第48話 ふっかつのまほう

 別棟では、準備がすでに終わっていた。


 旧館に勤めている使用人たちによって祭壇が組まれ、その前の床にはすでに葵とアベルが横たわって眠らされている。その体の上には白い布がかけられていた。夜明け前、薄い月の浮かぶ暗闇の下。色の濃い材木で建てられた部屋の中で、小さな蝋燭だけがその白を浮き上がらせている。


 サフィールはいつもつけている黒い羽の髪飾りを取って髪を結い上げ、中に着ている服もすべて白いものに着替えていた。手甲は取って、あらわになっている刺青だけがその身を黒く彩っている。曰く、とっておきのやつ、だそうだ。

 私もエイシャ正教の祭服に着替えて部屋に入る。大教皇のものではなく通常の祭服だが、久しぶりに身が引き締まる感覚がした。杖に変じたカリィを握りしめる。


 儀式の手順はこうだ。

 

 まずは私が精霊魔法でこの部屋を魔力で満たし、清める。次に、体の先端から組織を置き換えていき、神経を造り、心臓を宿す……らしい。人体の細かいことはよくわからないので自分のやることだけを考えると、この部屋を清めて葵の魂がどこかに行かないようにすることだ。

 葵の魂の色は彼女自身に教えてもらった。絶対に見逃したりなんかしない。


 葵の顔に白い布がかけられ、使用人たちがすべて部屋から出た。儀式が始まる。

 

 私は念じる。夜明けの金色の光。東の空の向こうに眠っている光をこの部屋に連れてこよう。ろうそくの炎が揺れ、白金色の小さな光が部屋にふわふわと舞い始める。腕を前に出し、杖で軽く空をかき混ぜるようにすると、光が部屋にあふれた。

 

「満たしたわ」


 私の言葉を合図に、サフィールが葵にかかっている白布にそっと手を差し入れて葵の手を握る。何事か呟きながら、握った手に額をつけた。しばらく祈るようにじっとしてから手を引いて、アベルの方に向き直る。きれいな円を描くように手を前にそろえて、額を床につけるくらい深くお辞儀した。

 彼はゆっくりとした動きで身を起こし、アベルの体にかけられた白い布をめくる。私に癒しの魔法を使った時のように何度も短く息を吸ってから、あらわになったアベルの体の上を自らの右腕でそっと撫でていった。腕に浮かんだ呪いの文様が魔法に反応するように白く光る。

 

 サフィールの手が撫でていったはしから、まるで草花が芽吹いていくように、ピンク色の、赤の、白の肉が、組織が、骨が、編まれるように形作られていく。撫でられたアベルの右腕がきりきり、かちかちと機械のような音を立ててほどけて、編まれた組織に置き換わっていった。対応するように、葵の体の上に敷かれた白い布が床に落ちて平らになっていく。


 ――その指は、とふと思う。

 

 誰の指だと、誰の体だという事になるのだろうか。

 たとえば芽吹いた草花は花を咲かせ、実を落とし、枯れて大地となり、また次の花を咲かせて命を巡らせている。絶えたいのちは置き換わって新しいいのちを作っていく。

 今目の前で行われている事もきっと同じものであるはずなのに、兄と葵の魂を守るための魔法であるはずなのに、何か大切なものが失われる気がして、目をそらしそうになる。

 苦しげに息をつく声が聞こえて、私は現実に引き戻された。


「ごめん、少しだけ……」


 サフィールはうずくまって呼吸を整えている。あの刺青が身を蝕んでいるのだろう。額からにじんだ汗が雫になって床に零れ落ちた。しばらくの静寂があったのち、また体が織り上げられていく音が聞こえはじめる。

 彼はそれからも何度もそうして息を整えては、四肢を、体を織り上げていった。


 ――と、魔法が止まった。


 全ての音が消え、ただ短くて荒い呼吸音だけが聞こえてくる。アベルの体は編み上げられる途中で止まって、つなぎ目の赤と金属の色が痛々しく晒されている。


 『怖くて戸惑ってしまったらお終いだからね』という言葉が脳裏に浮かんだ。

 まさか、こんなところでビビったんじゃないでしょうね……! もしくは、苦しくて痛いとか、いやいや、ひょっとして魔力切れだったりするとか……? 


