第9話

 ――市来奏は、引退すべきではなかった。


 彼女の引退は、フィギュアスケート界における、大きな損失だ。

 選手として見たらライバルで、一度も勝てなかった因縁の相手だけど、ファンからしたらそうではない。居なくなった理由を、知りたいのだ。


「なんとかトップに食らいついてた私みたいなニセモノと違って、ホンモノの天才のアンタはさ、何をしてでも氷の上にしがみつきたいなんて思ったこともないんでしょうね」

「……え?」

「あたしが引退するの決めた時、お爺ちゃんなんて言ったと思う? 『充分広告塔になってくれたから、あとは好きに生きるといい』よ? 何よ広告塔って。あたしは自分の為に滑ってたのに、いつの間に会社のために滑ってたの? ホント、意味分かんない……」

「でも、でもそれは……、」

「えぇあたしの家の都合よ? でも、私はもう競技を続けられなかった。医者にも止められたし、ボロボロの足は今でも走ることすら許してくれないけど――、でも、でもアンタは違うでしょ? まだスケート続けられたんでしょ?」

「そう、そうだけど、でも――」

「……もう、ホント、なんなのよ」


 意味が分からない。

 ハサミを握っていた手から、すっと力が抜ける。


 こんな女に、本気で怒ってしまう自分に腹が立つ。

 一度も表彰台の真ん中を譲らなかったこいつが、あっさりと引退したこいつのことが、


 ――私は、本当に嫌いだ。


「親が離婚して、お金がなくなったのが原因なの? 今からでも、お金あればスケートやる気はあるの?」

「…………ないわ」

「どうして? スケートに未練はないの? 一位を取ったから? もう自分より強い相手が居ないから?」


 ――そう、本当に、現役時代の市来奏は凄かった。

 シニアの全日本選手権に推薦出場出来る最年少の13歳で優勝するというのは、ルール上不可能ではないが、現実的でもない。

 少し前までただの女子小学生だったのに、突然オリンピックの代表や世界の強豪選手たちと競うことになるのだ。


 市来奏が初優勝を飾った全日本には、オリンピックで銅メダルを獲得した超有力選手だって居た。そんな中で優勝するというのは、才能も環境も、すべてが揃った一握りだけで。

 市来奏は、その一握りになれる存在だった。日本中、いや世界中が、市来奏が数年後のオリンピックで表彰台に上る姿を想像した。


 ――それなのに、こいつは引退した。理由も、何も告げず、記者会見すらなく、表舞台から去ったのだ。


「……あなたには、分からないわよ」

「分かるわけ、ないでしょ」

「私が辞めたのは、」

「未練がなくなったから? お金がなくなったから? はいはいこれだから勝ち逃げした女は余裕がありますねぇ」

「…………は?」


 ……は?


 えっ、いや、待って。

 こいつ、今なんて言った?


「あなたが引退してからはどんな大会に出ても、……もう、つまらなくて」


 私が大怪我をして、すっと熱が冷めたように。

 ――こいつにも、そんな日があったのだ。


「あなたは私の、――うぅん、私達の世代にとっての憧れだったのよ。知ってる?」

「しっ、……知ってるわよそのくらい」


 そりゃそうよ。全日本ノービスを4連覇出来る小学生なんてそうそう居ない。長い歴史において、たった3人しか居ない偉業。そして超大金持ちで、あと可愛い。同世代が私に憧れるのも当然だ。そこだけは全然驚けない。――相手が秋川でなければ、だが。


