第6話
市来奏という女は、間違いなく数十年に一人の天才だった。
数年後には間違いなくオリンピック日本代表になってメダル争いにも参戦したであろう、ホンモノの天才。
きちんと栄養バランスを考えた食事、適切な睡眠、そして周囲の万全なサポートがあった市来は、トップ選手になる土台は最初からあった。とにかく遅咲きだっただけなのだ。
中学1年でトップ選手に上るのを『遅咲き』と呼ぶのは、数えきれないほどあるスポーツの中で、きっとフィギュアスケートだけであろうが。
「だって言いたくないんでしょ? 聞いても無駄よ、どうせ何も話さないわよ」
「じゃ、秋川さん、どうしてスケート辞めたの? いやごめん、あなたの現役時代なんて全然知らないから、ただの興味本位なんだけど。ちっさい頃からずっとやってたこと辞めるって、どんな気持ちなのかなー、って。私そういうのなかったから、普通に知りたいんだよね」
「…………」
しかし秋川は、気まずそうに顔を背ける。ほーら、言わない。
「……お父さんが、不倫して」
「え?」
「へー、それで?」
「お母さんの方に引き取られることになったんです」
「あー、そういうこと。……って、よくあるの?」
姫乃が私の方を向いて聞いてくるので、首を傾げて答える。
「あんまり聞かないかな。勝てなくなって辞める人と、お金なくなって辞める人のが圧倒的に多いわ」
「へー。じゃ、秋川さんは辞めたくて辞めたわけじゃないんだ」
「い、いえ、そういうわけでは――」
「だって、お金あったら続けてたんでしょ?」
「…………いえ」
「うん? だって、離婚が原因って――」
「それがなくても、たぶんジュニアで辞めてましたから」
「へー、なんで?」
「…………言いたくありません」
「そっか。ひなみが先に辞めちゃったから?」
姫乃が軽口でそう言って、「そんなわけないかー」なんて呟くと同時に、秋川は「へぁっ!?」と変な声を漏らし、ガタンと膝をテーブルにぶつけて痛かったのか膝を抑え蹲る。
――横顔は、茹で蛸みたいに真っ赤になっていた。
「……なにその反応」
「図星っぽい?」
ぶんぶんと、力強く首を横に振る。あーはいはいそうですかー。
……え? どういう意味?
「素直じゃないねー、秋川さんも、ひなみも」
「私も!? 私はだいぶ素直な方でしょ!?」
「えー、そうかなー」
にやけんな、こら。っていうか姫乃に比べたらだいぶ素直よ。
「……お母さんの方に引き取られたのに、その頭なの?」
「どういう意味?」
「いやあんた、メイクもヘアセットも、全部お母さん任せだったでしょ、自分でやってたの見たことないわよ」
「…………」
私は自分でメイクもセットもしてたけど、秋川は違ったのよね。いっつもお母さんにしてもらってた。選手控室って関係者以外立ち入り禁止なとこも多いから、普通にトイレとか廊下とかベンチでしてたの、目に付いたのよね。
だが、母親に引き取られたんなら、そこは問題ないはずだが、――ケアなんてしたことなさそうなこの髪、どういうことだろう。目元は見えないけど、肌の質感からしてファンデすらしてなさそうだし。メイクの仕方も知らないならともかく、ずっとされてきたから知識くらいはありそうなもんだが。
「あ、なんか分かったかも」
と姫乃はわざとらしく手をポンとして言う。
「お母さん、出てった? いや出てってないにせよ、離婚した後にどっかで男作ったとか、そんな感じ? それで秋川さんは置いてかれたと」
「いやそれはないでしょ、海外遠征常に着いてきて娘の面倒全部見てたような――」
母親よ、と続けようとしたが、気まずそうに姫乃から視線を逸らす秋川を見て、「あー……」と声が漏れる。
こいつ、クールぶってるけど案外分かりやすいのよね。人間慣れしてないのだ。人間対応力100億点みたいな姫乃と相対しちゃったら、地が出てしまうのも無理はない。
「……今、家は?」
「一人だけど文句ある?」
「ねーよ。何、じゃあメイクもセットも、一人じゃ出来ないからしてないだけ? ったく、もう高校生でしょ? そんなのネットで調べれば――」
「あなた何様なの? 他人の外見どうこう言う前に、その明らかに底辺を自己紹介してる頭をなんとかしたら? メイクも濃いの全然似合ってないし。昔のファンが見たらドン引きするんじゃないかしら? 小学生の頃は天使とか呼ばれてたのにねぇ」
