第14話 記憶の崩壊

田中は朝、看板に浮かび上がった「吉田智恵子」という名前を確認した。毎日繰り返されるこの恐ろしい儀式に、彼の精神は限界を迎えつつあった。導いた「客」の姿、門の奥の黒い影、そして自分が担わされている役割――すべてが彼を追い詰めている。


しかし、契約に縛られた田中は、また背中に看板を背負い、山道へ向かうしかなかった。


山道はいつものように霧に包まれていたが、その日は特に異様だった。空気は重く、風はまったく吹かない。森の木々は不気味なほど静まり返っており、空は薄暗い灰色に染まっていた。


田中は看板を立てながら、ふと自分の過去を振り返ろうとした。しかし、その瞬間、胸に奇妙な違和感が走った。


「俺……ここに来る前、何をしていた……?」


自分の人生を振り返ろうとすると、記憶がぼんやりと霞んでいることに気づいた。倒産した会社のことや、家族の記憶――それらが断片的で曖昧になっているのだ。


「なんだ……どうして……」


田中は頭を抱えた。考えようとすればするほど、記憶はさらに霧の中に吸い込まれていくような感覚に陥る。胸に広がる空虚感を抱えながらも、彼は何とか自分を落ち着かせようとした。


昼過ぎ、遠くから足音が聞こえてきた。田中は顔を上げ、霧の中をじっと見つめた。やがて現れたのは、50代くらいの女性だった。白いブラウスにスカートを履き、どこか品のある佇まいだが、その顔には深い悲しみが刻まれていた。


「吉田智恵子さん……ですか?」


田中が声をかけると、女性は驚いたように目を見開き、看板に目をやった。そして、その顔が青ざめていく。


「これが……そうなのね……」


彼女は小さく呟いた。田中は何かを聞こうとしたが、吉田は看板を凝視したまま、ゆっくりと歩き始めた。


「待ってください! あなたはどこへ行くんですか?」


田中が追いかけようとすると、背中の看板が突然重くなり、足を止めざるを得なかった。振り返ると、看板に新たな文字が浮かび上がっていた。


「記憶を手放し、導け。」


その言葉の意味が分からないまま、田中はただ吉田の後ろ姿を見つめていた。霧の中へと消えていく彼女の姿は、どこか儚く、しかし確実に「何か」に向かっているようだった。


夕方、小屋に戻った田中は、また看板を壁に立てかけた。そこにはいつものように新たな文字が浮かび上がっていた。


「八人目、門を通過。」


田中はその文字を見つめながら、胸の中に広がる喪失感に苛まれた。記憶を失いつつある感覚が、看板と深く結びついているような気がしてならない。


その夜、田中は再び夢を見た。


夢の中で、田中は広大な暗闇の中を歩いていた。周囲には無数の影が漂っており、彼に向かって何かを囁いている。


「お前は誰だ……?」


その声を聞いた瞬間、田中の記憶がまた一つ消えたような感覚に襲われた。夢から目覚めた時、彼は自分の名前すらも曖昧になっていることに気づいた。


「俺は……田中……雅也……だよな……?」


自分の名前を何度も繰り返して確認する。だが、その名前に確信を持つことができなくなっている自分がいた。


ふと看板を見ると、新たな名前が浮かび上がっていた。


「山本剛」


田中はその名前を見つめながら、心の中で呟いた。


「俺は……一体、何をしているんだ……?」


彼の記憶は少しずつ、看板とともに消えていくのだった。


(第14話 終)

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