第10話 ー間唱― 【籠の花/雪梅】
眠浮には、花が咲かない。
女は、そのことを寂しく思っていた。
だから、見つけた小さな屋上で花を育てることにした。
初めは簡単な多肉植物から始めた。面白いくらいに容易く増えていくのが楽しかった。
次に環境に強い花を育て始めた。種子から育てて花が咲く。それはとても不思議なことに思えた。
今ではすっかりこつも覚えて、季節の花も弱い花も育てられる。
でも、それらはこの小さな屋上でしかその生を続けることはできなかった。
自分と同じだ、と女は思う。
この小さな隙間でしか本当の自分を生きられない、か弱い命。
このままでは、いつか本当に死んでしまうかもしれない。体に刻まれたあざを摩りながら、目を閉じる。
――でも、どうすることもできない。
「ママ、おはな」
白い息を吐きながら娘の小影が鉢植えの小さな木についた白い花を指差す。
女――
娘は最近よく喋るようになったばかりで、かわいい盛りだ。
その頭についた獣耳が興味深そうに花に向けられる。
「ちれーだねぇ」
「そうね、綺麗」
大切な、私の家族。何があっても、この子だけは守ってみせる。
雪梅は小影の手を握り、ビルに戻るドアを開けた。
「おい、遅えぞ、何やってたんだ。もう店行く時間だろ!」
帰るなり不機嫌そうな男の声が聞こえる。小影が側で身を固くするのを感じた。
「ごめんなさい……すぐに、支度します」
狭い家の中でふんぞり帰っている真っ黒い獣の男は、雪梅の夫、
流石に仕事前に商品の価値を下げたくはないらしい。今日は殴られなかった。そのことに感謝しながら化粧をする。
美しい女を選ぶための鉢でも見初めてもらえるような、艶やかな化粧。
地味だった雪梅は最初慣れることができなかったが、もう、お手のものだ。
どうせ湯に入ればほとんど落ちてしまうだろうが、あざの痕にも申し訳程度に白粉を乗せた。
雪梅は若い娘の時分に攫われ、この眠浮で盗賊をしている黒のところに流れ着いた。それからは黒の元で生きている。
黒は機嫌が悪いと何かと理由をつけてすぐ殴った。
大抵は痕が残らないようにしていたが、賭け事に負けた時や仕事の取り分で揉めた時は容赦がなかった。
この間もそれで肩を殴られ、その痕がいまだに残っているのだった。
風も温んできで春の気配を見せるようになってきたある日、黒は少年を連れてきた。玄関先で黒の後ろに立つ少年は、まだ子供のあどけなさを残しているようにも見える。
金色の短めに切られた髪に、菫色の意思の強そうな目。少年は
「こいつ、俺の新しい舎弟。住むあてが無いそうだから俺んとこ来ればって言ってやったの」
「飯炊きはうまいそうだから、これから微妙な飯我慢して食べなくて良くなるな」
黒はそうげらげら笑う。
冗談じゃない。この狭い家のどこにもう一人寝る場所があると言うのだ。
だけど、わかっている。自分には何も言う権利はない。
愛想笑いの笑顔で頷いて、小龍の寝床となる場所を決めることにした。
彼は特に迷うでもなく台所の床を指し示して、ここで、と言った。
確かに家の中では比較的広めな平らな場所だが、別にこんなとこで寝ないでも、とも思った。
黒も交えてしばらく話した後、黒が普段人を呼ぶときに使っている居間のソファを使ってもいいということになった。
小龍はよく働いてくれた。
部屋を片付けたり、ご飯を作ったり、小影の遊び相手になったり。彼のおかげで随分と暮らしが楽になった。なんでも母親がそこまで家のことをしない人だったそうで、家事雑事はひとりでに覚えたそうだ。
黒は、ほらな、こいつ仕事でも役に立つんだと笑っていた。
――仕事。
眠浮や帝都に住む人間達を襲い金品を奪ったり、嘘をついてお金をとって行方をくらましたりする仕事。そのどこかに小龍が加担させられていると思うと、少し胸が痛んだ。
その日、黒と小龍は同じくらいの時刻に家を出て、長い時間戻ってこなかった。
いつもの仕事だったらもっと早い時間に帰ってくるのに。
そう少し心配しながら小影を寝かしつけていたら、ドアが開く音がした。
静かに布団を抜け出し居間の様子を伺ってみると、黒だけが帰ってきているようだった。
「ああ、起こしたか」
黒は妙なくらい優しかった。こういう日は血を見る仕事をしてきた日だ。この後どうすればいいかはわかっている。
雪梅は手慣れた仕草で水割りを作り、黒の目の前に置いて隣に座った。
黒は一口でそれを煽り、雪梅に覆い被さる。