「うっさい。あんただって人の外見のことどうこう言ってるじゃない。ダブスタ気付いてない?」
「は? あなたのはただの悪口じゃない。その違いも分からないなんて、あなたこそお母さんに情操教育からしてもらった方が良いんじゃ――」
「はいストップー」
姫乃がそう言うと、秋川の口にスプーンを突っ込んだ。私と秋川のコースのデザートとは別に、秋川だけに運ばれてきたゆずシャーベット。
「んむ……」と口を抑えた秋川が、スプーンを口から引き抜いた。
「二人とも、前からこんな感じ?」
「そうね」
「ふーん……」
なんだか嬉しそうな顔でニヤニヤしてる姫乃見てると、無性に腹が立つ。――自分に。
スケート辞めて、もう一生会わなくて済むと思ってた因縁の女と、なんで仲良くランチなんて食べてんだろ。美味しかったけどさぁ。
「ひなみは何も言わないでねー」
「え?」
「だってすぐ喧嘩腰になっちゃうでしょ。勿体ないって」
「勿体ないって……」
「秋川さんさ、」
「……なんでしょう」
「ちゃんと答えなよ。そういう壁、いやまぁ壁作るのが処世術なのかもしれないけど……、あなた今、お金持ってないでしょ」
ぎくっ、なんて音が聞こえそうな顔で、秋川は頬をピクリと動かす。
「さて、どっちに奢って貰うのかなー? まさかこれだけしっかり食べた上で逃げるつもりじゃないよね?」
「え、あの……」
「初対面のおかみさんに頭下げるか、素直にひなみの相手するか」
相手するって何よ。
「…………その、お金、下ろして、来るので」
「あー、無銭飲食だー」
「ち、違っ……、」
「人質ここに置いてけー」
「……学生証とかで、良いかしら」
「本気にしないで。ひなみが奢ってくれるって言ってるし、そっちにお願いしなよ」
言ったっけ?
「…………」
「素直じゃないなぁ……」
「…………その、仁井さん」
「何」
「この借りは必ず返すので」
なんで復讐者みたいになってんのよ。
「……今回だけ、お金を借りても良いかしら」
「別に返さないで良いけど」
「は? 返すって言ってんのよ?」
「奢るっつってんの。素直に聞け馬鹿」
「ばっ、馬鹿!? 馬鹿って言った!? どう考えてもあなたの方が――」
「一緒に補習受けてる時点でどっちも似たような成績じゃない?」
それはあなたもよ、姫乃。
「「…………」」
まぁ反論は出来ないけど……。
「秋川さん、そんなお金余裕ないでしょ。メニュー見る時視線が金額しか見てなかったし」
「……そ、その、母子家庭はだいたいそういうものでは」
「そうなの?」
私に聞かれても困る。
「ひなみはいいとこのお嬢様だし、お金にも困ってない、と。ここで仲良くしとくべきなんじゃない? 今後もなんか奢ってくれるかもよ?」
奢らんわ。
「……お金で付き合いを変えるのは、嫌よ」
私も嫌。
「じゃ、ここは奢って下さい、ありがとうございます、の二言だけでしょ。なんでそんな二人して喧嘩腰になってるの? 勿体ないよ」
「その、姫乃? さっきから勿体ないって言ってるの、何が?」
「時間」
時間かー。
「歩み寄りが足りないんだよねー、二人とも。一緒にスケートして、一緒に辞めて、一緒の高校通ってんだからさ、無駄な時間なんてないでしょ。これまで仲良く出来なかった分、これから仲良くしなきゃ。女子高生なんてあと2年しかないんだし」
「……それは、そうだけど」
もう二度と会わない、は無理でも、話さないくらいは出来るんじゃないか――
いやでも、来年も再来年も、クラス替えはあるのよね。そこで同じクラスになっちゃったら、若干気まずい。
避けることは出来るだろうけど、芋女が同じクラスに居て、もし誰かと喧嘩するようなことがあったら、――虐められるようなことがあったら、私は味方すべきなんだろうか、それとも放置するべきなんだろうか。
私相手にここまで喧嘩腰になれる女なんだから、他の子とも普通に喧嘩する可能性はある。そんな時、私は無関心を貫けるだろうか。
この、構いたがりの仁井ひなみは、それを傍観していられるのだろうか。
――否、だ。
大きな溜息が漏れる。これから自分のしようとする提案は、本当に馬鹿みたいなものだから。
「ただ奢られるだけじゃ嫌でしょ、だから条件付けたげる。それで満足?」
「条件……? 王様ゲームでもするつもり?」
「しねーよ。その、頭」
「馬鹿にしてる?」
