第8話

 いつもより静かな拍手は、絶対王者が居ないからか。それとも――


「ミスなく滑り切ったわね」

「そうね、ただ……」

「ただ?」

「加点も、あんまり高くなかったかも。調子悪いのかしら……」

「そうなの? あれ全部レベル4取れてるでしょ? どこが悪いの?」

「あのねぇ、スピンもスケーティングも、レベル4取れるのはトップ選手なら当たり前なの。あなたとは違ってね」

「…………で?」


 よし、耐えた。言い返してもキリがないしね。


演技構成点PCSで満点を狙いに行く方が、確実よ。あなた9点超えたことすらないでしょ」

「……ないけど」


 秋川が拘っている演技構成点PCSは、5項目各10点満点で採点される、フィギュアスケートにおける採点法の一つだ。

 私は現役時代、一番自信がある項目でもせいぜい8点くらいだったけど、こいつは9点以上を安定して取っていた。5項目全部で2点ずつ差を付けられたら、合計10点もの差が付いてしまう。それは技術点TESにおける4回転ジャンプ1本分にもなる。


 毎回絶対付けられるその差を埋めるために挑戦的な構成をし、失敗し、更に差が開く――、いつもそうだった。

 結果だけ見れば、確かに堅実な滑りを見せたこいつの方が強かった。私は一度も勝てなかったけれど、どの大会も、絶対負けることが分かっていたわけではないのだ。

 私は、ずっと本気で勝つつもりで滑っていたし、ノーミスで加点を多く取れば勝てない構成でもなかった。ただ、結果として勝てなかっただけ。


「あー……」

「ちょっと低いわね」

「……そうね、今回は難しいかしら」


 得点が発表されたが、秋川の言う通りいつもより調子が悪かったようだ。

 自己最高得点が出せれば金も狙えたと思うが、それには遠く及ばない点数。今は滑走順が速かったから暫定1位だが、これではそのうち抜かれてしまうだろう。


「……まだ次があるもの」

「広野くん、そろそろ引退って噂されてるけど」

「そうなの!?」

「もう26になるからね、そんな噂も出るのよ」

「…………」


 秋川は静かに、画面の向こうで泣く選手をじっと見つめている。よほど悔しかったのだろう。コーチに肩を叩かれても俯いたままだ。

 フィギュアスケーターの選手寿命は、ほんとうに短い。トップ争いをしていた私や秋川のような選手が中学や高校――ジュニアのうちに引退することもそこまで珍しくなく、シニアに上がって世界の壁を越えられず、10代のうちに引退を決める選手だって多い。

 なんとかしがみついても、メダル争いに絡めるのは精々が25歳くらいまで。

 秋川の推しである広野くんは今年で26歳になるベテランだから、引退が噂されてもさほど驚けない。


「油谷くんがおかしかっただけだからね」

「……それは、そうね」


 日本フィギュアスケート界の絶対王者、油谷慎吾。

 15歳から引退する27歳までの間、全日本選手権で12連覇を果たしている。つまりこの期間、他の男子選手は一人として国内で金メダルを取れなかったというわけだ。


 私のように怪我で引退を決めたり、勝てなくなって引退する選手が多い中、油谷くんは最後の大会――オリンピックまで金メダルを取り、ファンに惜しまれながらも引退した。

 引退する理由は『そろそろ後進の育成に回りたい』というもので、つまり現役を続ければまだまだ勝ち続けられるポテンシャルがあったのだ。


「ほらっ、見なさい、私の推しが滑るわよ!」

「はいはい……」


 秋川の推しである広野くんは絶対王者油谷くんと完全に現役時代が被ってるが、私の推しである梶村くんはまだ19歳、油谷くんとほとんど被ってない、新しい世代。

 現役時代の私のように、技術は稚拙ながらもとにかく軽やかなジャンプを跳ぶ選手だ。まだ成功率がそこまで高くないジャンプを大舞台で挑戦してみたり、本当に後半体力持つのかって心配になるような攻めた構成もするから、ハラハラするけど、見ていて楽しい。

 まぁ推してるのも、小学生の頃から同じクラブチームに所属してて、ジャンプのコツとか色々教えてくれてたお兄ちゃんみたいな存在だからなんだけど――


 流石に髪を切る手を止め、眺める。――あぁ、1本目からお手付きしちゃった。でもまだ大丈夫っ! まだまだリカバリーできる範囲!


