ、奥から黒い影が彼に向かって手を伸ばしてくる。


「お前もまた……鍵の一部だ。」


その声が響くと、田中の体が看板と同化していくような感覚に襲われた。看板に吸い込まれる自分を感じながら、彼は必死に目を覚まそうとした。


目を覚ました田中は、額に冷たい汗をかいていた。胸が激しく上下し、息が荒い。部屋の中は静まり返っていたが、看板からは微かな脈動が伝わってくる。


恐る恐る看板を見ると、新たな名前が浮かび上がっていた。


「佐々木遥香」


田中はその名前を見つめながら、深い絶望の中でつぶやいた。


「この契約の代償は……俺自身なんじゃないのか……?」


(第15話 終)

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