第40話 白き翼の民
まだだ、まだ終わってない。
私は振り返ってサフィールと葵を見る。二人とも意識を失って横たわっている。呼吸もしているかどうかわからない。
腿に涙が何粒も落ちて、初めて自分が泣いていることに気付いた。私は手の甲で涙をぬぐって、葵を抱え上げた。砕かれた左手が痛くて、うまくいかない。だけど、私が何とかするしかないのだ。
顔を上げてサフィールのほうを見て、私は目を見開いた。
一瞬、彼が意識を取り戻して立ち上がっているように見えた。
闇の中に、翼を広げた誰かが立っていたのだ。
目が慣れるにしたがって、それは長身のグラマラスな女性だということが分かった。一瞬翼に見えたのはマントで、肩には見慣れた紋章――帝国学院の校章が付いている。マントは海風に吹かれて、羽ばたくように翻っている。
――この人、見たことある。
帝国学院の学院長、パトリシア・M・ディアスだ。優しくて美しいと生徒の間でも評判の学院長先生だ。どうして、そんな人がこんなところにいるのだろう?
彼女は口元に手を当ててサフィールのことを見ているようだった。声をかけようか迷っていると、彼女はこちらのほうをちらりと見て、口を開いた。
「あなた、口は堅いほうかしら?」
一瞬消えていた震えがよみがえってくる。
本能的に、この人――いや、この生き物にはどうやっても勝てないという恐怖が襲ってきた。無意識に葵を抱きしめる手に力が入る。
「どうしたの? お返事できないのは、悪い子よ」
私ははっとする。学校で学んでいる礼法では、こういう時は大きな声で短く答えるのだ。
「はい!」
学院長はうなずいて、カツカツと高い靴音を立てて私のほうに歩み寄る。おもむろにしゃがんで私の左手に触れた。
あっと声をあげそうになったが、痛みはなかった。学院長の柔らかくて暖かい指が、私の掌の中を撫でる。膝が癒される時に感じたような、肉と骨がじわりと溶けていくような感覚がした。学院長は次いでひらりと手を返し、私の手の甲をもう一撫でして、握った。私はその手を握り返す。砕けたはずの左手は、元通りになっていた。
――この人も、白き翼の民だ。
私は今までの経験をかき集めて、今自分がどうふるまうべきかを計算した。学院長が白き翼の民だなんて、知らなかった。だけど、冷静に考えてみればわかる。白金のように淡い金髪に深い夜のような青の瞳の人間なんて、そうそういるものではない。だけどなぜか同じ人間だと誤認させられていた。
きっと、そう言う風に何かに誤認させるように振る舞うのも、彼らの生きるための術の一つなのだ。
私はありがとうございます、とだけ告げて、次の言葉を待つ。
「何も聞かないのね。素晴らしいわ」
学院長は満足げに微笑んで、周囲を見渡す。
「暴走したジルを罰しに来たのだけど、あなた、自分でやったの。本当にエイシャの……アカーナと神器は面白いわ。もっと見ていたかった」
暴走。セイ先輩とジルは警備隊として私と葵を連れ戻しにここに来たと思っていたけど、そういうわけじゃないってことなんだろうか。そして、アカーナとは我々エイシャに住む純血のエイシャ人、つまり王家の者を示す言葉だ。
白き翼の民……魔法と知識に長けた、復活と再生の力を持つ生き物。エイシャに神器をもたらしたもの。だけど、目の前にいるこの人は、学院長で……、それで、なんだっけ。
わけがわからなくなってきた。カリィは何も言えないのか、何らかの力で黙らされているのか、何も言わない。
悔しい。頭が悪い自分が憎い。
「――さて、」
「この子が起きたとき、私がここにいるのは都合があまりよくないから、代わりをしてもらいたいのだけど。いいかしら?」
学院長はそう言ってうつぶせに横たわったままのサフィールを示す。顔色はうかがえないが、ぴくりとも動かない。白い服の袖口が、真っ赤に染まっている。
「は、はい!」
「そう、いい子ね。やることは簡単よ。空気を清めて魔力をあげるの。できるわね?」
私は必死でうなずく。
「あとこれは、ジルが持っていたといって渡すといいわ」
学院長はそう言って私に巻物を手渡す。先輩に渡されたものと似ているようだが、少し違う形の気もする。そう思って顔をあげると、そこには誰もいなかった。
――え、なに? 幻覚見ちゃった?
あっけにとられる私を否定するように、私の手の中には確かに渡された巻物がある。
私はまた、一人に戻ってしまった。もう、誰も助けてなんかくれない。
あふれてきた涙をぬぐって、カリィに命じて杖に変じてもらう。
まずはこの空間をきれいにするイメージをしよう。一度だけ入ったことがあるエイシャの神殿、神様が下りる部屋。夏至の日……そうだ、ちょうど今のような季節、夏至の日に、一筋の光が入ってくる。
それは、夜明けとともに訪れる白金色の光。手の届く範囲を光で満たした。
手が震えて杖のリングがカチカチと鳴った。ここからだ。私は杖を地面において、深呼吸する。
私はゆっくりと手を伸ばして、サフィールの手を握った。ひどく冷たい。でも、かすかに握り返すような反応があった。私はその手を温めるようにさする。
「ねぇ、ひとりに、しないでよ。お願い……」
ゆっくりと、少しずつ、自分の魔力を分け与えていくイメージをする。
皮膚の境界を越えて魔力が伝わった瞬間、急に引っ張られるような感覚を覚えた。気を抜くとすべての魔力を持っていかれそうになるほど深い器。さすが天才つよつよ魔法使いを自称することはあって、私程度の魔力では満たせない、と絶望を感じた。と同時に、葵が魔力のやり取りを怒った理由がなんとなく分かったような気もした。
私はつい葵を見る。
「葵、ごめんね……怒らないでね」
しばらくゆっくりと魔力を送り続けていると、つないだ手のひらが温まってくる。顔にも血色が戻ってきた。お願い、起きて。そう願った時、その胸が大きく動いて、咳き込む。
「う……げほっ!」
サフィールはしばらく咳き込んだ後、薄く目を開けた。苦しそうな呼吸をしながらも、ゆっくりと身を起こす。
「……ぁ、葵、は……?」
私を見て、かすれた声で訊く。すぐに、私の抱いている葵に気が付いた。葵の服が赤く染まっているのを認めて、息を詰まらせる。
「違う、葵の血じゃないの! でも、起きなくて……」
サフィールはそうか……、と呟いて葵の額に触れる。何かを確かめるようにしばらくそのままじっとしてたが、眉を寄せてぎゅっと目を閉じた。一つ深呼吸して目を開け、私を見る。いつも自信に満ち溢れていたその目は、見たことのない絶望の色を宿していた。
私は学院長に渡された巻物のことを思い出す。罠かもしれない。だけど、なんとなくだけどこれはそういうものではないように思えた。
私は震える手で、巻物を彼に見えるように差し出した。
「こ、これ。あのジルってやつが持ってたんだけど、何かわからない?」
サフィールは巻物の文様を確かめるように指でなぞる。彼は苛立つように唇を噛んだ。
「……ここじゃ、無理だ。宿に戻ろう」
私は頷いた。
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