第4話

 さて翌日も補習です。なおクリスマスイブである。


 愛梨に一抜けされたので、今日集まった生徒の中で話せそうなのは姫乃くらい。

 暖房の効いた教室に入ると珍しく姫乃が先に座っていて、スマホを弄っていたので背中を軽く叩いて「おはよ」と声を掛ける。


「おはよ。ひなみは居るんだ、今日は一人だと思ってた」

「姫乃何教科あんの?」

「9」

「全部じゃない!?」


 にへらとした様子で「だねー」と笑われて、あぁ、そんなとこも可愛いんだよなぁ、こいつ。

 私が同じことしたら、ちょっとわざとらしくなっちゃうと思う。可愛いのベクトルが違うんだよ。

 姫乃はスケートしかしてこない人生を歩んできた私とは随分違った、波乱万丈な人生を送っていると聞く。そのせいか、随分と大人っぽい。達観してると言えば良いんだろうか? そこが男子高校生の心をくすぐるんだろうな。


「愛梨は?」

裏切者あいりはもう補習ないんだって」


 ちょっとルビ変になったな。


「へー、意外と勉強出来るんだ」

「五十歩百歩とは思うけどね……」


 と、そんな話をしていると、がらりと教室のドアが開くのでちらりとそちらに目を向ける。


 ――秋川だ。あいつガリ勉って言われたら納得出来そうな見た目なのにまた補習って、ひょっとして不登校とか? まぁ他クラスのことはよく分かんないけど。

 黒板に張り出された座席表を見て、席に向かう秋川。――私のすぐ隣だ。


「あれ」


 私の視線の先を追っていた姫乃が、首を傾げる。


「どうしたの?」

「あの子、どっかで見たよーな……」

「そりゃあ……、同じ学年だから、見たことあんじゃない?」私はなかったけど。

「いや違って。テレビだったかなぁ……」


 思い出そうと首を捻って唸る姫乃に、「テレビぃ?」と返す。

 いや、テレビはないでしょ。あんな地味なの、テレビに映るようなキャラには思えない。

 じっと、少し離れた席に座る秋川を見る。――うーん、言われてみるとなんとなく、どっかで見たことあるような気がしてきたな。

 長すぎる前髪で目は全然見えないけど、顎の角度とか――


「……あれ」


 一瞬、が脳裏にチラついた。


 ――私の、一番嫌いな女の姿。


 物静かで、誰よりも優雅に氷の上を舞うその女は、巷では『氷の君』なんて呼ばれてたっけ。


 そんなはずはない。あの女が、こんなところに居るはずはないのに。

 名前が違うし、名古屋で活動してたあの女が都内に居る理由もない。他人の空似だ、そうに決まっている。

 でも、どうしても気になってしまって。

 昨日と同じジャパンジャージを脱いだその女の席に行くと、声を掛ける。


「ねぇ」

「……はい?」

「そのジャージ、スケート日本代表のって知ってる?」

「そうですね」

「日本代表選手として、海外試合に出る一握りだけが貰えるジャージなの。私はもう引退してるからあんまりうるさく言うつもりはないけれど、嘘はすぐバレるから――」

「嘘なんて、ついてません」


 秋川は、急に強い口調で答えた。

 前髪に隠れて目は見えないけれど、分かる。はっきり目を見て言ったのだ。


「……嘘でしょ」

「嘘じゃないです」

「……あたしも、同じの持ってるのよ。あんたはあそこに居なかった。だから嘘。違うの?」

「違います。あなたの方こそ、誰ですか」

「…………待って、意味分かんないんだけど」


 居た?

 あの場に、この女が?


 ――いや、嘘だ。絶対居なかった。

 フィギュアスケートのシングル(一人で競技するものをシングルと呼ぶ)において、ジュニアの規定年齢は13歳から19歳までと、かなり幅が広い。

 つい先日まで小学生だった子供が、世界を舞台に戦う高校生までを相手にする必要が出てくるのが、ジュニアという年齢区分だ。

 国際大会の出場枠は国ごとに限られており、たとえ中学1年生であっても出場させるからには優勝を求められる。優勝出来ない選手に経験を積ませる――なんて生優しい世界ではない。

 日本代表の名誉な枠に選ばれるジャパンジャージを与えられるのは、そのほとんどが幼少期から大会で顔を合わせてきた戦友たち。

そんな中に、突然知らない奴が生えてくることなんて――


「あ」


 ――いた。

 一人だけ、ありえない経歴で、突然生えてきた女が。

 

