第23話

「ねぇ」

「何?」

「これいつまで続ければ……」

「私が良いって言うまでよ」

「はい……」


 はじめに調子に乗って出鼻を挫かれたことで、勉強のことに関しては秋川に一任してあり、あまり大きな声で文句は言えない。

 しかし何の意味があるかもよく分からない漢字の書き取りを繰り返してると、段々飽きてくるというか……。


「言っちゃ悪いけど、あなた字下手なのよ」

「……自覚してます」

「あんな暗号みたいな文字を解読しないといけない私の気持ちを考えて。漢字覚えるついでに字を上手く書けるようになって頂戴」

「はい……」


 勉強時間は、とりあえず毎日1時間ということになった。どれだけ忙しい日でも、必ず1時間は机に向かって勉強し、その間テレビや音楽、スマホといった娯楽の品は遠ざけられる。

 何も面白くないだろうに向かいに座ってじっと私を見てる秋川が話し相手になってくれるからギリギリ発狂しないでいられるけど、一人でこれをやるのは無理ね。3分でスマホに逃げるわ。勉強出来ないわけだ。


「……あんたもこれやったの?」

「私、小学校の間は普通に学校通ってたから。小学校の範囲は別に復習してないわ」

「あー、そっかノービスの時は大会とか出なかったから暇だったのね」

「…………別に出てないわけじゃないけれど」

「……ごめん」


 素で煽るみたいになっちゃったけど、怒ってないみたい。セーフ。

 でも秋川の言う通り、スケートの大会は勝てる実力があると同じシーズンに何回も何回も大会に出ることになるが、勝てない選手は最初の1回で終わるものだ。

 私とかノービス時代から海外遠征行ってたけどそれは本当に上澄みの数人だけだし、ノービスの大会を捨ててた(本人曰く捨てたわけではないらしいが)秋川の小学生時代のスケジュールは随分スカスカだったことだろう。

 中学に上がり、ジュニアに入ってからは私と同じくらい忙しかったはずで、そうなると日本に住んでてもほとんど中学には通えてないはずだけど――


「最初に言ったけど、ともかく2年生に上がるまでに最低限、私が高1になった時と同じくらいまでは勉強出来るようになって」

「……どのくらい?」

「小6までの範囲と、中1の少しね」

「えっ、そっから1年で60位まで上がったの!?」


 どういうこと!? 中1から中3までの3年分あるんだよね!?


「1学期の期末試験は7月だから、3か月もあるわよ」

「……3か月で中学3年分の勉強したの?」

「そうね」

「…………」


 引くわー。いや理論派な秋川は元から勉強嫌いなわけではなかったのかもしれないけど、驚くどころかだいぶ引く。3年を3か月に短縮とか普通無理なんだわ。


「……スケートやめて、1日が48時間くらいに感じるようになったのよね」

「あ、それ分かる。でもスマホばっか触ってたら体感3時間くらいになったけど」

「スマホ捨てなさい」

「捨てんわ」


 でも気持ちは分かる。全力でスケートやってたあの頃の私、気付いたら中3になってた。

 毎日毎日毎日毎日同じことばかりを同じ人たちと一緒にしていたら、時間の感覚が段々と狂ってくる。そんな積み重ねで強くなるというのは分かるけれど、青春をどこかに置いてきてしまった喪失感は、辞めた時に強く感じたものだ。

 将来の目標を決めて、少しだけ前向きになれたけど――、引退してから高校入るまでの半年ちょっとの私、相当荒んでたと思う。


「でも、意外よ。英語は分かるのね」

「まぁコーチとは英語で喋ってたし……、そんなに意外?」

「えぇ意外よ。リスニングもスピーキングも出来るのに全くテストに活かせないところとか」

「うっさいな」


 だって実地で無理矢理覚えた英語だし。

 最初は親の計らいで通訳付きでロシアに移り住んだけど、そのうちなんとなーくロシア語の聞き取りが出来るようになって、コーチの喋る英語も(あちらが幼児向けくらいに簡単な言葉と文法くらいしか使わないからだが)聞き取れるようになったから、通訳無しで生活できるようにはなったのだ。