 声に出さず応援していると、4分しかない演技時間はあっという間に終わってしまう。


「……残念だったわね」

「そうね……」


 絶対王者が居ない初の全日本、初優勝の目もあって力が入っちゃったか、いつもよりミスが多かった。リカバリーも上手くいかず、暫定2位。私まで悔しくなっちゃうわ。


「ねぇこれ、もしかしてこのまま広野くんが初優勝しちゃうんじゃ……」

「自己新も出せないままの初優勝はファンとしても微妙に喜びづらいところではあるけれど、他に勝てそうな選手居たかしら……」

SPショートの2位3位がこれだものね。1位誰の南城秀樹……ってこれ誰?」

「……ジュニアからの推薦出場枠。私達の一個下」


 呆れ顔が鏡に映る。しかし、聞き覚えがない。

 日本代表か、そうでなくとも国内試合でメダル争いに絡んでくるような選手のことは覚えているはずだが、南城なんて選手が居た記憶がないのだ。


「え? ……居たっけ?」

「あなたねぇ……」

「いやだって、ジュニアで日本代表に選ばれてないでしょ? 前からそんな強い子居たっけ?」

「……今年の全日本ジュニアは8位だったわ。日本代表に選ばれたのは今年からね」

「へぇ……、詳しいわね。あんた他人のことなんて興味ないんだと思ってた」

「人聞きの悪いこと言わないでくれる?」

「どう考えてもそうだったでしょ……。あ、ホントだ出てきた。わっかいわねぇ……」


 応援のために手を止めていたので、ついでにスマホで検索してみると出てきた。

 詳細なプロフィールはなく、ほとんど大会の出場記録くらいしか見つからないが、これまで優秀な成績を収めていたわけでもないらしい。――まるで秋川みたいだ。


「1個下なんだからそこまで若くもないでしょうに……」

「中3は、若いわよ。……私は、越えれなかったから」


 ぼそりと呟くと、どうせ悪口が帰ってくると思ったのに――、秋川は黙ってしまう。

 結局こいつ、なんで引退したのかしら。姫乃は私が辞めたからとか言ってたけど、ぜんっぜん因果関係が分からない。ジュニアで辞めるつもりとも言ってたし。


「ほら、滑るわよ。後輩の雄姿を見なさい」

「えぇ……」


 いくらテレビが大画面といえど、流石に人の髪を切りながら凝視出来るはずもないので、ハサミを手にせず中継を眺める――



「わー……」

「圧巻ね」

「ね。いやこれ、ホントに全日本初出場?」


 予想外の健闘に、ちょっとテンションが上がってしまう二人。


「前から完成度は高かったわよ。ただ――」

「ただ? っていうか前から知ってたのね」

「……西日本大会では会ってたし」

「そういうことね。で?」

「あなたみたいね」

「え?」

「……楽しそうだった」

「あー、……そうね」


 南城くんの、点数が出た。――自己最高得点更新、かつ暫定総合1位の広野くんを僅差で越えた。


 しかし、印象に残ったのは笑顔だ。

 演技の最後まで、彼は終始表情を崩さなかった。辛そうにジャンプをすることもなく、最後まで悠々と滑り続けていた彼は、まだ大舞台をほとんど経験していない中学3年生とは到底思えない。


 私も現役時代、どれだけ辛くても表情だけは崩さなと言われ続けてきたからずっと笑顔で演技をして、天使なんて呼ばれていたが――

 ずっと無表情で滑る秋川とは、そのへんも対極的だったのよね。

 実際、フィギュアスケートの採点に『表情』は含まれていないから、無表情でも笑顔でも得点に差はない。それでも、楽しそうに見えるのとそうでないのとでは、審査員や観客からの印象が違う。


「15歳が全日本初優勝なんてことになったら、本当に歴史が変わるわね」

「13歳で優勝して歴史を変えた女がここに居るけど?」

「……あんたそれ自分で言って恥ずかしくならないの?」

「全然」

「あっそ」


 いつもの無表情で返され、言い返す言葉を失った。

 まぁ、そうなのよね。こいつ、中1の時点で推薦出場したシニアの全日本で優勝してるし。歴史を変えたってのも比喩じゃなく、本当に全日本選手権金メダリストの最年少記録を塗り替えたのだ。

 あの絶対王者油谷くんですら、ジュニアからの推薦出場のうちは他のメダリストに阻まれて優勝してなかったし。


 ――なんで、やめちゃったんだろうな。


「……ねぇ、秋川」

「何」

「あんた、なんで引退したの」

「言いたくない」

「さっき姫乃が、私が辞めたからとか言ってたけど、別にそうじゃないんでしょ?」

「違う」

「ジュニアで辞めるつもりだったって、なんで? いつ決めたの?」

「それあなたに言う必要ある?」

「ないけど、……教えてよ」


 自分が、こんな弱い言葉を発してしまうことに、私自身が驚いていた。

 選手としての仁井ひなみは、もう居ない。だからここに居るのは、ただの一人のスケートファン、仁井ひなみの疑問なのだ。

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