第2話
私の人生が明確に変わったタイミングがあるとすれば、3回。
1回目は、スケートに出会った、4歳の頃。
2回目は、敗北を知った、13歳の頃。
3回目は、高校1年の冬休み、補習でそいつに会った日のこと――
「さっむ…………」
ダサセーラーなんて揶揄される、紺色の地味なセーラー服(これまたこの高校が不人気になった理由だろう、テンプレみたいな紺セーラーだ)その上に厚手のコートを羽織った私は、学校までの雪道を一人歩いていた。
新しい雪の上には、子供の走り回った足跡や、バイクのタイヤの跡がうっすら残っている。積もるペースが速いので、跡はすぐに消えてしまう。
マンションから学校まで、徒歩5分。短いはずの距離が、今日はいつもの数倍長く感じた。
正面玄関は閉じられていて、あぁそういえば今日は裏から入るんだっけ、と校舎の周りをぐるっと半周しているところで、私は見覚えのあるジャージに目を奪われた。
私とは反対側――駅の方から歩いてきた女子生徒だ。
そいつは雪の降る中、帽子も被らず傘も差さず、頭に雪を積もらせながら歩いている。
だが、私の目に入ったのは、その女が頭に雪を積もらせてたからではなく――、
「ちょっと!!」
後ろから声を掛ける。――女は振り返り、こちらを見た。
走りだしたい気持ちを抑え、ぐに、ぐにと雪を踏みしめ、転ばないようにその女の元まで歩いてゆく。
髪はぼさぼさで、瓶底みたいな眼鏡を掛け、前髪なんていつ切ったのかも分からない長さの地味な女だ。
「……なんですか?」
不思議そうな顔で、そいつは首を傾げた。
小さく、か細い声だ。風が吹けば聞き取れないほど、小さな声。
「あ、あんた、その服――」
「服、ですか?」
「どこで買ったの。メルカリ?」
「私物ですが……」
「……それ、ジャパンジャージでしょ」
「はい」
「なんでアンタがそれ持ってんの?」
しかし、言葉ではなく態度で返される。「何を言ってるんだ」、――そう言いたげな表情で。
その女が着ている服は、たいへん見覚えのあるものだった。
ジャパンジャージ、それはスケートの日本代表選手として選ばれた者だけが着ることの出来る、特別なもの。
私もまだ家に飾っている。ノービスで1回、ジュニアに入ってから3回貰った、トロフィーよりも大切な服。
私は、海外遠征に行く時しか着なかった。だって、特別なものだから。
私服のように着回す子も居たけれど、そうやって見せびらかすのはなんとなく嫌だった。
――それを全く知らない女が着ているという、ただそれだけで、私の腸(はらわた)は煮えくり返る。
「……誤魔化そうとしても、詳しい人が見ればすぐ分かるわよ」
「はい……?」
「あんたがそれ持ってるだけで、おかしいって言ってんの」
ジャパンジャージそのものは、世界に数枚ほどにレアというわけではない。毎年何十枚も配られるものだから貰う人は私のように何回も貰うし、競技引退した人が売ったり人にプレゼントすることも、そこまで珍しいことでもない。
それは、私が競技人生最後に貰った、いちばん思い入れのある去年のモデルだ。
日本代表に選ばれた同期の選手のことは、シングルだけでなく二人競技のペアもアイスダンスも、それどころかスピードスケートの選手の顔だって思い出せる。
その中に、この女は居なかった。――つまり、誰かから譲り受けたか、それとも買ったか、そのどちらかであろう。
「あんた、名前は」
「秋川です」
「……秋川、ね」
その姓に聞き覚えはない。ということは、同姓の兄弟姉妹のものではないし、私が記憶違いをしている可能性もない。
「…………最っ悪」
ぼそりと呟き俯くと、後ろからどん、と衝撃が来て転びそうになる。
「こんなとーこで、何してんのー」
飛びついてきたのは、愛梨だ。私が誰かと話していたことに気付くと、「ん? 誰?」と、その子を見て首を傾げた。
「おはよ。秋川さん。知ってる?」
「いんや? 1年?」
秋川はコクリと頷き、黙って一歩下がった。心の距離を感じる。
というか、そうか、秋川は同級生なのね。定員割れしてるといっても6クラス。他のクラスの、特に地味な女子の顔なんて覚えてないから、今日初めて会った気がしちゃったけど、流石に8カ月同じ高校に通ってて一度も会ったことないはないだろう。
腫れぼったいダサ眼鏡の奥にあるはずの目は、前髪に覆われて何も見えない。今どこを見てるのかは顔の向きでなんとなく分かるが、眩しいほど明るい愛梨とは真逆のタイプだ。
「さっむいし、とっとと教室入ろー」
「寒いならちゃんと下履きなさいよ……」
「それだけはプライドが……っ!」
真っ赤なコートにロングマフラー、もっこもこの帽子に、――何故かモロで出てる生足。いやそこは隠しなさいよ。でも「足出せるうちに出しとかないと」なんて言ってたから、そこは絶対譲れないらしい。諦めなさい。
愛梨に手を引かれて、ほとんど誰の足跡も残されていない裏門から校舎に入る。
校舎に入る前に一度だけ振り返ると、秋川は呆然とした様子で立ち止まったままだった。
氷の君へ 衣太 @knm
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