 私ははっとして葵の方を見てしまう。葵にかけられた布はもうほとんど平らになってしまっている。つまりは、もうそれだけしか残っている部分がないという事だ。

 私はもう一度サフィールの方を見る。葵の方からは目をそらして、震えながら右手を伸ばそうとしている。だが、体にうまく力が入らないようだ。おそらく、呪いの影響で神経の感覚が奪われているのだろう。彼の小さな声が聞こえてくる。

 

 あと少し、あと少しなんだ、だから、動け。

 

 そう言いながら彼は左手で何度も自分の腿を叩いていた。だけどその動きも音にすらなっていない。立ち尽くしながらも私は考えていた。

 このまま何もできないなんて嫌だ。昨夜、葵に言われて気が付いたんだ。私の願い。


 ――私は、全てを救いたい。


 私は、自分が好きな人たち全ての願いが叶ってほしいと思っている。甘い考えかもしれないけど、でも、そう思うことで少しでも最良の結果に近づけるのなら、その考え方にもきっと価値はあるって、信じたい。

 私は杖で床を突いた。じゃらん、という音が部屋に響き渡る。


「呪いなんかに、ビビってんじゃないわよ!」


 私はサフィールの横に座り込み、左手を握りしめた。

 

「あんたが頼りなの! 誰にも、私たちにだってできないことなのよ! 私があんたの痛み背負ってやるから。できるならこの力だって分けてあげるから、成しなさい!!」


 サフィールが驚いたように私の顔を見返してきて、目が合う。その瞬間、私の中に流れ込んでくるものがあった。


 痛みではなかった。

 

 息ができない、

 

 痛い、情けない、会いたい、体が動かない、早くしなきゃ、大丈夫だから触らないで。

 

 いつの間にか周りがこんなに明るいんだ。

 

 もう、夜明けが来てしまった。間に合わない。

 

 ――それは、感情だった。

 彼の目が私から逸らされ、苦しそうに閉じられた。そうか、こいつは精霊を見ることができない。この部屋を白金に満たす光だって、きっとさっきまでは見えていなかったのだ。急に夜明けが来てしまったように感じたのも無理はない。

 そんな、もう夜明けの時間になってしまったんだと東の空を見ると、まだ暗い。

 

 ……え、それってつまり、と思って声をかける。

 

「白金の光なら、東の空から呼んだ陽光の精霊よ」


 私の言葉に反応するようにサフィールの目が薄く開けられる。彼は陽光の精霊の姿を一つ一つ確認するように部屋を見回した後、再び私と目を合わせた。淡く沈んでいたその瞳に、緋色の光が灯る。

 

 サフィールが意を決するように身を乗り出して、アベルの体の上を撫でた。

 残った肉が編み上げられ、一瞬で体が形作られていく。すべての皮膚が閉じられると、音が止まり、空間が再び静寂に包まれた。空中に、今まで彼の体を構成していた金属がくるくると舞っている。

 サフィールは私の手を離し、両手を重ねてアベルの胸の上に手を置いた。その上に祈るように額を重ね、長く長く息を吐く。

 

 ――と、アベルの体がびくんと震え、息を吸う音がした。

 

「……っ!」


 アベルの手が動く。

 その腕がゆっくりと持ち上がり何かを探るように胸の上へと動き、サフィールの手に触れた。彼は自分の呼吸と鼓動を確かめるようにしばらく息をして、目を開ける。

 

「おはよう、ございます……?」


 その声を合図にするようにかしゃんと音がして、金属の部品の塊が床の上に落ちた。

 

「成功した……の?」


 多分ちゃんと成功しているはずなのだけど、私はあっけにとられてそれ以上何も言えなくなってしまった。


「そうみたい」


 アベルが柔らかく微笑む。

 

 助かったんだ……! 

 

 急に胸の中に実感と嬉しさが溢れてきて、私は思わずアベルに抱きついてしまった。アベルがわっと小さく驚く声が聞こえる。体があたたかい。胸に耳を付けると、少し早い心臓の鼓動が聞こえてきた。生まれたての、彼だけの心臓だ。

 サフィールはそのままの姿勢で倒れ込むようにへたりと脱力した。

 

「できた……」


 ――その瞬間。

 葵の残った体が、淡い光を放ちはじめた。

 

 光の粒が白布をすり抜けて、一粒一粒、泡のようにはじけて、空中に舞う。葵の身体が、消えていくのが止まらない。淡い翠色の光がサフィールの顔を掠めた瞬間、彼は弾かれるように葵に向き直った。


「葵?」


 彼はまだ自由に動かない体で葵の方に這い寄り、その名を呼びながら白い布を引いてその下の葵の頬に触れる。抱きしめようともう片方の手を出した瞬間、無数の淡い翠の翅が羽ばたいた。

 

 葵の、魂の光の色だ。

 

 翅は時に白に、時に翠に色を変え、きらきらと宙に舞い上がる。


「まって……!」


「行かないで、ダメだって、なあ!」


 先ほどまで私に力を与えてくれていた精霊たちの白金の光が、翠の翅を受け入れて、溶け合っていく。




 一瞬眩しい光が部屋を満たし――、



 葵の身体は、跡形もなく消え去っていた。

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