第3話 看板の文字

田中は三日目の朝を迎えた。小屋の中は冷え切っていて、薪ストーブの火も心なしか湿っぽい。朝食を済ませ、看板を背負う準備をしていると、ふと昨日の文字を思い出した。


「迎える者あり。立つ者あり。」


それが何を意味するのか、田中にはわからない。しかし、ここに来てから起きているすべてのことが異常だ。足音、靴、そして看板に浮かび上がる文字。何かが、この山奥で動いている。


「どうせ、立つしかないんだ。」


そう呟き、看板を背負った田中は、いつもの山道へと向かった。


道端に立ち、何もせず時間を過ごすのは苦痛だった。風が葉を揺らす音、鳥の声、そして自分の足元で鳴る砂利の音――それだけが彼の世界だった。時計を何度も確認し、時間が過ぎるのを待つ。しかし、その日は何かが違っていた。


昼を過ぎた頃、田中は突然背後に気配を感じた。


振り向くと、数メートル先に見知らぬ男が立っていた。中年の風貌で、ぼろぼろの作業着を着ている。顔は無表情だが、目だけがぎょろぎょろと不安定に動いている。


田中は恐怖を感じながらも声をかけた。


「何か御用ですか?」


男は答えない。ただじっと、田中の背負う看板を見ている。その視線は異常に鋭く、まるで看板そのものを「読んでいる」ように見えた。


数秒の沈黙の後、男は唐突に笑い出した。乾いた声が森に響き渡る。


「見つけた……やっと見つけた……。」


その言葉を残すと、男は田中を無視して森の奥へ歩き出した。田中は慌てて追いかけようとしたが、数歩進んだところで男の姿が消えていた。


「なんだ、あれ……?」


全身の力が抜け、足が震える。こんな場所に誰も来るわけがないと思っていた。だが、明らかに「何か」が田中を観察している。それも、看板を通じて。


夕方、田中は小屋に戻ると、看板を壁に立てかけていつものように椅子に腰を下ろした。だが、目を閉じた瞬間、頭の中に奇妙な映像が流れ込んできた。


それは見知らぬ場所だった。暗い森の中で、無数の人影が看板を囲むように立っている。彼らの顔はぼやけていて判別できないが、全員が何かを待っているようだった。


「……なんだこれ……?」


田中は慌てて目を開けたが、頭の奥で低い声がまだ響いていた。


「立て……待て……迎えよ……」


その声に呼応するかのように、部屋の隅に立てかけた看板が音を立てて倒れた。驚きながら看板を拾い上げると、そこには新たな文字が刻まれていた。


「最初の者は通過した。」


田中は息を飲んだ。「最初の者」とは、あの男のことだろうか? 彼が何者なのか、なぜこの看板を見た後に森へ消えていったのか、何もわからない。


その夜、田中は眠れなかった。窓の外に誰かが立っているような気がしてならなかった。実際には何も見えない。だが、感じる――何かがそこにいることを。


「迎えよ……か。」


声に出してみるが、その意味は闇に飲み込まれるだけだった。そして、その時ふと気づいた。


この山奥には、ただのサンドウィッチマンを求めるだけの仕事など存在しない。この看板には何かが宿っている。それが、田中の役割を決めている。


彼は薄暗い室内で一人、小さな窓を見つめながら静かに震え続けた。


(第3話 終)

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