第19話

「おーはよー……」

「ちょっと、遅いわよ」

「だって昨日夜中までさぁ……」

「……どうせまた遅くまでドラマ見てたんでしょう。自業自得よ」


 大きな溜息を吐かれ、ようやく目が冴えてくる。


 冬休みも終わり、3学期が始まろうとしている。

 たった2週間の冬休みなのに、あまりに多くのイベントが発生した。

その中でも一番おかしな出来事は――


「今日のごはん、なにー?」

「パンよ」

「……知りたいのはそれ以外の部分ね」


 毎朝パンじゃない。今日で朝パン7日目よ。


「卵と、ブロッコリーを茹でたわ」

「…………それはどうも」


 減量中のボクサーかよ。


 一番の変化、それは、一人暮らしだったはずの私の部屋に、同居人が増えたということだ。

 秋川奏。――こいつは年末から、私の家に引っ越してきた。

 というのも、秋川家にはトレーニング機材を置くスペースもお金もなく、予定通り買ったものは全部私の家に送ったのだ。


 しかし、秋川の家から私の家まではざっと1時間かかる。毎日往復2時間以上を電車で過ごすのはあまりにも勿体ないという言に説得させられ、荷物を持って押しかけてきたのが年末のこと。

 それから1週間私の家で生活している秋川は、まぁ朝が早いこと早いこと。

 6時くらいには目覚ましてルームランナーで軽く(といっても1時間くらい)走ってる。ダイエットのためかと思えば、別にそういうつもりでもなく、現役時代はそのくらい走り込んでいたらしい。


 居候してるから朝食くらい作ると言われたけど、完全栄養パンだけで生活してる女をキッチンに立たせるのは本当に怖かったが――、案外普通の朝食(といっても洋食オンリーかつ主食は毎回パン)が出てきて逆に驚いた。

 複雑な調理は出来ず、卵を茹でたりサラダを作ったりウインナーを茹でたり――、そんな程度の調理スキルだが。普通の女子高生はこんなものだ。


 どうして自宅では何も作らなかったのか聞いてみたら、「時間が勿体ないから」だそうだ。まぁこれまで登校に1時間以上かかってたんなら仕方ないか。

 その点、私の家から高校までは徒歩5分である。ギリギリまで寝てても間に合う。

 秋川は毎朝6時くらいには食事を済ませているようだから、私が起きてくる時間に合わせて自分と同じものを作ってくれたのだろう。まぁこの減量中のボクサーみたいなメニューはどうかと思うけど。


「いただきまーす」


 ゆで卵にはマヨ派な私のために、食卓には親切にマヨが置かれている。――ゆで卵食べるの3回目だからね。レパートリーがほんとに少ないの。やっすいビジホの朝食バイキングでももうちょっと品目あるわよ。ハムとかウインナーとかさ。

 しかし不満を口にしたら、秋川のことだ。売り言葉に買い言葉で「じゃあ自分で作って。明日からは作らないから」と言うに決まっている。暖かいごはん(パンだけど)が食べられるだけ感謝しないといけないことは分かってるので、それ以上の文句は言わない。

 学校行く途中で立ち寄ったコンビニで菓子パン一つ買って学校着いてから食べるよりよほど健康的だしね。

 スーパーで買ってきたライ麦パンにバターとジャムをたっぷり塗っていると、ドン引きした様子の秋川が向かいの席からじっとこちらを見ている。


「……太るわよ」

「まぁあたしは太ってもあんまり問題ないし」

「ぽっちゃりはタイプじゃないのだけれど」

「うっせ」


 なんで秋川のタイプにならないといけないのよ。というかこれでも平均体重より全然軽いんだっつーの。骨がスカスカだからね。うっさいわ。

 ゆで卵(ブロッコリーの後に茹でたであろう、殻がうっすら緑に染まっている)の殻をむいてマヨを垂らし齧る。私好みの半熟だ。マヨも高級スーパーの一番高い瓶のやつだし、不味いわけがない。