 まぁ2年以上ロシアに住んでても日常的なロシア語はほとんど喋れないままで、英語中国語ロシア語スペイン語が喋れるペンタリンガルな母親と一緒にしか買い物とかお出掛けは出来なかったんだけどね。


「……文法とか、知らなくてもなんとなく話せるし」

「その『なんとなく』が幼稚園児レベルってことを除けばだけど……」


 うっさいな。


「とっ、ともかく、今は国語でしょ国語」

「そうね、英語より絶望的な進捗具合の、国語ね」

「……本文の意味を答えなさいとか分かるわけないんだけど」

「そういう性質の問題、作者すら答えられないって言うわ。正確には問題の出題者が想定してる答えを見つけるのが目的の問題なの。裏を読めば簡単よ」

「クソみたいな問題ね……」

「普通の子はそのクソみたいな問題を小学生のうちから解いてるのよ」

「小学生偉すぎでしょ……」


 学校にも通わずスケートだけしてた私が馬鹿みたいじゃない。いや実際そうなんだけど。

 で、でも小学校低学年くらいのうちはちゃんと学校通ってたのよ? 3年生くらいになったら――スケートリンクの貸切時間が夜中なのもあって授業中ほとんど寝ちゃってたから、もう通わないでもいいかなと通うことすら放棄したんだけど。


 しばらく意味の分からない書き取りを繰り返していたが、ようやくタイマーが鳴って一気に力が抜ける。


「……疲れた。もう一生勉強したくない」

「まだ始めて1週間でしょう?」

「それはそうだけど……」


 そう、何カ月もやってるようで、実はまだ1週間なんです。

 秋川が同居を始めて2週間になり、そちらは案外慣れてきた。家に知らない人が居ること自体は昔からあったしね。家が大きすぎるとお手伝いさんとかよく知らない親戚の人とか、よく来てたし。

 そんな生活をして一々気をもんでたら疲れるので、知らない人が居ても知らないなりに流せるようになったし、話せそうな人なら暇つぶし程度には話すようにはなっていた。そのスキルがここでも生かされているのだ。


「夕飯、どうしよっか」


 時計を見ると、まだ16時――しかし、夕飯を宅配前提で生活してる身なので、早めに決めておきたいのである。ピーク時はすぐ届かないからね。


「……それなら、ちょっと出かけたいところがあるんだけど」

「えっ、珍しい。なんか食べたいものでもあったの?」

「あ、いえ、そうじゃなくて……」

「ん? 夕飯だよね?」

「……図書館に、行きたいの。本返しに行くの忘れて」

「あー……」


 それは、まぁ、うん。私の責任だな。

 だって授業後すぐに家で勉強始めてるし、それに毎日付き合わせてるので解放するのは夕方くらい。それに図書館って、たぶん立川のよね? 行くのに1時間以上かかるし、夕飯食べた後で向かうと閉館までに間に合わないのだと思われる。

 別に私を放置して行っても良かったのに、変なとこで律儀だな、こいつ。


「じゃ、夕飯もそっちで済ましましょ。本はどこにあるの? 実家?」

「あ、いえ、こちらに持って来てはいるから、直接向かえば良いわ」

「おっけ、出かける支度――、は、まぁこのままでいっか」


 「そうね、」と立ち上がった秋川が鞄から取り出した――辞書みたいな分厚い本。えっそれ読んでんの? 狂いそう……。

 私の視線だけで何を考えてるのか察したか、「この作者、いつもこのくらいの厚さよ」と教えてくれる。

 そんなんばっか読んでるから目ぇ悪くなんのよ、というツッコミをしそうになったが、――耐えた。えらい。成長してるね私。

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