第23話 甘い言葉 後

 俺は、そっと葵の肩に触れる。


「……っ!?」


 絶対に流されまいと意思を込めて、できるかぎりそっと優しくしたつもりだった。

 だが、その瞬間朦朧とした頭にも解るほどびくんとその体が震えて、ふっと密着していた胸が離れた。その冷や水をかけられるような反応に胸が痛みつつも、頭が醒める。

 

 ――今だ。

 

『――さんぜよ、命の水と満ちた気よ、甘き惑いを祓いたまえ――』


 呪文に応えるように白い霧が現れて周囲を包み込み、氷粒となり、固まる。一瞬空中に舞ったのち、床にちりちりという音を立てながら散らばった。

 

「あっ……!」


 甘い香りは、霧と共に消えた。

 桃色の霧にぼやけた頭が晴れ、透明な冷たい空気が肺の中に入ってくる。

 

「怖いなら、無理しなくてもいい」


 俺は葵の肩をつかんで体を離した。もうあの独特な、果実のような甘い香りは消えていた。おそらくあれは魅了の効果を持つ特殊な香りだろう。

 解呪の術を込めた水粒に吸収し閉じ込めてしまえば、効果を押さえ込むことが出来る。とっさの判断とはいえ、うまく行ってよかった。こんな形で本懐を遂げるのは、俺の望む所ではない。

 

「…………」


 葵は力が抜けたように床にぺたりと座り込んでいる。

 

 ……さて、窮地は脱したわけだが、まだ解決していない問題がある。俺はできるだけ冷静を装って、言葉を続けた。

 

「さっきの会話、魅了の香……葵ちゃんは、パトリシアの『お人形』なのか?」


 パトリシア・M・ディアス。現在の肩書きは、帝国学院学院長。


 だがその真実の姿は、白き翼の民の天才技術者。今のこの歪んだ世界を作り出した張本人だ。

 白き翼の民が滅び行く種族であるという運命を嘆いて、自分たちが傷つけられない世界を作ろうとしている。その中でいのちの似姿を人工的に作り出す技術を生み出した。それは小さな白い翼を持つ俺たちと同じ姿の命『模造体ストラシス』。かれらはいろんな役割をもって主人に奉仕している。『お人形』もその役割の一つだ。


 『模造体』は、主人の命令と命令の言葉コードには絶対に逆らえない。命令に逆らった時点で魂を封じ込められてしまうのだ。だから、自らの意志に反したとしても、ときには自らの命を投げ打ってでもその命令を守ろうとしてしまう。先程の誘惑も、命令を果たす上での選択だったのだろう。

 

「……」


 葵は無言で俯いている。その表情は怯えきっていて、俺の顔を見ようともしない。

 俺は肩に触れていた手を引いて、静かに後ろに下がった。

 

「ごめん、言い方が少しきつかった。別に責めようとしてる訳じゃない」


 葵はちらりと俺の方を見た。少しだけ、怯えの色が薄まったような気がする。

 

「さっき言いかけてたこと……俺にどうしてもらいたかったんだ?

出来る事なら何でもしてあげるから、普通に話してよ」


「…………」


 長い沈黙が流れた。いや、時間にしたら数分だったのかもしれない。でも、俺に取っては永遠のように長い時間のように感じられた。葵はゆっくりと座り直して、正座する。

 

「ごめんなさい……」


 葵の瞳から、大粒の涙が落ちた。


「都合のいい事を、言っているのは、解って……います。悪い事、してるってのも、知って、ます。でも……ナスカには、ひっく、黙って、て、ください……」


 葵はそう言うと、ぽろぽろと涙を流して、うつむいて黙り込んだ。

 

「えっと……、それだけ?」


 葵はこくりと頷いた。俺はやや拍子抜けしながら、慎重に言葉を続ける。

 

「つまり、ナスカに気づかれないように、彼女の旅に同行して、えっと、何かをするのが『命令』で、俺は、それを邪魔しなければいいのかな」


 葵は頷く。

 めまいがした。それだけのために、あんな危険な誘惑をしようとしていたのか。パトリシアも何を考えてそんな命令をしているのか心底測りかねる。とりあえず、話は通じそうなのでもう一つ気になっていたことを聞くことにした。

 

「俺に関して何か言われたりしたの? あ、言えない事は無理に言わなくても平気だよ」


 葵は首を振る。

 

「好きにさせておけばいい、って言ってました。」


 期待してはいなかったけれど、予想以上に冷めた答えにがっくりする。

 

「ごめんなさい……」


 葵は俺の心を察したのか、しゅんとして縮こまってしまった。

 小さい体が、さらに小さく見えた。解呪の魔法はまだ効いているはずなのに、甘い疼きが胸の奥を捉えて、その小さな体を抱きしめたい衝動に駆られてしまう。

 