「そろそろルームランナー以外も欲しい?」

「……まぁ、そうね。走る以外だと自重トレーニングくらいしか出来ないし」

「バレエレッスン用の鏡とかは?」

「……いくらでも大きい鏡あるじゃない。それ借りるわよ。あえて買うほどじゃないし」

「そう? あたしの実家、鏡張りの部屋あったけど」

「あなたの家、学校の怪談に出た?」

「出ねーよ。上手く配置されて合わせ鏡にはならないようになってたの」


 フィギュアスケーターはみんな陸トレーニングでバレエを習うものである。私はサボり気味だったけどね。

 でも強化合宿によく来てたバレエの先生、陸で助走一切せず3回転ジャンプ跳べてたから、レッスン適当に流してた子もあれだけは感激してたわね。


「そういえばさ、」

「何?」

「あんたの最高得点って235点でしょ?」

「235.79点よ」

「細かいわ。んで、前の碧ちゃんが221点でさ」

「……それで?」

演技構成点PCSが相当低くてあれだから、あと10点ちょっとは1年あれば余裕で稼がれると思うんだけど、どうする予定?」

「どうするもこうするも……、なるようになるでしょ」

「でも優勝以外されたら困るんだけど」

「……どうして?」

「あんた競技引退して1年経っててさ、んでこっからはブランクもあるわけじゃん」

「そうね」

「復帰したばかりの全日本で自己最高得点更新したら……、カッコよくない?」

「…………それで?」

「あれっ、反応そんだけ?」

「だって、勝てる構成作れたら勝てるし、作れなかったら勝てないでしょ」

「かーっ、これだから博打しない女は……。つまんねー」

「つまるつまらないの問題じゃないの。勝てる時は勝てる、勝てない時は勝てないものよ。……まぁ、」

「まぁ?」


 少し言いづらそうに顔を逸らされる。いつも自信満々な秋川にしては珍しい表情だ。


「碧ちゃん――、いえ、が来年までにもう1本4回転跳べるようになったら、流石に今の構成じゃ勝てないわね」

「あら弱気。どうして?」

「物理的に不可能なのよ。仮に私が演技構成点PCSで全項目9.5点取ったところで4回転3本跳ばれると技術点TESで15点差付けられるもの。ライバルがミスするのを期待するみたいな希望的観測をするつもりはないし――、明城さんが演技構成点PCSで安定して8点取れるようになったら、もう今の3回転だけじゃ絶対届かないの」

「わぁ理論派」


 どっかの誰かさんって誰のことかな? 殴って良い?


「こんなのただの算数でしょう。そのくらい考えなかったの?」

「いやだって、練習で跳べても本番で全部跳べるとも限んないわけじゃん? 今出せる最高得点がいくつになるかくらいは考えるけど、人の構成見てから自分の構成変えたりはしなかったからね。常に自分が出せる一番高い得点狙いに行ったわ」

「……脳に何入ってるの? 蟹味噌?」

「わぁ美味しい。うっせー」


 まぁ推薦出場を除けば市来奏以外で私に近い点数出せる選手なんて一人も居なかったから、意識するのもこいつ一人だけだったしね。

 全部ノーミスで跳べて、かつ高い加点されれば勝てるはず――、常にそんな戦いだった。まぁ失敗したんですけどねっ。そう都合よく行かないのよ現実はね。


「ってことは、復帰試合は4回転必須ってわけね」

「……私一度も4回転の練習すらしたことないのだけれども、1年で覚えられるものなの?」

「あたしは3日くらい練習したら跳べるようになったけど」

「あなた一人だけ違う重力下で生活してたりしない?」

「しねーわ。1Gだよ」


 ボケたのかと思って突っ込んだのに、怪訝な顔で返される。いや今のはボケじゃないのかよ。真顔だからボケと素の違いがわかんねーのよ。


「……覚えるなら、ループかしら」

「えっ、よりにもよってなんでループ? 無難にサルコウかトゥループじゃないの?」

「私、足首固いのよ。たぶん遺伝ね。だからトゥループは得意じゃないの」

「…………そうなん?」

「土門コーチくらいしか知らないでしょうけどね」

「トゥループでも出来栄え点GOE結構稼いでたでしょ?」


 ジャンプの中では一番点数の低いトゥループは、跳びやすい代わりに足首への負担が大きい。練習のし過ぎで捻挫する子も多いジャンプだ。


「一度ちゃんと覚えれば、苦手でも跳べるわよ」

「…………そういう女か」

「そういう女よ」

「じゃ、サルコウは?」

「……サルコウ、身体流れちゃうのよねぇ」

「えっ、あれわざとじゃなかったんだ……」

「減点はされない範囲だけどね、合宿の時はよく注意されてたわ」

「カッコいいからやってるだけだと思ってた」

「そんなわけないでしょう!? ……っていうか何、カッコいいとか、そんなこと思ってたの?」

「思ってた……」


 トゥループに次いで難易度及び点数が低いサルコウジャンプは、私が一番得意なジャンプだ。市来奏のサルコウ、減点取られない程度に着氷姿勢を変形させていたから、カッコよさを追求してやってたんだとばかり思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。

 でもそういえばこいつ、サルコウはほとんど構成してなかったっけ? スケートって苦手なジャンプがあれば跳ばない選択肢もあるから、得意不得意で多少構成が偏ることもある。私とかは一番得意なのがサルコウだから限界まで増やしてたんだけどね。


「でも、よりにもよってループはないんじゃない? フリップとかルッツのが……」

「なんでそう思うの?」

「……4回転ループなんて、公式大会で成功した女子選手一人も居ないでしょ」

「そうね」


 あっさり返され、流石にこのくらい知ってたかと嘆息。

 そもそも女子選手は4回転ジャンプを跳べる選手がほとんど居ないというのもあるが、その中でもループジャンプで4回転を跳べる選手は居ない。それより得点が高いルッツやフリップで4回転ジャンプをする選手が居ても、だ。

