第7話 森の視線

翌朝、田中は薄暗い空の下で目を覚ました。前夜に看板に現れた名前、「佐藤真紀子」。見知らぬ名前であるはずなのに、その響きには妙な不安を感じた。


彼はまた看板を背負い、山道へと向かった。契約の義務を果たさなければならない。しかし、この仕事が一体何を意味するのか、考えるたびに恐怖が心を締め付けた。


森の中に立ち続ける時間は、今日も静寂に包まれていた。だが、田中にはその静けさの中に異質な何かを感じていた。目には見えないが、背後や森の奥から「何者かの視線」を感じるのだ。


風が吹き、木々がざわめくたびに、その視線がますます強くなるような気がした。


「誰か……いるのか?」


田中は小さな声で問いかけた。だが、返事はない。ただ風だけが彼の言葉をかき消していく。


その時、ふと背中の看板が軽く揺れるのを感じた。恐る恐る振り返るが、看板には何も変化はない。ただの木板だ――そう思おうとした瞬間、看板の表面に文字が浮かび上がった。


「視線を気にするな。迎えよ。」


その文字を見た瞬間、田中の背後からまた足音が聞こえた。振り返ると、森の中に人影が見える。やがて霧の中から一人の女性が現れた。年齢は30代半ばくらいだろうか。白いワンピースを着たその女性は、どこか疲れ切った表情をしていた。


「……佐藤真紀子さんですか?」


田中が尋ねると、女性は小さくうなずいた。彼女もまた田中の看板をじっと見つめている。その目には恐怖と諦めが入り混じったような感情が宿っていた。


「これが……私の順番なのね……」


彼女は静かに呟いた。その声には、抗うことのできない運命を受け入れたような響きがあった。田中は彼女に何かを問いかけようとしたが、喉が詰まって声が出なかった。


佐藤真紀子は田中の脇を通り過ぎ、森の奥へと歩いていく。彼女の姿は霧の中に溶け込むように消えていった。


夕方、小屋に戻った田中はまた看板を壁に立てかけた。そこには新たな文字が刻まれていた。


「二人目、門を通過。」


田中はその文字を見つめながら、全身が震えるのを感じた。あの門の映像が再び頭をよぎる。門の奥に広がる無数の影――そして、それを見つめる自分自身。


その夜、田中はベッドに横たわりながら窓の外を見つめていた。森の暗闇が、まるで生き物のように蠢いている気がした。


ふと気づくと、小屋の外に何かが立っているような気配を感じた。暗闇の中で、無数の目が田中をじっと見つめているように思える。


「……誰だ……?」


田中は震える声で問いかけたが、外は何の反応もない。ただ木々が風に揺れる音だけが響いていた。


その夜、田中は鏡を見る勇気を失い、布団に潜り込んだ。しかし、眠ろうとしても森の視線の感覚が消えない。目を閉じるたび、暗闇の奥で無数の目が彼を見つめている光景が浮かぶのだった。


「次は……誰なんだ……」


田中の胸には、次に浮かび上がる名前への恐怖が、ますます深く刻み込まれていった。


(第7話 終)

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