「僕の魅了の魔法、自分ではどうしようもない所もあって……さっきは、わざとですけど。あなたのこと、本当ではない気持ちで振り回してしまって、ごめんなさい」


「え……? 『本当ではない』って?」


 葵の言葉の意味がいまいちよくわからず、俺は疑問した。

 

「言葉通りです。あなたはただ、魅了の魔法にかかってしまっただけなんです。僕は、多分あなたが期待してるような、えっと……何も知らないきれいで可愛い女の子じゃないので」


 葵はそこまで言って、赤くなって黙り込む。それは……やはり、そう言う意味、なんだろうな。


 『お人形』は、誰にでも愛されるようにふるまい、魅了する特性がある。今までもそういう目的で接してくる相手に相対してきたし、その特性を利用してもきたのだろう。

 で、その魔法の影響で俺も魅了されてしまって好きになってしまった、とこの子は思っているわけだ。そういうわけでもないんだけど、ぎりぎりで踏みとどまったといえあれだけ魅了魔法に酔っぱらってしまった身では説得力なんてあったもんじゃない。それでも――。

 

「それでも好きって言ったら、変かな?」


「え……」


 葵は、パトリシアの命令を『悪いこと』と言っていた。

 ならば、違うところに彼女の魂の意志が、願いがあるはずだ。少なくとも彼女自身がそう認識していられるくらいには。

 その願いを見せてほしい。俺のことも見てほしい。それで、救ってほしい。

 そんなよこしまな想いを隠すように、できるだけ落ち着いた調子で続ける。

 

「この気持ちには間違いないと思ってるよ。それに、さっきの秘密を守る以外にも葵ちゃんがしたい事があるなら、ちゃんと叶えられるように手伝いたいな」


「そういうとこから始めるとか、どう?」


 葵が瞬きをして俺を見上げた。

 

「ほんとに……ですか?」


おずおずと聞いてくる葵に、俺はうんうんと頷いてみせた。


「それはもう。葵ちゃんが無意識に使ってる魅了魔法くらいで簡単に惑わされない程度には経験豊富な自信あるからね。大人になるまでちゃんと待つって言ったのは嘘じゃないよ」


「じゃあ……」


 葵は俺のことを真剣な目で見てくる。うん、まじめな顔もかわいいな。

 

「ぼくのこと、おとなにしてくれますか?」


 ――大人。

 

 流れ的にその手の話ではないだろうから、まじめに考えることにしよう。

 模造体はある程度成長した姿で生まれてくるが、時間がたてばちゃんと体は成長する。精神の成長は少し遅いという傾向はあるようだが、環境をちゃんと整えれば問題なく普通に生きていけるという話だ。なら、助けはあったほうがいいだろうし、きっと俺にもできることはあるだろう。俺は深く頷いて見せた。

 

「そうだね。葵ちゃんの……、」


 俺はそこまで言ってちょっと思い直す。この呼びかけ方も若干子ども扱いっぽいところはあるな。

 

「葵のなりたい大人になれるように、一緒に頑張ろう」


「……!」


「わかりました。がんばって……みます!」


 葵は納得したのか、目をキラキラさせながら両手を胸の前で小さく握る。ヤバい、何もかもがかわいすぎて死にそうだ。

 

「――あ」


 何かに気付いたように葵が声を上げる。


「あなたも何かお願いとか、したい事とかないですか? 僕だけお願いをかなえてもらうんじゃ、なんか不公平な気がします」


「お願い……」


 意外な返事に、俺は考えを巡らせる。それこそいっぱいあるけど、叶えるべき時は今じゃないやつばっかりだ。どうしようと思った時に、ひとつ思いついた。

 

「じゃあさ、『あなた』じゃなくて、名前で呼んでよ。呼び捨てでもいいし、何かあだ名でもいいから」


 名前は大切なものだ。

 

 名を知らなければ、縁は結ばれない。呼ばなければ、いつか縁は切れる。その逆もしかりで、まっすぐにその名を呼べば縁は強く、名付ければもっと深くなる。そのくらいのことは今求めてもいい気がした。

 葵は、はわ……という顔をして固まっている。あれ、そんなに難しいお願いだった?と焦っていると、少し頬を染めて、秘密を告げるようにこしょこしょとささやいてきた。

 

「……さっちゃん、とか、どうでしょう」


 う、と変な声が漏れた。

 さっきのやり取りを乗り越えて固まりかけていた脳が揺さぶられる。心臓が一瞬で溶けるような甘い響きだった。

 

「だめだった?」


「だめじゃない……」


 頰が熱くなって、思わず顔を覆って隠してしまった。

 

 葵はそんな様子の俺を見上げながら、なんだか満足げに微笑んでいる。

 その瞳の奥に、魅了の術とは違う知らない炎が燃え上がっているのを見た気がした。

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