「あなたが居ない氷の上は、本当につまんなかった」

「…………どうして」

「あなたには、分からないでしょうね。だって、あなたは――、

「し、知ってるわけないでしょ」


 私は、生まれた時から私だ。


 だから、私の居ない世界なんて私は知らない。


 氷の上にいられなくなった私は、もう、ただの人間になるしかなくて。

 すべてを諦め、過去のことを考えないようにして、未来を生きようと思った。


 ――なのに、


 私の居た氷の上に捉われていた人間が、


 ――そいつは、何を想って氷の上で演技をしていたのだろう。


「だから、私はスケートを辞めたのよ。……姫乃さん、初対面なのによく分かったわね」


 自嘲気味に笑われて、姫乃の読みが正しかったと今更知る。


『ひなみが先に辞めちゃったから?』


 姫乃に言われて、秋川は顔を真っ赤にしていた。否定も、肯定も、いつもの悪態も吐かなかった。


 しかし、そんな、

 そんなことと言われても、もう私にはどうしようもない。


 怪我をして、医者に、もう二度とシングルの選手には戻れないと言われた時、「あぁ、よかった」と、私は心の底で思ってしまった。

 氷の上でしか生きられないと思っていたのに、氷の上に二度と立てないと言われて、私は安堵してしまったのだ。


 ――だって、


 だって、もう私は勝てないから。

 食事制限によって無理に細く痩せた身体を作っても、市来奏には勝てなかった。

 私は所詮、一番スケートが上手かっただけ。中学に上がっても、一番になれるような器ではなかったのだ。


 それでも私は、羨望のまなざしを向けられることに慣れていた。

 ジュニアに上がっても、市来奏以外に負けることはなかったから。

 日本だけでない、――世界でも、だ。


 私より強い同世代の選手は、世界中探しても市来奏、ただ一人だけだった。

 だから、至極当然の話だ。私と同世代の選手は、みんな私を見ていた。私より上の世代は、私が同じステージに上がってくるのを恐れていた。

 私を嫌いという人に会ったことはなかった。お金持ちの家に生まれて、才能を持っていて、サポートもあって――、世界は自分を祝福してくれていると、心の底から信じていた。

 私を愛してくれていたはずの世界が私の敵になったのは、市来奏と出会ってからだ。


 だから、私は、


 ――私の世界を壊した市来奏のことが、嫌いになった。


 全日本ノービスを4連覇して天狗になっていた私は、ジュニアに上がるまで自分と互角の女子選手を一人として知らなかった。

 出る大会出る大会、片っ端から圧勝し、一度として他者の追随を許さなかった。


 フィギュアスケートは、氷の上に長く居たものだけが強くあれるスポーツだ。

 身体が小さく軽い小学生が有利な時があっても、そのままの身体で成熟する人はいない。

 成長期のどこかで成績が落ちる時期が来て、肉体的な成長を終えてからが本番。シニアが始まり、オリンピックや世界選手権という大舞台が見えてくる。


 私より何年も長く氷の上にいた人たちは、本当にスケートが上手くて、綺麗で、目を、心を奪われた。いつかああなりたいと、願っていた。


 ――その願いは、叶わなかったけれど。


「お金なんて、どうにでもなったのよ。スケートを続ける気持ちが私に少しでもあったなら、あの時、お父さんの手を取ったはずだから」

「…………でも、あんたは」

「お母さんと一緒に行こうと思った。だから、私のスケート人生は、あそこで終わったの」

「…………」


 きっと、葛藤もあったろう。

 私が居なくなった世界で、滑り続けることも出来たのだ。


 ――でも、こいつは引退した。そこに強い意思がなかったはずがない。


 私たちは、物心ついた時から氷の上で生きてきた。


 そこしか知らなかった。氷の上にしか居場所はなかった。


 そんな私たちがそこを捨てるのに、覚悟がないはずないだろう。


 その想いを、他人が茶化せるわけがない。


「……足、もう大丈夫なの」


 ちらりと、視線だけ私の方に向ける。

 心配そうな目を向けられていると、鏡を見ないでも分かった。

 去年の夏に折れた私の足は、リハビリに時間はかかったが、今では普通に歩けるようにはなっている。

 ただ、だ。これ以上負荷を掛けたら、次はどうなるか分からない。少なくとも、スケートのように足を酷使するスポーツは、生涯出来ないだろう。


「ご覧の通りよ。歩くのに支障はない程度」

「痛みは?」

「無理に動かさない限りは、別に。でも、重いもの持ったりすると、今でもたまに膝が軋む感じはあるわね」

「…………」

「私はね、こうまでしないとあんたに並ぶことも出来なかった女よ」


 自嘲気味に呟くと、秋川が急に振り返る。ハサミ持ってたら刺さってたわよ。


「そんなこと、ない」

「なんで? 事実でしょ、あんたもいつも言ってるし――」

「私は、――私だけは、知ってる。あなたが、誰よりも頑張ってたってこと。好きなご飯も食べずに、毎日必死に練習してたこと、知ってるから」

「……まぁ、今思うと非効率的よね。食事量減らしてトレーニング増やしたら、誰でも怪我するわよ。むしろ3年もよく持った方ね。あんたみたいにもっと先を見てたら、少しは未来が変わったかもしれないけど」