 とはいえ男性選手はぴょんぴょん跳ぶから、これは男性と女性の肉体的違いとか、トゥループとサルコウの次に覚えるであろうループに辿り着く前に引退することが多いとか――、まぁそんな理由であろう。


「じゃああなたは、シニアの全日本に13歳で推薦出場してそれから3連続優勝するのと4回転ループ覚えるの、どちらが難しいと思う?」

「えっ、……そりゃあ、全日本の方かな」


 だって全体未聞だし。ループジャンプはジャンプの中では下から3番目という得点が示している通り、ジャンプの難易度は4回転全体から見たら高すぎるわけではない。得意とする女子選手が一人も居ないというだけの話である。

 人類で油谷慎吾一人だけしか跳べない4回転アクセルと比べたら、確かに4回転ループの難易度は低いだろう。しかしそれは「宇宙に行くのと深海に行くの、どっちが難しい?」と聞くようなものである。普通はどっちも無理だ。


「でも、あんたのルッツ綺麗だったから、どうせならルッツで跳んで欲しいな」

「…………」

「なんで黙んの? また成功率の話?」

「……いえ、本当にそう思ってた?」

「え、うん。あたしルッツ一番苦手でいっつも減点取られてばっかだったけど、あんたは違ったでしょ」

「……その割に、いつも3回転してたじゃない。2回転にすればいいのに調子に乗って跳べもしない3回転にしてエッジエラー喰らって……、みっともなくて見てられなかったわ」

「うっさいなぁ!? だって2回転ルッツで出来栄え点GOE貰うより3回転ルッツのエッジエラーで減点された方が得点高いのよ!? 2回転にする理由ないじゃない!」

「失敗前提で構成してたのね、信じられない。だから演技構成点PCS低いのよ」

「常に成功するつもりだったけど……!?」


 事実ではあるんだけど、こうして煽られると普通に腹立つな。荒唐無稽な悪口より事実をその通りに指摘された方がムカつくの。

 ルッツジャンプはかなり繊細なので、ベテラン選手でも減点が取られやすい非常に難しいジャンプだ。私の場合はルッツの成功率を上げるために使う時間を他の4回転ジャンプ習得に使いたかったから、結局引退するまでルッツは苦手なままだった。


 でも、秋川は違った。ベテラン選手顔負けの綺麗なフォームで、私が減点されてばかりのルッツで毎回高い加点を貰っていた。……憧れないわけ、ないでしょ。


「でももし4回転ルッツ跳べるようになったらジャンプ1本で11.5点も稼げるようになるわけでしょ?」

出来栄え点GOE+4で16点は固いわね」

「まだ4回転一つも跳べないのにその自信何!?」

「私、出来栄え点GOE+4狙えるジャンプしか構成したくないの」

はっらたつなぁ……!」

 ちなみに出来栄え点GOEってのは要素に対する加点で、最高値の5を獲得すると得点が1.5倍にまで上がる。ただ仕様上5を獲得するのは現実的にはほとんど不可能なので、たいていの選手は4を目指すものである。


 そう、『目指す』、だ。これは野球で言うと全打席ホームランを目指すとかそういう話になってくるので、体力に余裕のある序盤はともかく、体力が減ってくる演技終盤にまで同レベルの加点を貰うのはあまり現実的ではない。


「いつもながら石橋をコンクリートで固めてから渡るタイプね、あんたは」

「コンクリートは石製よ? そんなことも知らないの?」

「うっさい」


 そうだったんだ。長尺だった悪口が短くなって、破壊力が増した気がするな。


「……それにほら、油谷くんもルッツ得意だったし」

「一応聞いておくけど、あの人苦手なジャンプとかあるの?」

「…………なさそうだけど」


 あの人が苦手なもの……、そういえば以前「緑の野菜は生で食べない」みたいな話してたっけな。野菜かぁー……。

 ふと時計を見て、そろそろメイクしなきゃな、と残ったパンを口の中に詰め込み、使った皿やコップを食洗器に突っ込んで化粧ポーチを持って戻る。


「ほら、こっち座って」

「……どうして?」

「あんたのメイクから先にすんの。それとも一緒に登校するとこ皆に見られて噂されたい?」

「別にしなくて良いのだけれど……」

「あたしが嫌なの。ほら顔貸せ。あと頭も」


 秋川が若干不服そうな様子で(しかし顔はちょっと赤い)近くの椅子に座るので、化粧水を顔にぶちまけ――「ひゃっ」変な声出すな。


 と、のんびり秋川のメイクしてたら自分のメイクする時間がだいぶ減ってしまったので、先に家を出る秋川を見送ると、とりあえず目元優先で描いて――


「……なんでこんなことしてんだろ」


 嫌いな女と一緒に住んで、嫌いな女の作った朝ごはん食べて、嫌いな女のメイクして――

 理屈で考えたら、全く理解出来ないことをしている自分に、どこか笑えてきた。


「前からこんな関係だったら、もう少し違ったのかな」


 誰に言うでもなく、そう、小さく呟いた。

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