「ちょっとは黙って聞いてよ話進まないから……」
脳直で反論してくるのホント困るわ。口閉じるの待って。
「その頭、弄らせて。それが条件」
「…………どういう意味?」
「あたし、将来ヘアメイクアーティストになりたいのよね。それでオリンピック代表選手にメイクして、髪型もあたしが考えて、大舞台に立ってもらうの。楽しそうじゃない?」
「随分大層な夢をお持ちのようで。それと私に何の関係が?」
「人間の頭とか顔って、一つずつしかないでしょ? だから唾つけて回ってんのよ。だから、それが条件。頭と顔、貸しなさい」
「…………私は何か支払うの?」
「別に。ただ髪の伸び方とかも見たいから、そこらへんの美容室行かないで。……まぁあんたは大丈夫でしょうけど」
姫乃が「この髪もひなみに染めてもらったんだよー」とさらっと髪に指を通す。綺麗よね、姫乃の髪。すっごい細くて、まっすぐで。それなのにどれだけブリーチしても全然痛んでる気配ないから、いつも色んなカラー入れたくなっちゃう。前インナーカラーをピンクにしたら普通に怒られたけど。
人によって、毛質も肌質も全然違う。だから色んな人に触れて、覚えたいのだ。そのためには一人でも多くの被験体が必要というわけ。
「私に何のメリットが――」
「少なくとも悪目立ちはしなくなるでしょ」
「わっ、悪目立ち!? してないでしょ!?」
「してたが?」「してたよ?」
「…………そんなに?」
「そりゃ、呪いの日本人形みたいな女子高生居たら誰でも見るでしょ。クールぶって誰とも話さないし、その割にガリ勉ってわけでもなく普通に馬鹿だし、何考えてんのか全然分かんないし……、まさか目立ってないつもりだった?」
「…………」
うわぁ、筋金入りだ。
そりゃ害がなければ気にしないけど、オタクでもなく、かといって明るいわけでもなく、友達がいる様子もないからといって、空気になれるわけでもない。見て見ぬふりをされているだけなのだ。
本当に空気というのは、強いキャラクター性がないのに、どこに居ても誰とも仲良く話せる、姫乃のような女。まぁ姫乃は女子には結構嫌われてるから一部例外を除く、って感じではあるけど。妬みもあるだろうしね。
「じゃ、じゃあ、その、……お願い出来る?」
「うん。じゃ、これから」
「これから!?」
「姫乃はどうする? ウチ来る?」
一応聞いてみたが、「んー」と首を捻りおかみさんと目を合わせる。アイコンタクトで意思の疎通が取れたか、首を振った。
「やめとく。夜シフト入ってるし」
「そ、じゃ、秋川は……、予定とかないでしょ」
「馬鹿にしてる? ありますけど?」
「全日本でしょ」
「……当てたからって得意げにならないで貰える?」
私はスケートを辞めても、スケートに興味を失ったわけではない。むしろ観戦者としての思考にシフトして、一般のスケートファンより無駄に詳しかったりもする。
自分が立てなかった大舞台を観戦するのはちょっとだけ複雑な気持ちになるけれど――
こいつも、そうに決まってる。私達における唯一の共通項はスケートで、趣味も特技も、スケートなのだ。
「じゃ、あんたはテレビ見ててくれていいから。髪とか弄られてる間暇だろうしね」
「えっ、あの、……仁井さんの家で見るってこと!?」
「なんか問題あんの?」
「あ、あるに決まってるでしょ!? 急に人の家に上がるなんてお家の人に失礼で――」
「いやあたし一人暮らしだし」
「……そうなの?」
「そうだけど?」
「食事はどうしてるの?」
「外で食べる予定ない時は大体宅配」
「不健康ね」
「これでも健康には気遣ってるつもりだけど?」
昔と違ってね。野菜もお肉もちゃんと食べてる。運動しない割に食べ過ぎかなとは思ってるけど。食べたい時に食べたいものを頼んだら30分で届くこの環境のせいよ。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
本当に渋々といった顔だが、秋川はようやく頷いた。トドメは全日本観戦だったっぽいな。まぁ誰かと一緒に観戦するのって楽しいしね。
支払いの時、私の財布に万札が何枚も入ってることに気付いた秋川が目を丸くしていたが――、お金なかったら一番高いランチコース頼んだりしないわよ。
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