第1話 契約の地
田中雅也がその仕事を見つけたのは、最寄り駅の掲示板だった。書き込まれていたのは、古びたチラシ一枚。
「住み込み可、未経験歓迎、高収入。静かな環境で働きたい方募集。」
仕事に失った希望を求めるように、そのチラシに書かれた番号に電話をかけた。話は驚くほど簡単に進み、翌日には面接と称して町外れの喫茶店に呼び出された。現れたのは、スーツ姿の無表情な男だった。
「仕事内容は、山奥の指定された場所で、看板を背負って1年間立つことです。詳細は必要ありません。契約を守れば高額な報酬をお支払いします。」
男の説明は無機質で曖昧だった。しかし、田中には選択肢がなかった。住む場所も、まともな仕事も失った今、提示された条件は魅力的に思えた。
「契約書にサインしてください。ただし、途中で逃げ出した場合、報酬はお支払いできません。」
男は淡々とそう言い、田中の前に契約書を差し出した。
翌週、田中は荷物一つで指定された山奥へと向かった。道中、車に揺られながら、ふと不安が頭をよぎった。
「本当にこれ、大丈夫なんだろうか……?」
運転手は答えない。ただひたすら山道を進んでいく。森が深くなるにつれ、昼間なのに薄暗さが増していった。やがて車は、ぽつんと建つ小さな山小屋の前で止まった。
「ここがあなたの住まいです。あとは指示通りに。」
運転手はそれだけ言うと、車を回して来た道を戻っていった。
山小屋は古びていたが、一応生活できるだけの設備は整っていた。机の上には、簡単な案内書が置かれていた。
「毎日、看板を背負い、指定された道に立つこと。朝8時から夕方6時まで。」
それだけだった。看板は小屋の隅に立てかけられており、古びていて、何も書かれていなかった。
「これで本当に意味があるのか?」
疑問を抱きつつも、田中は翌朝から指示通り看板を背負い、山道に立つことにした。
初日、山道には誰も通らなかった。風が木々を揺らし、鳥の声が響くだけの静寂。田中は立ちながら、ぼんやりと景色を眺めていた。
午後になる頃、不意に背中に違和感を感じた。看板が、かすかに振動しているような気がしたのだ。振り返っても何も変わらない。しかし、その時、背筋に冷たいものが走った。
「よく来たな……。」
背後から、低く掠れた声が聞こえた。慌てて振り返ると、そこには誰もいなかった。ただ、森の奥深くに、何かの気配を感じた。
田中はその日、夕方まで立ち続けた。誰も来ない山道で、誰に向けて広告をするのか分からないまま。そして帰り道、ふと気づいた。
看板が、わずかに重くなっている。
小屋に戻った田中は、看板を壁に立てかけると、深いため息をついた。そして気づいた。看板の表面に、いつの間にか薄く文字が浮かび上がっていることに。
「待つ者あり。立つ者なし。」
その言葉の意味を考える間もなく、田中は不安に包まれながら眠りについた。その夜、小屋の外から誰かが歩き回る音が聞こえたのだった。
(第1話 終)
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