第22話 甘い言葉 前

◇今回はサフィール視点のお話です◇



 静かな書庫の中。

 窓から見える月明かりの下で壁に据え付けられた長椅子に座り、本を捲る。

 この本にも望む情報はなさそうだった。

 

 次の本に移りつつ、俺は今日の出来事を思う。


 ――所用で帝国学院に訪れるために、たまたま歩いていた地下水道で出会った二人の少女たち。


 流される形でよそで使うことを固く禁じられていた癒しの魔法を使い、今まで出たことのない帝都を出てしまって、ここに居る。


 これは自分の悪癖だ。困っている誰かがいたら後先考えずに手を差し伸べてしまう。倶梨伽羅屋の店主にも、ちゃんと自分の価値を考えて動けといつも怒られていた。


 だけど、だ。

 

 母をとうに失い、今日父を失って一人になってしまったばかりの少女、ナスカ。彼女はそれでも震える体を奮い立たせ、立ち上がろうとしていた。そんな彼女をただ見送るなんて自分にはとてもできなかった。

 そもそも女の子を二人きりで夜の南区や海を渡った自治区に行かせるなんて、後のことを考えると夢見が悪すぎる。どう転んでも、結局こちらが折れていただろう。


 そして、彼女とともにいた、不思議な少女……葵。


 醜い呪いのしるしが刻まれた俺の手に何の戸惑いもなく触れた彼女。その優しさにすべてを受け入れてもらえるような気がして、思わず愛を告げてしまった。

 けれど、酔いもさめてこうやって一人で冷静になってみると、あまりにも気が早すぎたような気もする。明日、改めて話をさせてもらえればいいんだけど、怖がられてないといいな。

 

 きっとこれから彼女たちと一緒に旅をする時間も、俺の生きる時間の中ではほんの一瞬だ。だけど、そのほんの一瞬が彼女たちの手助けになるのであれば、手伝う価値は十二分にあるんじゃないだろうか。



「ん~……」


 二冊目をざっと調べ終わって、軽く伸びをする。


 几帳面で自分の持ち物の管理は完璧にしないと気が済まないレオの書庫は、この船の中では研究室の次に完璧に調整されていて、温度、湿度、遮蔽性と清潔さに優れていて、とても快適だ。

 与えてもらった客室のシャワーで身も服も清めることができたし、久しぶりにちゃんと呼吸できるような気がした。


 俺は次の本を開こうと、手を伸ばす。

 

 ――と、物音がした。

 

 誰か、物好きがこの部屋の中に入ってきたようだ。その足音には、なんとなく聞き覚えがあった。それは、どことなく、胸が高鳴る音。俺は何とはなしに息を潜めて、足音のほうを伺う。

 

「……ん、と……」


 ――葵だ。


 こちらには気づいていないようだ。

 しかし、こんなところに何の用なのだろう?

 

「これで、いいかな」


 葵は魔法端末をいじって何かしているようだった。俺には背を向けている形になる。驚かせてもなんなので、その姿をゆっくり見守ることにした。

 

 端末の画面が薄暗い書庫の中で淡く光って、葵の顔を照らしている。


 無防備な横顔だ。

 憂いを秘めた蒼の瞳。まつ毛が長い、頬が柔らかそう。

 ちっちゃくて全身細いのにふわふわ。

 抱きしめたら気持ちよさそうだし、背中からぎゅっとしたい。


 かわいい。


 ていうか、誰に通信してるの。俺とも繋がってくれないかな。

 

 そんなことをふにゃふにゃと考えていると、静かな部屋には不釣合いに大きな着信音が響いた。一瞬の間の後、葵が通話を開始する。

 

「はい、葵です」


「はい、……ええ。エイシャについての報告はさきほどテキストで送った通りです。

大丈夫です。……解りました。すべては、貴女のために」


「え?……あ、はい。彼は、今の所僕たちについてくるみたいです。はい、そちらについても何かあれば……」


 会話の内容から、彼女が話している相手を何となく察した。

 確証はない。ただ感覚として、違いないと感じた。だから、気づかれないようにいっそう息を顰める。端末の相手の声が聞こえないか、伺いながら。

 わずかに指先が痺れているような感覚がして、無意識に腕をさすってしまう。大丈夫、もしそうだとしても『彼女』の術がここまで届くはずはない。そう心の中で言い聞かせながら目を閉じる。

 

 葵が耳に当てた端末から、聞き覚えのある口癖が耳に届いた。



『それじゃあね、私、いい子は大好きよ』



 全身が総毛立った。

 その瞬間、ふっと腕の力が抜けて椅子から滑り、床に転げ落ちてしまった。かなりの音とともに、肩を強かに床に打ち付けた。

 

「~~っ!」


 しまった、と思った時には遅かった。たたっと走る足音がして、痛みで身動きできない俺の目の前に、葵が飛び込んできた。

 とっさに起き上がったが、ここは狭い書庫の最奥。すぐに壁に背がついてしまう。

 

「やあ、ど……どうしたの?」


 俺は笑顔で本を盾にする。

 葵は、音の主が俺であると確認すると、俺のそばに来てしゃがみ込む。

 そして何かを決心するように唇を噛んで、


――俺に、胸を合わせるように抱きついてきた。


 ぱたり、と俺が盾にしていた本が地面に落ちる。

 甘い果実のような匂いと、重ねた胸に布越しに僅かに感じる柔らかい感触。首元に頬を擦り付けられて、頭の後ろがざわっとした。


「は……な、なに……?」


「……今の、聞いてましたよね?」


「うん……ごめん」


 耳元でささやかれる。その言葉にまるで操られるように、考えなしに返事をしてしまう。

 

「……そうですか……」


 葵はため息をついた。

 

 少しの間、沈黙が流れる。やがて葵が身じろぎする気配がした。

 

 彼女は何を思ったか、スカートを少し引き上げて、むき出しになった太ももを俺の足の間に割り込ませてきた。右の腿が柔らかい肉にきゅっと挟まれる感触がした。意志とは反して血が煮え立つような感覚を覚える。

 

「え、あ……!? ちょっと!」


「僕の事、すきって言いましたよね」


 耳に熱い息がかかった。近すぎて表情は伺えない。

 訳のわからない状況に頭の中は半分ぐちゃぐちゃになりつつも、もう半分、いや三分の一、ともかくそれなりに残ったまともな部分で必死に考えていた。


(ダメだ。これは流されてはいけないやつだ!)


 今日半日過ごしただけだけど、葵は今日はじめて会ったような相手にこんなことをするタイプには思えなかった。それに、俺に対してまあまあ警戒を抱いている様子を見せていたのに、急にわざと俺の理性を失わせるように振る舞っているのは、明らかにおかしい。


 葵は俺の服をぎゅっと握って、とんでもないことを言う。

 

「あなたのしたいように、していいです」


 葵の纏っている甘い匂いがひときわ強く香った。否定の意思を伝えようと思っても、うまく言葉にならない。それでも、と口を開くと、意味を紡げない短くて熱い声が漏れた。

 

 したいようになんて、そんなこと言うんじゃない。

 

 このままその細い肩を抱いて、組み敷いて、そんなこと言ってしまったことを後悔するくらいめちゃくちゃにしたっていいんだぞ。この階にはこの時間誰も来ることなんてないんだから……って、だから、ダメだって!

 

「……して、ください」


 散り散りになる思考を必死でまとめようともがく俺の耳元で、葵がとびきり甘い声でささやく。やめてくれ、耳は弱いんだ。


 俺はゆっくりと、葵の肩に手を伸ばした。

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