しばらく経った後、鍵が開く音がしてもう一人帰宅してきた。
雪梅は黒に静止の声をかけるが、彼はそのまま帰宅者にうまく行ったかと問うた。
「言われた通り始末してきた」
「台所、使ってもいいか? 置いとくと落ちないから」
帰宅者はそう言って、ちゃら、と何かの金属音を鳴らした。
いいけど、あとは掃除しておけよと言って黒は行為に戻った。
あいつ、小影と一緒なんだぜ、と黒はささやく。
東方の吉祥の獣、龍と人の子。眠浮には住まない獣の子を拾うなんて、ついているだろと笑った。
台所からは、金属の何かを洗っている音と何かを研ぐ音が聞こえてくる。
黒は言う。あれは全部、母親に仕込まれたんだと。
お前も見たら痺れるぞ。ぱっと動いたと思ったら、あっという間に相手の顔が、花が咲いたみたいに――。
いつになく黒は饒舌で激しい。雪梅には、せめて隣の部屋に聞こえないように漏れる声を抑えるしかできなかった。
次の朝、小龍は台所の床に座って眠そうにしていた。
下に引いたタオルが乱れていて、あまり眠れなかったのかもしれない。
あぐらをかいてあくびをしている姿を見ると、年相応の少年に見える。
おはようと声をかけると、気まずそうに目をそらしておはようと答えた。
あら、と雪梅は思う。その時、魔が差して、本当に一瞬の気の迷いで、言ってしまった。
「ねえ、朝ごはん、一緒に食べにいかない?」
小龍は赤い目元をこすり、頷いた。
雪梅は小影と小龍と一緒に近くの粥屋に来た。
朝食はたいていここで食べて、屋上に鉢植えの様子を見に行くのが日課だった。
黒は昼すぎまで寝ているので一緒に来たことはない。
小龍はといえば
いつも食べている一番安い粥を頼む。どうということない薄い味の粥だが、その日は特別に美味しかった気がした。
朝食の後、屋上に誘った。小龍もこの眠浮で花が咲くことには驚いていた。
夏が始まり始めた日の陽光がまぶしいのだろうか、彼の縦型の瞳孔が細くなる。
ふと、初めて黒と出会った時、金の眼に刻まれた細い瞳孔の不思議さと美しさに心奪われたことを思い出した。小影は誇らしそうに小さなじょうろで花に水をあげている。雪梅はその様子を見守っている小龍に声をかけた。
「素敵な所でしょ。ここ、黒も知らないの」
彼は振り返って雪梅の方を見て、目を丸くする。
どうしたのと問うと、あんたは俺に興味ないと思っていたからと答えた。
そんなことはない。話すことが見当たらなかっただけだ。
雪梅は自分がここに攫われてくる日の前の少女だったら、と遠い日のことを思った。
それから、数年が経った。
小影はすくすくと大きくなり、一人でもある程度のことは自分でできるようになった。
小龍はいつのまにか雪梅の背を追い越すくらいになって、少年というよりも青年という佇まいを感じる。
黒との仕事はうまくいっているようで、黒は機嫌のいい日が増えた。おだやかな毎日がそこにあった。
いつものように訪れた昼。
小龍は小影と何処からか手に入れてきた双六をして遊んでいた。
黒はいつも通り遅くまで飲んで帰ってきて、よく眠っている。雪梅は一人で屋上に向かった。
初夏の太陽が高く上がっている。
今日は暑くなるだろう。
茶も作って冷やしてあることだし、帰ったらきっといい温度になっているから、皆で飲もう。雪梅はそう考えながら、花に水を与えるために水道の蛇口をひねる。自然にその口からは笑みがこぼれていた。
帰宅し玄関に入った雪梅は、強烈な違和感を覚えた。
誰かがいる気配はするのに、何の音も聞こえてこない。
目を凝らして見ると、居間には割れたグラスや双六が散乱しているように見える。
雪梅はできるだけ音を立てないように、居間に向かう。
部屋に入った瞬間目に入ったのは、赤。
壁一面に、鮮やかな赤が飛び散っていた。
雪梅はそのままゆるゆると床に目を移す。
そこには、黒が横たわっていた。
血の海の中で、光のない目で。
その前に息ひとつ乱さない様子で小龍が立っていた。その両の手にはナイフが一本ずつ握りしめられている。
小影は床にぺたんと座り込んで、小さな声ですすり泣いていた。カランとナイフが床に落ちる音がする。小龍はその血まみれの手で、小影に手を伸ばした。
雪梅は思わず、やめて、と叫んだ。
そこで、彼女の記憶は途切れる。
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