第51話 ◇セレストブルー
◇今回はサフィール視点のお話です。
俺たちは、エイシャ城旧館の中庭でナスカを見送った。
初めて会ったときは強がりなくせに弱弱しくて頼りなくて、いったいどうなることかと思っていたけど、ほんのひと月でずいぶんと強くなった。俺自身、彼女に引っ張られて変わった部分もある。
アベルは一足先に旧館の中に帰っていった。俺は中庭に置いてあるベンチに座り、植わっている花を眺める。肩の上の葵が頬を摺り寄せてきた。ふわふわの鱗毛が肌に触れて、くすぐったい。
俺は青く晴れ渡った空を見上げて、先ほどのやり取りを思い出していた。神器を開発した、『知り合い』のことだ。いのちの似姿を作ることに執着した、怪物。
「なあ、葵があの人に命令されていたことって、結局何だったんだ?」
葵はムム……と不機嫌そうに唸っている。ちょっとした遊びで模造体の中に入った途端この世界につなぎ止めて、いいように使ってきた相手の下した命令だ。思い出すだけでも嫌なのだろう。
「模造体同士の繁殖実験だって。魂があるなら変わると思ったのかな」
「えっ……」
葵の口から出てくると思ってはいなかった言葉が出てきて、俺は絶句した。葵がそんなことをされていたのかと思うと許せない。相手はやたら葵に執着していたジルとか言う奴だろうか。刺し違えてでも俺がとどめを刺せばよかった……。いやいや、そうじゃなくて。今考えるべきはナスカと神器のことだ。俺は深呼吸をして心を落ち着ける。
「その……そうじゃなくて、ナスカについてきてた理由のほう」
「あっ」
葵は間違いに気づいたのか真っ赤になって、えっとね、と続けた。
「あのヒトは、『ナスカをカリィと一緒にエイシャに導くように』って言ってた。えっと……、たぶん転移魔法で学院にカリィを連れてきたけど一人になっちゃったアベルに会ったときで、あとでナスカの事を見つけた時にはナスカはもうカリィを持ってたから、たぶん引き継ぎがされた後だと思う」
葵はでも……と不思議そうに手を絡ませる。
「ジルもセイも、ナスカの事連れ戻そうとしてたよね。あれはどうしてだったんだろ?」
確かに、それは葵に下された命令とは相反している。
おそらくだが、カリィに負荷をかけようとしたのだろう。彼女は造ることに執着はするけど、造ったものにはあきれるくらい興味がないのだ。
俺はより深く考えようと口元に手を当ててうつむいた。
――と、羽ばたく音がして、突然目の前が薄暗くなった。
俺は導かれるように空を見上げた。
そこには、悠々と白い翼を広げて舞い降りる女性の姿があった。金髪の襟足を短く切って、残った横髪を編み上げてバレッタで留めたきっちりした髪型。晴れた青い空に溶け込むようなフリルたっぷりの青いドレス。そして、夜空のように冷たく深い碧の瞳。
葵が肩の上で身を固くする気配がする。大丈夫、彼女に葵のことは見えない。
「あら、こんなところにいたの、
彼女は――パトリシアは、遠い記憶のままの甘い声で囁き、にこりと笑った。
「ライラを迎えに来たのよ。せっかくだから一緒に見に来る?」
俺は短くはい、と答えて立ち上がる。
逆らう理由もなかった。俺は目の前に立っている彼女の碧い瞳が、自分の目線よりも少しだけ下にあったことに気付いてまばたきをした。それは当然なことなのだが、ずっと見下ろされていたはずなのに、と不思議な気持ちになってしまう。
俺が呆けているうちに、パトリシアはすたすたと旧館に入っていった。慌てて追いかけると、彼女は祭壇に置いてある供物や祭具を床に除けてライラに触れている所だった。
「予測していた耐用年数をずいぶん超えて動いてくれたわね。この一か月でずいぶんと負荷がかかったのかしら。でも、いい知見が得れたわ。そう思わない? カリィたちにも試練を与えることでなんらかの変化があったかもしれないわ。見るのが楽しみね」
俺の口が開いて、素晴らしいですという言葉を紡ぐ。
何も素晴らしくなんてない。エイシャ王家の人たちは、カリィは、彼女の実験なんかのために辛い思いをさせられるいわれなんてない。
そもそも神聖なものとして与えたくせに、そんな扱いをしないでやってほしい。エイシャの民は彼女たちをあがめ、礼を尽くして送ってくれているのに。
だけどそんなことを俺が言ったとしても、きっと無駄だ。遠い昔に刻まれた記憶が、俺なんかではどう頑張ったって到底この人の智慧には及ばないし、何を言ったってその心は動くことはないということを知っている。だから、何も言えなくなってしまう。
「それにしても……」
パトリシアは俺の方を冷たい目で見て、翼を揺らして開いた。威嚇するときの形だ。
「いつの間にかどこかに行ってしまったと思ったら、卑しい魔族の服を纏って、翼も染めて、本当に悪い子。そんなことをして人の目を欺いたつもりでも、お外に出たら結局見つかって食べられてしまうのはわかっているでしょうに」
俺はあいまいに笑いを返す。
そんなの分かっている。何度も味わって、死んでしまうほうがましだと思うこともあったけど、これはその中で生き残るために俺自身が自分の意志で選んだ手段だ。そもそも、あなたが俺の力を奪わなければ、そんなことをしなくても生きてこれたのに。
俺の憤りを見透かしたのか、パトリシアは俺の手を取って握る。そのまま袖を捲って、自分の刻んだ呪いがまだ生きていることを確かめるようにその上を撫でた。ひやりとしたその感触に、俺はつい身を固くしてしまう。呪いは起動していないはずなのに、うまく呼吸ができなくて息が詰まった。
パトリシアは得心したように頷き、俺の顔を覗き込んで優しく微笑む。
「今日は神器の終わりを見届けに来ただけよ。あなたも少し遊んだら、帰っていらっしゃい」
帰っていらっしゃい。
そう言われた瞬間、胸の奥に暖かい灯がともるような気がした。握られた腕の温度が、急に温かいものに思えてくる。
……帰ってもよかったんだ。
ただ外に出てみたくて、母をひとり残して抜け出したけど帰れなくなってしまった家。自分のせいで失ってしまった帰り道はとうに見つけていたのに、許してもらえないと思っていた。
俺はその言葉に、ほとんど無意識にうなずいていた。
急に首元にちくりとした痛みを感じてはっとする。
葵が噛みついていたのだ。正気に戻そうとしてくれているのだろう。ごめん、俺は正気なんだ。でも、思考がめちゃくちゃでうまくいかなくて……ああ、そうか、それが正気を失っているってことか。
俺は目を伏せ、首元に触れるふりをして葵を撫でる。
祭壇部屋の窓からのぞく切り抜かれた空は、青くどこまでも遠かった。
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