第11話 影の囁き
田中は「森田健司」という名前を見つめながら、もう一度自分の現状を見直そうとした。毎日繰り返される謎の「仕事」。看板に浮かび上がる名前、現れる「客」、そして門を通過するその先――。
「半分だ」という夢の声が、耳にこびりついて離れない。どうやら、まだこれが終わりではないということだけは理解できた。
その朝、田中はいつものように看板を背負い、山道へ向かった。霧が濃く、気温がいつもより低い。体感的に異常な寒さを感じたが、それ以上に背後に付きまとう「視線」の気配が濃厚だった。
看板を立てて数時間、何事も起きず時間が過ぎていく。だが昼過ぎ、田中は異変に気づいた。
森の奥から、低い囁き声のような音が聞こえてきたのだ。
「森田……健司……」
その声は風の音に紛れているようで、誰かが確かに名前を呼んでいるようだった。田中は怖くなりながらも、声のする方向に目を凝らした。
遠くの霧の中から、一人の男性が現れた。彼は小柄で中年の風貌をしており、スーツを着ていたが、その服はどこか泥にまみれ、ボロボロだった。足を引きずるように歩いており、その顔には深い疲労と恐怖が刻まれていた。
「森田健司さん……ですか?」
田中が声をかけると、男性は一瞬驚いたような顔をした。しかし次の瞬間、看板に目を移すと、血の気が引いたように青ざめた。
「これが……終わりなのか……」
彼は震える声でそう呟くと、田中を無視して歩き続けた。その足取りはまるで何かに誘われているようで、自ら望んで進んでいるわけではないように見えた。
田中は叫んだ。
「待ってください! あなたはどこへ行くんですか?」
森田は一度だけ振り返った。その目は虚ろで、そこに感情はほとんどなかった。そして、次の瞬間、霧の中へとその姿を消した。
夕方、小屋に戻った田中はいつものように看板を壁に立てかけた。案の定、文字が浮かび上がっている。
「五人目、門を通過。」
田中はこれまで以上に不安を感じた。五人目という数字に、次第に近づいてくる「何か」の存在を感じていた。
その夜、田中は奇妙な夢を見た。
夢の中で、田中はあの巨大な門の前に立っていた。門は半ば開いており、その奥から捻じれた黒い影が田中に向かって手を伸ばしている。
「残り半分だ。お前の役目は終わっていない。」
その声が響いた瞬間、田中は目を覚ました。部屋は真っ暗で、外から風の音が聞こえる。しかし、今夜はそれに加えて別の音がした。
「コン、コン。」
小屋の扉を叩く音だ。
田中は布団をかぶり、耳を塞いだ。こんな時間に誰が来るはずもない。しかし、扉を叩く音はしつこく続く。
やがて音は止んだが、代わりに窓の外に何かが立っているような気配を感じた。田中は恐る恐る窓を見たが、そこには誰もいない。ただ、森の奥に無数の影が揺れているように見えた。
翌朝、田中は鏡を見ることもせず、小屋を飛び出した。看板を見るのが怖かったが、それでも目を向けると新たな名前が刻まれていた。
「遠藤美穂」
田中は深い溜息をつき、再び恐怖を飲み込むようにして山道へ向かった。この名前が意味するもの、それが次に導かれる「客」の運命をまた知ることになるのだろう。
(第11話 終)
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