第37話 ◇祈りのことば、祈りのおと
◇今回は前回に引き続きサフィール視点のお話です◇
「ここなんだけど……」
海岸沿いの通りに、その店はあった。
古い石造りの長屋の表にはたくさんの鉢植えと魔法具が置かれている。店内は照明を落とし、中に置かれている本や道具は丁寧に整頓されていて、よく磨かれた木の床には塵ひとつない。他の魔術書店とは一線を画した佇まいをしていた。
俺は店先でお茶を飲んでいる店主に挨拶をして、店に入った。何度も通って見慣れた魔法書の並ぶ棚に案内する。葵の方を伺うと、興味深そうな顔できょろきょろしている。
「ええと……例えば、カルメルは狩人の領地っていうのは知ってると思うけど、魔術の盛んな土地でもあってさ」
俺は平積みされている呪文集を手に取る。
「帝都には入らない本っていうのがいっぱいあって。規制とかじゃなく、特に必要とされなくてみたいな感じ。俺は言葉が好きなんだけど、帝都で使われるのは基本的に帝国語か眠浮の言葉だけだから、例えばこういう現地の呪文集なんてのは本当に嬉しくて」
と、一気に話して葵の方を見る。真剣にこちらを見ている。まだ続けても大丈夫みたいだ。
「特にこのあたりの精霊魔法の呪文集は、地域ごとに発音の違いが記載されている。カルメルは南北に長い土地で、気候の差が大きいから同じ呪文でも発音に大きい違いがあるんだ。それによって、効果の違いがわずかにあることに着目した論文集が、この本。」
俺は平積みされている横の本を示す。
「基本は同じ呪文なんだけどね」
「どうしてそんな風になるんだろう?」
葵は俺の目を見つめる。
「恐らく、精霊にも気持ちいい音やそうじゃない音っていうのがあるんじゃないかな。それと……」
俺は本を元に戻し、後ろの棚の古典囃子集を手に取る。
「こういった神に捧げる類の音楽と合わせて最良の詠唱を組んでいく手掛かりにしたりできるんだ。そういう資料を集めるのに通ってた」
「そっかあ……!」
「せっかくお願いするならやっぱり気持ちよく聞いてほしいからね」
俺の言葉に、葵はこくこくと頷いている。
「でも……」
葵が声を潜める。
「あなたたち白き翼の民は、精霊魔法を使わなくても火を起こしたり風を操ったりすることができるよね? 声の魔法もすごく強かったし。どうしてそうまでして精霊魔法を使うの?」
葵の当然ともいえる疑問に、胸が締め付けられた。
「……」
「そっちを使うの、あまり得意じゃないんだ」
嘘はついていない、と思った。それに、パトリシアの命令で動いているはずの彼女は、その理由を知らないのだろうかとも思う。ちらりと葵の顔を伺ったが、本当に不思議に思っているような表情だった。
「……苦手で」
それでも苦しくて、同じようなことをもう一度言ってしまう。
「そっか、じゃあ、頑張ったんだね」
葵はそう言って穏やかに微笑む。
そうだ、確かに頑張ってきた。
精霊たちは俺たち白き翼の民があまり好きではないらしい。姿も、見ることはできない。
必要に駆られてはじめて精霊魔法を使おうとした時、普通に呪文を唱えても精霊たちは何も応えてくれなかった。だから、何度も儀式を行って、喉から血が出るほど何度も呼びかけ続けて、自分だけの精霊が喜ぶ呪文と儀礼を組み上げた。それでやっと人並みに精霊魔法が扱えるようになった。
でも、そんなことには誰も興味がない。
魔力さえあれば公式通りに呪文を唱えれば精霊たちは言葉を聞いてくれるのだから。それどころか、俺に助けを求めてきたお姫様は、何も言わなくても精霊たちと通じ合うことができるというのだ。それを知ったときには、羨ましくて身を引き裂かれそうだった。俺には、この身から絞り出した音がどう伝わっているのか、答えが欲しくても永遠に聞くこともできないのに。
「さっちゃんの祈りの音、すごく綺麗だから。その理由が聞きたかったんです」
横で葵がふふっと笑う。本当に他意はなかったようだ。胸の奥でこごった何かがじわりと溶けだす感覚がした。らしくなく、目の端がぎゅっと熱くなる。