「…………っ!!」


 秋川は何かを言おうとして、しかし唇を強く噛む。

 カットのために前髪を上げているから、先程まで見えなかった瞳がよく見える。

 強い意志を持った、強者の瞳。――それが、悲しそうに歪んでしまっている。


「あなたには、自分を引っ張ってくれる人が、居なかったから」

「……そうね」

「私には、居たわ。――仁井ひなみって、大切な人が」

「…………」


 ――私には、そんな人は居なかった。


 目標にすべき人も、目指すべき道も何一つ分からないまま、自分で道を決めて、道を踏み固めて、自分で歩くしかなかった。

 その結果が、ありふれた食事制限に、スポーツドクターすらドン引きするほどの過酷なトレーニング。


 だって、それしか知らなかったから。


 私に道を作ってくれる人は、どこにもいなかったから。


 無茶だと言っても、聞かないなら、


 そのやり方で勝てるんなら勝手に続けろと、皆が願ってしまったから――


 自業自得だ。そんなこと、私が誰よりも分かっている。

 誰かが悪かったわけじゃない、ただ、私の選択が間違っていた。

 体重を減らせば強くなれるんだと、成長しなければ強くなれるんだと、すべてはそう思い込んでいた私の責任だ。


 私はその責任を、これからも抱えて生きないといけない。


「そういうあなたは、氷の上に戻らないの?」

「……言ったでしょ、もう、無理なの。お医者さんにも言われたし」

「コーチとか、振付師とか、プロスケーターとか――、他にも道は、あったんじゃないの?」

「そりゃ出来るもんならやりたいけど、オーバートレーニングで怪我して引退したヤツなんてどこのクラブチームも欲しがらないわよ。私なんてジャンプを理論的に学んだわけでもなく感覚だけで跳んでたし、コツなんて分かんないから人に説明しようがないし」

「かっ、感覚!? 感覚だけで4回転跳んでたの!?」

「そうよ。……言ってなかった?」

「聞いてない…………」


 「そっか、」と漏らし、再びハサミを手に取る。

 秋川の顔をぐいと正面に向け、後ろからチョキチョキと、丁寧に。


「でも、話を聞くことは出来る」

「……え?」

「あんたは知らないでしょうけど、美容室って暇なのよ。スマホも出せない、視線と口しか動かせない状態で、場合によっては何時間も座ってることになるの。そうしたら、喋るしかないでしょ?」


 これなら、関われるかも――

 私が唯一見つけた、氷の上で生きる方法だ。


 ――それが、ヘアメイクアーティストという職業。


 幸い、コネと人脈はいくらでもある。私の同期や後輩たちが順調に育っていけば、私が独立する頃には彼らはシニアに上がり、より多くのサポーターを必要とするようになるだろう。

 彼らにはきっと、誰にも話せない悩みがある。たった数時間でもそれを聞くことが出来れば、もしかしたら少しは未来を変えられるかもしれない。

 彼らが引退したら、もしかしたらクラブチームでコーチをするようになるかもしれない。そんな時、経験者で話が聞けて独立しているヘアメイクアーティストが居たら――


 そんな、部外者にしか話せないことが、きっとあるから。

 アドバイスをしてくれる大人の言うことを全て無視して、食事制限なんて安易に効果の得られるリスクの高い選択をした私だって、もしかしたら部外者には話せたかもしれない。止められるわけではないにせよ、経験談を聞いたら、少しだけ気が変わったかもしれない。


 ――そう、思いたいのだ。


「……そう」


 私の気持ちが、どこまで伝わったか分からないけれど。

 秋川は、穏やかな顔で返してくれた。

 何にも興味がないような無表情でもなく、私を罵倒する時のような眉をひそめた喧嘩腰でもなく、ただ、静かにそう言った。


 聞かず、言わず、同意せず。

 それが、どこまで救われるか、


 ――この女は、知らないんだろうな。


「はー、あんたがスケーターに戻ってくれたら、話は変わるのにな」

「どういうこと?」

、コーチと振付師の名前しか表に出なくても、それでも、私という存在をアピールするのには十分だから」

「…………でも、」

「あたしが居ないフィギュアスケートの世界に興味がないんでしょ? ……じゃあ、もう言わないわよ」

「…………」


 しかし、どこか悩ましげな顔が鏡に映る。

 何か言いたいけど、言えない――、そんな、子供みたいな顔が。


「コーチには、破門って言われたの。もう、戻れないわよ」

「あっそ、あんたのスケートに掛ける思いはそんなもんだったってわけ」

「――ッ! コーチをとっかえひっかえしてたあなたにはこの気持ちは分からないんでしょうけど……ッ!」


 むすっとした顔で、いつも通りの悪態を吐く。


 あぁ、そうだ、これでこそ、秋川だ。市来奏だ。

 ――私の、ライバルだ。


 確かに私は頻繁にコーチを変えていたけれど、あれは私を教えられる人が居なかったからだ。

 ほぼ感覚だけで滑り、誰に止められようと自分の意志で食事制限をし、お金があるからって深夜にリンクを貸し切って一人でずっと練習したり――、

 そんなことをしていた私を導ける人は、この世に居なかったのだ。


「もし、あんたがまだ、自分の足で氷の上に立つ気があるんなら、」

「……なら?」

「紹介出来る人が居るわよ」

「…………誰?」


 視線だけ、鏡越しに秋川はこちらを見る。ちょうどテレビに映ったので、指差した。

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