第12話 招かれざる客
田中は「遠藤美穂」という名前を看板で見つけたとき、かすかな胸騒ぎを覚えた。これまでに導いた五人の「客」。その一人一人が不気味な静寂と運命をまとって山道を進んでいった。しかし、この日の雰囲気は何かが違っていた。
田中は看板を背負い、山道へと向かった。いつもの霧が森を覆い、空気は冷たい。だが、その日は奇妙な風が吹いていた。風は木々を揺らし、葉を舞い上げ、時折遠くから何かの囁き声を運んでくる。
「……遠藤……美穂……」
その声が風の音に混じっているように聞こえたが、田中は恐怖を感じつつもじっと立ち続けた。契約が彼をこの場に縛り付けている。
昼を過ぎた頃、田中はいつものように人の気配を感じた。遠くの霧の中に人影が見える。やがてそれが女性の姿であることが分かった。彼女は30代くらいの若い女性で、薄手のコートを羽織っている。目には深い疲れが宿り、足取りはどこか重々しい。
「遠藤美穂さん……ですか?」
田中が声をかけると、彼女は驚いたように目を見開いた。そしてすぐに看板に目を移し、表情が一変した。恐怖と驚愕が入り混じった表情を浮かべながら、彼女は後ずさった。
「これ……これが……!」
彼女は叫び声を上げると、田中に近づくことを拒むように振り返り、山道から逃げ出そうとした。だが、その時――。
森全体が音を失った。
風も止み、木々も揺れない。鳥の声さえも聞こえなくなる。そして森の奥から、田中が今までに感じたことのない異質な気配が迫ってきた。
霧の中から、何かが現れた。
それはこれまでの「客」とは明らかに違う存在だった。全身が黒い影で覆われ、形は人間に似ているが、顔や手足が不自然に歪んでいる。その存在は遠藤美穂を追いかけるように、ゆっくりと山道を進んでくる。
田中は恐怖で動けなかった。ただ、その場で立ち尽くしながら、影が遠藤に向かって進むのを見守るしかなかった。
「美穂さん! 逃げて!」
田中が叫ぶと、彼女は振り返り、影を目にしてさらに悲鳴を上げた。
「いや……来ないで……来ないで!!」
しかし、影は逃げようとする彼女を捉えるように、手を伸ばした。その瞬間、田中の背中の看板が激しく震えた。
看板に新たな文字が浮かび上がる。
「招かれざる者を排除せよ。」
看板から放たれる奇妙な光が影に向かって伸びた。光に触れた影は苦しむように震え、霧の中に消えていった。森に静寂が戻る。
田中は恐怖と安堵の入り混じった感情でその場に立ち尽くした。遠藤美穂は看板を見つめ、膝をついていた。
「……何が起きてるの……?」
彼女はそう呟きながらも、立ち上がり、田中を避けるようにして森の奥へと歩き出した。彼女の足取りはまるで導かれているかのようだった。
夕方、小屋に戻った田中は、看板を壁に立てかけた。そして、そこにまた新たな文字が浮かび上がるのを見た。
「六人目、門を通過。」
田中は全身が震えるのを感じた。あの影――「招かれざる者」は一体何だったのか? なぜ自分の看板がそれを消し去ったのか?
その夜、田中は再び夢を見た。
夢の中、門の奥から無数の影が彼を見つめていた。その中心には、あの黒い影がいた。影は門の奥に引きずられるようにして消え、最後にこう囁いた。
「次は……お前だ。」
田中は夢から飛び起き、激しく息を切らしていた。看板を見るのが怖い。しかし、目をやらざるを得なかった。
そこには新たな名前が浮かんでいた。
「藤井卓也」
田中の胸にまた一つ、新たな恐怖が刻まれた。
(第12話 終)
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