「ねえねえ、他はどんなものがあるの?」
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、葵がわくわくとした様子で聞いてきた。
「ああ、これとか……」
俺は隣の棚に置かれている魔法具を示し、説明を続ける。
しばらく話しこんだ後、店長にお茶に誘われた。数日後カルミアを去ることを伝えると、少し寂しそうにされた。先ほど手に取った呪文集と論文集を購入して、俺たちは帰路についた。
***
カルミアの港のそば、石畳の道を並んで歩く。
珍しく人気はなく、
夕暮れの少し冷たい風が、もうすぐ夜が訪れることを告げている。この一日が終わらなければいいのに。そう思っていると、ふと葵が足を止めた。
葵はまぶしそうに水平線の向こうに沈む夕日を見つめている。
――これは、なかなかいい雰囲気じゃないか? ここは、そっと肩を抱いて……
そんなことを考えていると、急に葵が振り向く。
葵の瞳は、夕日を映して、燃えるような菫青色に輝いていた。いつもとは違う、何かを決意したような表情だった。
「さっちゃん」
「あなたに……伝えたいことがあります」
葵は、じっと俺を見つめている。蒼い瞳のなかに静かな決意を炎のように揺らめかせて、口をかたく結んで。
「なに?」
……これは、もしかして。いやもしかしなくても告白だ。いつでも受け止める準備はできている。俺は黙して次の言葉を待つ。
「えっと……ほんとうの僕の話……聞いてほしいの」
「……うん?」
葵は少し困った顔でうつむいた。あれ? なんだか思ったような感じではないかも。
「でも、僕のこと、嫌わないでいてほしいから。困ってます」
「それは、心配しなくてもいいと思うけど……」
葵はとんでもないことを言う。そんなこと、あるはずもないのに。
俺は葵の決意を支えたくて、その右手を取ってそっと握り自分の胸に導いて押し当てる。葵は俺の鼓動を確かめるように、胸に当てた手を開いた。葵の手に反射するように、自分の脈拍が伝わってくる。
葵は俺の手に自分の左手を添えて、その上に額を重ねた。祈るような姿だと思った。
「えっとね……」
「僕、精霊たちがあまり好まないはずの白き翼の民のあなたが、なぜこうもあの子たちに庇護されているのか初めはわからなかった。でも、今日気付いて、僕のことも知ってほしくなって……」
すこし、沈黙が流れた。
うつむいた葵の細い首。そのうしろに結ばれた白いリボンが呼吸で揺れている。潮風に吹かれたおくれ毛が、夕日を浴びてきらきらと光ってまぶしい。
「……ちょっとだけ、嘘つきました」
葵は俺のことを見上げて言う。
「……あのね」
「あなたが僕を好きになれたのは、僕が小さくて、柔らかくて、触れてもあなたを傷つけない体だからなんです。だから、正体を知られてしまうのが怖いです」
葵は一度ゆっくりと目を閉じて、大切な宝箱を開けるようにその目を開いた。
「……でも、言うね」
その底に、ちらりと淡い炎が瞬いたのが見えた気がした。なぜか、その色から目が離せない。
「ほんとは……、初めて会った時から、僕、ずっと感じていたんです」
「あなたの命の音」
「魔法を呼ぶ祈りの声」
「触れたところから伝わってくる魔力」
祈りの呪文のように、葵が言葉を紡いでいく。
「全部、心地よくて」
葵がゆっくりと俺の右手の甲に顔を寄せ、口で触れた。
「――本当に、」
「本当に、おいしそうだった」
柔らかいくちびるの感触に混ざって、小さく開いた口から覗いた歯がちくりと触れる。
唇が離れて、手の甲に熱い呼吸がかかった。胸の奥に、その瞳の炎が燃え移る。
「あなたのこと、食べてしまいたい」
葵は俺の目をうっとりとした表情で見つめたあと、返事を待たずに体を離した。たべないですよ、と苦しそうに付け足して、不器用に笑う。
「えへへ……僕、本当はそういう子なんです。怖いですよね。急にこんな……」