 そいつの名は、市来いちきかなで


 ホンモノの天才にして、私が競技人生で唯一勝てなかった相手。

 ノービス時代は地方大会止まりの無名選手なのに、彼女はジュニアに上がると頭角を現した。

 全日本ジュニア選手権に出場すると、優勝し、それだけでは終わらず、推薦出場した大人向けシニアの全日本選手権でも大人を相手に完璧な滑りを見せ、初出場で初優勝した。


 あっという間に、それまで私の代名詞だった『天才少女』という呼び名は、市来奏のものとなった。

 しかしその天才は、昨年、主要大会すべてで金メダルを獲得した後に突如引退を発表し、表舞台から姿を消す。

 私のように怪我をしたわけでも、コーチとの間にトラブルがあったわけでも、大会に出場出来なくなるほどの不祥事を起こしたわけでもない。一切何も語ることなく、彼女はあっという間に過去の人となった。


「あんた、名前は」

「秋川です。前に言いましたよね」

「下の名前」

ですが」

「……そう、そういう、ことね」


 あぁ、ようやく分かった。

 日本に何度目かも分からないスケートブームを巻き起こした天才少女、市来奏が表舞台から姿を消して、報道陣すらも誰も彼女のことを見つけられなかった本当の理由。


 ――『市来奏』なんて女が、


 いくら皆が顔を知っていると言えど、それはあくまで競技人としての顔だ。

 一個人としての市来奏に詳しい人間など、そうは居まい。


「仁井ひなみ。この名前を忘れたとは言わせないわよ」


 秋川は私の言葉を聞いて、一瞬だが硬直した。

 ぴたりと完全に動きを止め、私の顔をじっと見つめる。そしてようやく納得したか、ゆっくり口を開いた。


「…………仁井さん?」

「そうよ」

「……髪、どうしたの」

「染めたのよ」

「似合ってないわ」

「うっさい」


 ――あぁ、こいつは、ずっと前からこうだった。ほんっとうに、気に食わない。


 私なんかよりずっと才能があって、私なんかよりずっとスケートが上手くて。

 他人に一切興味を持たず、我が道を行く、氷の上のお姫様。


「……その人を寄せ付けない感じ、スケートやめても変わんないのね」


 ファンに愛想を振りまくことをせず、クラブチームの同期とも先輩とも話さず、SNSもやらず、メディアへの露出を避け、優勝インタビューも事務的に一言二言喋るだけ。

 氷の上でだけ生きる姫君――『氷の君』、彼女はそう呼ばれていた。


「あなたこそ、何? いくら知能レベルが低いことを自覚してるからってその頭はないでしょう。馬鹿ですって言ってるようなものじゃない。それとも名刺代わり? お似合いよ」

「似合ってんのか似合ってないのかどっちなのよ」

「…………似合ってない」


 ぷいと顔を背け、市来奏――いや奏は私から目を逸らす。


 ――そう、こいつが『氷の君』で在るのは、私の前なのだ。

 何故か私にだけは饒舌に、それも常に的確に悪口を言う。


 初めて会った時からそうだった。

 全日本ジュニア初優勝を逃し、泣きながら「あんた、誰よ」と問うた私に、「名前見て分かんない? い・ち・き・か・な・で、それとも表彰台の真ん中に立ってる人間の名前すら覚えられないくらい脳の容量小さいのかしら?」と全力で煽りに来た女。あれ一瞬で涙引いたわ。隣で聞いてた3位の子もドン引きしてた。

 あとで市来奏と同じクラブの子に聞いたら「普段は誰とも話さない暗くて地味な子」って言われてビビったの覚えてる。第一印象と真逆すぎて。


「人の髪に文句付ける前に、自分の頭なんとかしたらどうなの? 本当に人毛? 馬の毛かと思ったわ」

「はぁ? 知らないでしょうから親切に教えてあげますが、一般的に馬の毛って言われている尻尾の毛は人毛より細いのよ? そんなことも知らずに馬の毛とか言ってるの?」

「あーはいはいごめんなさいねー、ヤマアラシだったかしら」

「大方『ヤマアラシのジレンマ』って言葉だけ知ってヤマアラシって言ったんでしょうけど、あなたが想像してるのはハリネズミよ。ヤマアラシは大きいものだと体長90cmを越えるカピバラに次いで大型な齧歯類。どうせ手の平に乗るとげとげの可愛いの想像してたでしょ? それはね、ハ・リ・ネ・ズ・ミ」


 ぶちりと、血管が切れたような音が聞こえた。

 ――最近誰にも怒ることなかったのに、あぁ、駄目だ。こいつと話すといつもこう。


 私は別に語彙力が豊富なわけではない(そもそも学校通ってないし)、罵倒の言葉だって多く持ち合わせていない。普段使えるのは『キモい』と『気持ち悪い』くらいだ。あれ一緒? うっさいわね。

