第14話

「人の気も知らないで……っ!!」


 地団太を踏みそうになるのを、なんとか堪える。最上階だもの、下に住んでる人が居るわよね……。


「はぁ……」


 借りた服に、鼻を埋める。

 髪を切られ、メイクされてる間ずっと感じていた、仁井ひなみの匂いがする。

 たぶん柔軟剤だろう。あの子はランチから帰ってすぐ着替えてたから、この服と同じ匂いがするのも当然だ。

 ジャスミンを思わせる、軽めの香り。安物の柔軟剤にありがちな人工的で強い香りとは全く違うこの香りを、3時間以上ずっと近くで感じていた。

 これまで、あの子とここまで接近していたことはない。合宿で同じ部屋になった時も、口を開くとすぐ喧嘩しちゃうからお互い避けていた。


「スマホも、服も、家も、……スケートも、」


 全部、ぜーんぶ。

 私が失くしてしまったすべてを持っている彼女は、当たり前のようにそれを私に与えた。


 私のことが、ずっと嫌いだったはずなのに。


 私だけが、ずっと好きだったはずなのに。


 文句を言いながらも、呆れながらも、しかし拒みはしなかった。


 まさか高校で再会出来るなんて、思ってもみなかった。

 見た目は、――随分変わっていたけれど。

 東京に行けば、どこかで会えるかも。そんな気持ちがなかったわけではない。

けれど、東京に住む人間の数、東京に通う人間の数を思えば、数千万人のうち一人だ。


 ――もう、会えないと思っていた。


 けれど、会えたのだ。


 また昔のように悪態を吐いちゃったのか、すっごく恥ずかしかったけれど。


「照れ隠し、よね……」


 私は、自分の気持ちを知っている。

 彼女に憧れる気持ちを、抑えきれないでいたから。


 だから。――だからだろう。


 隣に立って、ちゃんと話せるようになったあの日から、私の感情は滅茶苦茶で。

 何度会っても、口から出るのは悪態ばかり。――あぁもう、自分が嫌になる。


「ねぇきみ、なんてなまえ?」


 小学1年生の頃。

 まだフィギュアスケートに興味がなかった私は、夏休みのある日、近くにあるからという理由で暇つぶしにスケートリンクに連れていかれた。


 ――そこで私は、運命の人と出会ったのだ。


「……かな」

「かなちゃんね、きょうがはじめてなんでしょ? あたしひなっ!」

「う、うん」

「かなちゃんさいのうあるよ。あたしがほしょうするっ!」


 スケートリンクには大勢の人が居たけれど、小さな身体で人の隙間を縫うように誰よりも上手く滑っていたその女の子は、ようやく壁から手を離して滑れるようになった私に、そう言ったのだ。


「みててっ!」


 そしてその子は、大勢の人が居る中――、跳んだ。

 ごく初歩的な、1回転アクセル。


 今思えば、覚えたばかりのジャンプを見せびらかしたかっただけなのだろう。

 その子は、完璧――とは言い難い着氷をしてすぐ、近くに居た係員さんに怒られていた。どうやらジャンプが禁止されている時間だったらしい。


 でも、――でも、私には。

 その子のジャンプが、これまで見た何よりも、――宝石よりも綺麗に見えたのだ。


 ――あの日が、私の転機となった。


 それから私は、お父さんとお母さんを説得し、スケートクラブに入った。

 でも、何度そのリンクに通っても、その子には会えなかった。

 名前が『ひな』ということしか知らない、可愛い女の子。

 その子の本名を知ったのは、スケートを始めて、2年は経ってから。昇級に必要なジャンプを全然覚えられなくて、大会にも出られず、スケートが嫌になってきた頃だ。


 お父さんが気分転換にと、東京に連れて行ってくれた。そこで、同い年の子の最高峰――ノービスのトップ選手たちの演技を見た。


 そこに、いた。

 ――あの子だ。


 2年ぶりというのに、一目で分かった。


 幾度となく、顔を思い返していたから。


 何度も何度も、夢に見たから。


 誰よりも笑顔で、誰よりも難しいジャンプを跳んだその子は、初出場のノービスB(小学3年生の部門)で初優勝していた。


 その子の本名が、仁井ひなみということを知った。

 お父さん曰く東京ブロックの選手のようで、あの日は偶然名古屋に遊びに来ていただけなんだろうね、と教えてくれた。


 憧れていたその子は、想像していたよりずっと遠くに居た。

 いつか、大会の舞台で会って話すんだと、あの時あなたが私を見つけてくれたから、私はフィギュアスケートの世界を知れたんだよと、それを直接伝えたかった――


「はぁ……」


 自分の性格の悪さに、溜息が漏れる。

 結局、ようやく再会できた全日本ジュニアの表彰台で、私は彼女を罵倒してしまった。

 もっと、色んなことを言いたかったはずなのに、口からはそんな優しい言葉は一切出てこなかった。

 あの日、私があんなことを言ってしまったから、私達の関係は決まってしまった。


 ――でも、


「なんっで、こんなに優しいのよ……」


 顔を合わせると悪口ばかり。そんな相手に、どうしてこうも優しくするのか。

 私のことが、嫌いなはずなのに。


 ――どうして、優しくするんだろう。


 ご飯を奢ったり、コーチを見つけたり、スマホを買ったり、家に泊めたり――


「勘違い、しちゃうじゃない……」


 溜息が、いくらでも漏れてくる。

 あの子はたぶん、誰にでも優しいのだ。そして、常人からは考えられないくらいのお節介焼きなのだ。

 そのお節介に、これまでは私が含まれていなかっただけで。


「え、何してんの」


 そんな声がして、慌てて振り返る。


「へぁっ!?」

「お風呂空いたけど、まだ入んない?」

「借りますけど!?」

「何キレてんの……?」


 頭にタオルを巻いて出てきた、憧れの人は。

 ぶかぶかのシャツ一枚で、ジトっとした目で私のことを見ていた。


 ――下着姿のまま、借りたパジャマを抱き締めていた、私のことを。


「……お借りしますっ!!」

「はいどうぞ」


 ソファから立ち上がり、お風呂場に走っていく。

 ――見られちゃったよなぁ、今の。

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