第10話
――油谷慎吾。
日本フィギュアスケート界において、彼ほどスケートに愛された人間はいないと、誰もが認める伝説の存在。
後進の育成のために引退した、市来奏と同じで、ホンモノの天才。
「……油谷くんが、どうしたの?」
「彼、私のイトコ」
「…………は?」
「あ、やっぱ知らないんだ。まぁ表立って言うことはなかったしね」
「え、待って、……どういうこと?」
「あんたでも流石に伴星堂くらいは知ってるでしょ?」
「そ、それくらいは知ってるわよ、化粧品メーカーでしょ? 馬鹿にしてるの?」
「良かった。私がそこの現社長の長女ってことも、まぁ知ってるわよね」
秋川はコクリと頷いた。まぁそこまではWikipediaにも書いてあるしね。
だが、私と油谷くんの関係を辿るのに、インターネットでは少し足りない。
「お爺ちゃん――伴星堂創業者、仁井源次郎には子供が20人くらい居てね、妻も7人居たの」
「……え、待って、それ何時代の話?」
「昭和。時代錯誤だとは思うけど、まぁそういう人だったの。んで、まぁ子供って言っても一番若くて今20歳くらいなんだけど――」
「あなたのお爺さん今何歳!?」
「79だったかな」
「……それで二十歳の子供が居るのね」
「そうね。……話戻すわよ。んで、結局家を継いだのは本妻のところの長男、つまりあたしのお父さんなんだけど、他の子は無に消えたわけじゃなくて、他家に嫁いだり婿養子に入ったりで、ほとんど仁井の姓を残してる人が誰も居ないだけなの」
「本当にそれは戦後の日本の話なのよね……?」
「そうよ。江戸時代とかじゃなくてね。で、その婿入りした家に油谷家があって、そこの次男が油谷慎吾。お爺ちゃんが一緒だから、イトコってわけ。まぁそれ知ったのも2年前のお婆ちゃんのお葬式でなんだけど」
「…………昭和って、そんな時代だったかしら」
「私の認識じゃ一夫多妻は認められてなかったはずだけど、まぁ、今よりおおらかな時代ではあったんでしょうね。あたし、油谷くんには前から引退の話聞いてたのよ」
「えっ」
「このままじゃまた勝っちゃうから、オリンピックを最後に引退するって」
「…………」
絶対王者というのは、どんなプレッシャーがあったのだろう。
恐らく、油谷慎吾の記録は未来永劫塗り替えられない。
選手寿命を延ばすという名目でオリンピック出場規定が変わったことで、12年掛けて4度のオリンピックに出場し全て金メダルを獲得するという前代未聞の記録に挑める選手は、これから相当少なくなる。
彼の時代は15歳からシニアに上がれたが、今の出場規定は17歳。仮に年齢が完璧なタイミングでオリンピックが開催されるとしても、17歳、21歳で出場したら、次の大会は25歳、その次は29歳だ。
29歳のメダリストなんて、フィギュアスケート――特にシングルの世界には、何十年と現れていない。仮に29歳のメダリストが誕生したとして、油谷慎吾の記録を塗り替えるには5回目――つまり33歳でもう一度メダリストになる必要がある。
オリンピックのメダリストたちが20代前半で引退する世界において、とても現実的とは言えないことが分かるだろう。
「と、いうわけで」
「わけで、何?」
「『ひなみちゃんは感覚派だから教えられる気はしないけど、理論派の子でコーチ探してる将来有望な子居たら紹介して』って、言われてるの」
「…………え?」
「あんた、バリバリの理論派でしょ」
「そ、そうだけど……」
秋川の、――市来奏のスケート理論が正しかったことは、彼女の経歴が証明している。
肉体の変化が大きく、大会で勝つための戦術が上の年齢区分とはだいぶ違うノービスの大会を捨てて(不本意ながらノービスは他の選手が跳べないジャンプを跳ぶだけで勝てるのだ)、推薦出場でシニアに挑める一番最初――13歳にスポットを合わせて肉体を調整した。
こいつのスケートは、完璧だった。ミスはせず、決して挑戦せず、確実に点が取れるところで確実に点を取っていくスタイル。
ジャンプの高さなんてセンチ単位で正確に、確実に高さの加点が貰えるジャストに調整されていた。審査員ウケの良い選曲に、審査員ウケの良い振り付け――、まさに、完全なまでの理論派である。
私、好きなアニソンで滑ってたことあるんだけど、
「嬉しいお誘いだけど、その……、」
「お金?」
コクリと、秋川は頷いた。
「資格も持ってないコーチはクラブチームも作れないから、まずはどこかのクラブチームでアシスタントコーチとして教えることになるだろうけど……、彼レベルなら月100万でも教わりたいって人はいくらでも出てくるでしょうね」
「ひゃ、百万!?」
「……言うてあなたのとこのコーチだってまぁまぁ取ってたでしょ」
「え、」と声を漏らす。たぶんこいつ親に指導料のこと話されたこともないんだろうな。
10年以上前とはいえオリンピック日本代表に選ばれてメダル取ってるような人がコーチなんだから、少なく見積もっても月50万くらいは取られてたはず。たいした経歴もないサブコーチならもっと安いんだけどね。
ちなみに私を現役最後に教えてたコーチは1時間1万ルーブル――日本円換算で1時間17000円くらい、それを毎日3時間×30日(当然休みの日もあるが)で、月150万円くらいだったかしら。
「それから、リンクの使用料にスケート靴に遠征費用に――諸々考慮すると毎月プラスで30万くらいはかかるかしら」
「…………」
「高校生バイトじゃ絶対稼げない額ね。お母さんは出してくれそう?」
「……絶対、無理」
「あっそ、あんたのお母さん、スケート興味なさそうだったものね」
市来奏のお母さん、練習にも試合にも常に同行する割にスケートの知識はないようだったし、あまり他の選手の親とコミュニケーションを取っていた様子もなかった。スケート自体にはそんなに興味がなかったのだろう。
みんなの親、私のとこもそうだけど、現役選手してる子供よりスケートオタクだったりするのよね。親同士が集まってもいっつもスケートの話ばっかしてたし、何百万何千万と子供のスケート費用を捻出するような人たちが、スケートに一切興味ないことなんて稀である。
「親の理解がなければ、絶対勝てない世界なのよね」
「…………えぇ。だから、私はもう二度と選手には戻れないの」
「戻らないんじゃなくて、戻れない、なの?」
「……え?」
「戻れるなら、戻りたいの?」
「…………」
その気持ちを、聞きたかった。
私が居ない氷の上に、こいつは戻る覚悟があるのか、知りたかった。
――して、答えは。
「……戻れるんなら、戻りたいわよ」
小さな、か細い声で、秋川は呟くのだ。
誰に言うでもなく、ただ、懇願するような、弱々しい声で――――
「あっそ」
「あっそって、これでも、精一杯答えたつもりなんだけど」
「……それが聞きたかったのよ」
「……え?」
あぁ、良かった。
こいつもやっぱり、氷の上に未練はあったのだ。
私が居なくてつまらないというのは、確かにあったろう。――それでも、
氷の上しか知らない私たちが、そこから離れて生きられるはずがないのだから。
私たちの魂は、氷の上に囚われている。
――きっと、これからも、ずっと。
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