 だから、いつもこうなる。そして――――


「ちょいひなみ、ストップ」


 私が握り締めた拳を、後ろから掴まれる。

 ――姫乃だ。


「煽られたからって手ぇ出すのは、流石にね」

「…………そう、ね」


 姫乃の、人より少しだけ高い体温を感じ、手からするりと力が抜ける。

 止められなければ、たぶん殴ってた。いやグーではなくパーだと思うけど。


「お友達に助けて貰わないと口喧嘩も出来ないの? スケートやめても取り巻き沢山連れてお山の大将気取るとこ変わんないのね、だから――」


 口で返せず手を出そうとした私に、更に追撃を仕掛けてくる秋川。

 もう私の熱も冷めてきたから、「はいはい」と返して席を離れようとしたら――姫乃が、私の手をぐいと引く。


 「えっ」と声が漏れると同時、さっと私と位置を交代した姫乃が、秋川の前に立つ。


「ねぇ」

「…………なんでしょう」


 知らない人が混ざってきたら突然他人行儀な口調になるとこ、ホント変わんないなコイツ。


「あなた、ひなみのこと好きなの?」

「…………はっ?」


 秋川は、ぽかんと口を開けて姫乃を見る。


「い、いや何言ってんの姫乃」

「ひなみこそなんで気付かないの? これ好きな人に悪口言っちゃう男子と一緒だって。目ぇ、生き生きしてんじゃん」

「……は?」

「い、いやあなた、一体何を――」

「ほれ」


 姫乃が急に私の手を引くもんだから、つんのめって秋川の机に顎を打ち付けるとこだった。――すぐ傍で秋川と目が合う。うーん、顔真っ赤ね。


「さっき思い出した。あななたち二人、テレビでこれ何度かやってたでしょ」

「…………そうね」

「前泊めてくれてた男がスケート好きで、それで解説してたから覚えてたんだ。思い出した思い出した」


 満足した顔で「あーすっきりした」なんて言いながら自分の席に戻る姫乃に、手が伸びる。

 助けてよと、伸びた懇願の手は、しかし姫乃の背中に届かない。


「始めるぞー」


 最悪の空気の中、教室に入ってきた教師が、未だ席に着かず雑談してる生徒に声を掛ける。

 助かった、という気持ちで自分の席に着いて、回ってくるプリントを受け取って。


 ちらり、と隣の席を見る。

 まだ顔を赤くした秋川が、ずっと俯いていた。……なによそれ。


 補習を受けながら、現役時代を思い出す。

 どれだけ頑張っても勝てなくて、口喧嘩でも負けてばっかで、――市来奏のことが、本当に嫌いになった。

 顔を合わせていたのは、たった2年。それだけあれば、嫌うには十分だった。


 ――いいや、ひょっとしたら、はじめて会ったあの日あの時、表彰台の真ん中に立てなかったその瞬間から、私はこいつのことが嫌いだったのかもしれない。


 どこの馬の骨とも知れないポッと出の女が、表彰台を奪ったのよ。好きになれるわけないじゃない。

 でも、何よその態度。いつもの顔で、いつもの態度で、反論してきなさいよ。何本気で照れてんのよ。らしくない。


 姫乃の言う通り、もしこいつが私のことを――

 ……いや絶対違うわよ! もし前からそんな目で見てたらスポーツ新聞とかネットニュースのカメラマンにあんな喧嘩シーンばっか撮られないし、Wikipediaの私の記事なんて交友関係の項目に『市来奏と非常に仲が悪い』とか書かれてんのよ!? うっさいわ!

 スケートファンが何人居るのか知らないけど、もし姫乃が言い当てたのが事実だったらもっとそうやって書かれるはず。


 けど実際のとこ、そうではない。

 さっきのは、姫乃に突然わけわからないこと言われて反論出来ず恥ずかしくなっただけ、そうに決まってる。


 自分を納得させているうちに、3時間の補習はあっという間に終わった。何も聞いていなかった。

 ――して、席を立たずいつの間にか平静に戻っていた秋川が、こちらをじっと見つめていることに気付く。そちらに目を向けると、さっと逸らされた。


「ひなみ、おつかれ」

「おつー。……なんも頭入んなかったわ」


 「わかるー」、と同意されたが、たぶん姫乃の「分かる」は私の言ったこととは少し違う。姫乃はそもそも授業を一切聞いてないだけだが、普段の私は聞いた上で全然分からないのだ。

 でも今日は、本当にずっと上の空だった。こんなんじゃ補習の意味がない。思えば、これが姫乃の1日の過ごし方なのかもしれない。


「秋川さんさ」


 しかし姫乃は、私でなく私の隣の席で片付けをしていた秋川に声を掛ける。

 急に話しかけられた秋川はビクリと大げさに身体を震わせ、ゆっくりとこちらを見た。


「は、はい?」

「今から一緒にお昼行かない?」

「…………はい?」

「いや姫乃何言ってんの、来るわけ――」

「いっ、行きます」

「来るんかーい」


 「ナイスノリツッコミー」と返されて、「えぇ……」と声が漏れる。

 えっ、待って、どういうこと? なんでこうなったの……?

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