「……俺のこと、食べたいの?」
「……!」
俺はその言葉を逃がしたくなくて、確かめるように復唱する。と、葵の瞳からぽろりと一つ涙がこぼれた。葵は小さくあっと言って顔を覆う。
「ごめんなさい……いつも、言えなかった。こんなこと、怖がられると思って……」
「本当は、あなたに祈ってもらえて、魔力を与えてもらえる
俺は泣きじゃくる葵の手を取る。葵は駄々をこねる子供のように首を振り、だめ、と小さく呟いている。自分の衝動と戦っているようだ。
なんてことだ、と思った。
昼間の麗らかな眩しさと違う、闇色の高揚が体の奥から湧き上がってくる。
今日は彼女たちの旅に付き合ってきたご褒美に、ほんの少しの幸せな時間が貰えたらいいな、くらいに思っていたのに。今までもらったどんな欲望の言葉よりも、魂が震える告白をされてしまった。
翼を閉じて自由落下する瞬間。
麻酔なしで肉食の生き物に皮膚を食い破られる瞬間。
大掛かりな儀式に使われて魔力が尽きて倒れる瞬間。
そんな全身の血液が凍るような
葵が欲しがるのなら、このかわいい炎にすべて焼かれて食べられてしまいたい。逃げるなんてできるわけない。
「……いいのに」
決して言ってはいけない破戒の言葉が、口から思わずこぼれ落ちた。
「葵になら、心臓だってあげる」
俺は握っていた葵の手を再び自分の胸に導く。
「そんなこと、誓っちゃだめ」
「僕は、あの子たちみたいにあなたの役にも立てないのに……」
「役にも立てないなんて言うなよ。俺は、お前に救われてる。頑張ったねって言ってもらえて、嬉しかったんだ」
葵は意外そうに数度まばたきをして、俺の顔を見つめた。
「……大人なのに?」
「大人だからかも」
「だから、葵は甘えていいし、わがままも言っていいよ」
「……」
葵は俺の胸に顔を押し付けてくる。
「僕は……、子供じゃ、ないです」
ちょっとだけ責めるような声色。
その声にいつもの空気を感じて、少し悪戯したい気持ちになる。
俺は葵の語る話に、葵自身の身体――かつては魂もないただの生きる人形だった『
それは、無と有のあわいをつかさどる、翅を持つ生き物の姿をした精霊たちの一柱の話。
蛹になろうとしてこの世界に零れ落ちて、そのままお人形の体の中につなぎ止められてしまった魂がいたという、おとぎ話のような話だ。
ならば、俺が捧げるべきものはわかっている。俺は葵の頬をそっと撫でる。
「だったら……『もっと、わがまま言って』」
精霊への祈りの音を着せてささやくと、葵の肩が震えた。
ひと呼吸の間の後、葵は俺の顔をじぃと見上げて、きょろきょろと周囲を伺う。そうしてもう一度俺の顔をじっと見つめた。ちょっとむっとした、頬を染めた困り顔。ちょっぴり気弱で、誰にでも優しくて穏やかに振舞う葵が、俺だけに見せる顔。
長いまつ毛から覗く瞳の中、翡翠色の光がはっきりと俺をとらえた。
「……たりない、です」
葵はそう言って、俺の服を引く。俺はされるがままに背を丸めた。
日はすでに落ち、藍色の夜が辺りを覆い始めていた。
かもめはもう眠ってしまったようで、今はもう柔らかな波の音だけが繰り返し耳の裏を撫でている。遠くの酒場からは弦楽器の音と嬌声が聞こえ始めていたが、その音も次第に意識から消えていった。
気の遠くなるような時間の中で、何度も重ねた痛みが、ひとつ、ふたつと波に攫われて闇に溶ける。
波の音をいくつ数えたのか忘れてしまうほどの時間が流れて。
「――あ」
何度目かの息を継いだ瞬間に、目が合った。
どうやら葵も俺の表情を伺おうとしていたらしい。葵は恥ずかしそうに目を逸らして、ふと声を上げた。
「あっ、星、きれい……です」
照れ隠しか、そう囁いてへにゃっと笑う。つられて俺も笑った後、空を見上げた。
限りのない広い空に、目覚め始めた星が輝いていた。
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