第6話 見知らぬ名前
田中が山道に立ち始めて6日目の朝だった。いつものように看板を背負い、木々に囲まれた道の中央に立っていると、突如として奇妙な感覚が襲ってきた。
「……重い……」
背中の看板が、いつもよりも重たく感じるのだ。まるで看板そのものが何かを抱え込んでいるかのような感覚だった。それでも契約に従い、彼はじっと立ち続けた。
昼過ぎ、田中はふと背中の看板に目をやった。すると、何も書かれていなかったはずの看板に、新たな文字が浮かび上がっているのを発見した。
「小林一郎」
それは、田中がまったく知らない名前だった。突然現れた文字に戸惑いながらも、彼は何度かその名前を声に出してみた。
「小林一郎……誰だ……?」
その名前を呟いた瞬間、田中の周囲の空気が変わった。風が止み、森全体が不気味な静寂に包まれる。そして、遠くから足音が近づいてくるのが聞こえた。
足音の主が姿を現したのは、それから数分後だった。やってきたのは、一人の中年男性。小柄で痩せ細った体つきに、場違いなスーツを着ている。彼の顔は青ざめていて、目の下には深いクマがある。
田中は思わず声をかけた。
「すみません、あなた……小林一郎さんですか?」
男は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに田中の背負う看板を見つめた。彼の目は驚きから恐怖へと変わり、そして涙を流し始めた。
「……ついに、来てしまったのか……」
そう呟くと、男はゆっくりと田中のそばを通り過ぎ、山道の奥へと進んでいった。田中は慌てて追いかけようとしたが、足が動かない。まるで看板に縛られているようだった。
「待ってください! あなたは何者なんですか?」
叫んでも、男は振り返らない。霧の中にその姿が溶け込むように消えていった。
夕方、小屋に戻った田中は看板を壁に立てかけ、その名前をじっと見つめていた。
「小林一郎……一体、何なんだ?」
彼は鏡を見ることを避けながら、看板を観察し続けた。そしてその夜、看板に新たな文字が浮かび上がった。
「一人目、門を通過。」
その言葉を見た瞬間、田中の脳裏にまたしても映像が流れ込んだ。小林一郎と思われる男が、暗闇の中で巨大な門を通り抜け、どこかへ向かっていく姿だった。門の奥には、捻じれた空間と無数の影が広がっている。
田中は看板から目を離し、頭を抱えた。この山道で起きていることは普通ではない。それどころか、彼自身が何か恐ろしい出来事の一部になっているのだ。
その夜、田中は夢を見た。夢の中で彼は再びあの門の前に立っていた。門の奥からは、次々と名前が囁かれてくる。その中には自分の名前も含まれているような気がしてならなかった。
田中は目を覚まし、額に浮かぶ汗を拭った。そして、壁に立てかけられた看板を恐る恐る見た。
そこにはまた新たな名前が刻まれていた。
「佐藤真紀子」
田中の心臓は音を立てて高鳴った。次は、彼女が来るのだろうか? 彼女が誰なのかもわからないまま、田中の不安はさらに深まるのだった。
(第6話 終)
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