第47話 夜明け前
約束の時刻の少し前に目が覚めると、葵はすでにベッドから抜け出していた。
いつも遅起きなのに、とぼんやり思いながら、庭にある井戸に向かう。きりっとした冷たい水で気合いを入れたかった。
うとうとしながら考えていても、どちらを選ぶかなんて結局決められなかった。
『葵』は自分を犠牲にすることを選んだ。葵の魂はこのことをどう捉えているんだろうか。魂は体の奥にとじ込められて出てこれないから、話を聞くことはできない。
答えを求めるようにぼんやりと爪を見る。小さな小指の爪に乗った翠色は、何も答えてはくれない。
アベルは、もうとっくに覚悟していたようだった。初めて出会ったあの日から、ずっと自分はいつか失われる、不要なものだったと感じていたような雰囲気があった。でも、彼にだって好きなものがあった。気持ちがあって、生きていた。私たち兄弟の中で、誰よりもエイシャを愛している雰囲気もあった。
だからこそ、自分は生きているべきではないという結論に至ったのかもしれない。だけど、私は彼に生きていてほしいとどうしようもなく思ってしまう。
井戸には先客がいた。サフィールだ。ローブとブーツを脱いで、石造りの水盆の横にしゃがんで桶に流れる水をためていた。いつもきっちり着込んでいる着物も上半身を脱いでいる。
「……何やってんのよ」
「何って、儀式前の禊。ここでやっていいって言われたから」
サフィールは桶いっぱいにたまった水をかぶった。もう夏とはいえ陽が出る前は涼しい。おまけにこの井戸は水の精霊の力か、いつも凍りそうに冷たいのだ。見ただけで寒そうだ。
「葵は、やっぱりやるつもりみたいだな」
「あの子、ふわふわしてるように見えて結構頑固なところあるからね……」
そう、あの子はそういうところがある。
こうと決めたことは、絶対に押し通す強さがあるのだ。いっそ、本当に別人みたいになってしまって、見た目だけ同じの違う物になってしまったと割り切れてしまえるなら、よっぽどよかったのに。それでも、葵の体だからどうしても重ねてしまうことを止められないのだ。
こいつも私も、思い入れの分だけ苦しくて辛い。
「ナスカ、俺は言葉の力を信じてるからあんまり口に出したくないんだけど……。ちょっと、捨てさせてくれる?」
サフィールはうつむいて、ぽつりと呟いた。
「なによ」
「正直、自信ない」
「この魔法、怖くて戸惑ってしまったらお終いだからね。毒消しとお前の膝はうまくいったけど、自分だけで癒しの力使うの、苦手なんだ」
癒しの魔法が苦手だなんて、治療師と言っていたのに不思議な話だ。でも、治療といっても別に命のかかった大掛かりなものばかりではないだろうし、薬を使ったり私にさせたみたいに人を使ったりしていたのだろう。
「何でなのか聞かないんだな」
「この刺青、神経に沿って入れられてるんだけど、呪いみたいなものでさ」
サフィールはそう言いながら自分の体を撫でる。炎のような、絡みつく蛇のような意匠の刺青が、いつも服に隠れている部分のほぼ全てに刻まれていた。
言われてみれば、紋様はデザインされているというよりも一定の法則に沿って描かれているような感じだ。傷痕のようにも見えて、痛々しい。
「声以外の力を使おうとすると、反応して神経を攻撃するようになってるみたいで、痛くて呼吸すらできなくなるの。あと、こないだみたいに強制的に起動させることもできるから、呪文を知っている相手には言うこと聞くしかなかったりとかさ」
「見た目も怖いから引かれるし、恋愛とかもあんまり続かないわけよ。困っちゃうよな」
サフィールは困った顔をして肩をすくめてみせる。なるほど、だからジルには手も足も出なかったわけだ。だけど、恋愛についてはちょっと関係ないような気もする。どっちかというと、主に言動や日頃の行いのせいではないだろうか。
「恋愛は……、他にも原因あるんじゃない?」
「あはは、厳しい」
「だけどまあ、確かに葵はそういう……見た目のこととか気にしなさそうよね」
実際、あの子は最初から彼の外見面については全く気にしていなかった。今も私は彼の文様は正直触れたくないくらい恐ろしいと思ってしまうけど、あの子ならまるでそれがなかったかのように触れるのだろう。
「うん、不思議な子だよな」
「……」
サフィールは水盆から桶に注がれる水をじっと見つめていた。水はとうに桶からあふれ出して、石畳を濡らしている。その背中は初めて会ったときよりもずいぶん細く小さく見えた。
「……会いたいなぁ」
「私も助けるし、きっとエイシャの精霊たちも味方してくれるわよ。頑張りましょ」
自分で言いながら、ちょっと変な気持ちになる。
なんだかまるで立場が逆転してしまったみたいで、ありていに言えば気持ち悪い。
彼にはもっと自分にはできないことなんてないみたいな、そんな顔をしていてほしい。自分は天才つよつよ魔法使いですっごい治療師だから大丈夫だって、胸を張っている姿がこいつらしいのに。
「ナスカ……」
そんなことを思っていると、サフィールがじとっとした目でこちらを見てくる。
「なんか、お前ちょっと気持ち悪い」
「はぁ!? それはあんたもでしょ! しょぼしょぼしてキモいのよ!!」
「そう、その通り。これは俺らしくない」
サフィールは目の前の桶をひっくり返して、立ち上がった。まるで今までの様子が嘘のように、腰に手を当てて、笑顔で私に向き直る。
「気合いの入る返事ありがと」
「今日のこの魔法はな、他の誰かのだけじゃなくて、俺自身のために成したいんだ。だから……」
サフィールはそう言って手をひらりと返し、儀式の行われる別棟の方を指しながら悠々とした様子でにやりと笑った。
「行こうか。滅多と見れない千金の奇跡、とくと御覧じろ、だ」
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