第2話 あさの時間

 朝練が終わり食事を取って寮に帰ると、入寮者表の表示に手紙ありの札がかかっていることに気が付いた。昨夜のうちに、手紙が届いていたのだろう。

 私は手紙入れの中の手紙を手に取り、自室へと急ぐ。


「あ、おはよう…ナスカ」


 甘くて優しい声が、私の耳をくすぐる。

 同室の相方である葵・ディアスは、まだ眠そうに朝の支度をしていた。長いまつげの端には先ほどのあくびで出た涙の粒が、宝石のように朝陽の光を受けてきらっと輝いた。

 

 私は彼女を見る。

 私より頭半分ほど小さく、控えめだが柔らかな曲線を描く体。ちんまりとしたその佇まいは小動物のような印象を醸し出している。淡い水色のさらさらとした長い髪と少し垂れた黒目がちな青い瞳、柔らかそうな乳白色の肌にばら色の頬。どこに出しても恥ずかしくない、まぎれも無い正統派美少女だ。

 

 葵は帝国貴族の娘だ。学院長の親戚で、貴族の中でもかなり位が高いらしい。

 だが、彼女は私に暗黙の了解を要求しなかった。

 部屋の片付けも、当番も、私と同じように平等にする。私が今の生活を普通に続けることが出来ているのは、彼女のおかげというのが正直大きい。

 葵はそのままとことこと私に近寄って来て、心配そうに顔を見上げてくる。

 

「大丈夫?」


 私の様子を伺うように首をかしげた。

 その様子に私は思わず胸がきゅんとしてしまう。私自身にはそんな趣味はないはずなのだが、どうも彼女にはなんだか特別な感情を抱いてしまうのだった。私は感情の赴くままに葵の小さくて細い体を抱きしめた。

 葵の耳元からふわっと甘い匂いがする。どこか懐かしいような、優しい香りだ。

 

「あのさ。私、夜に寝言かなにか言ってた?」


「ううん、でも……何となく」


 葵は、首を振った。

 

「そう……」


(この子はこういうとき、息をするように嘘をつくんだから……)


 私は何もいえないまま葵を抱きしめていた。葵が少し身じろぐ気配がして、その腕が私の背中に回る。小さな手のひらがぽんぽんと背を叩いた。自分が抱きしめているはずなのに、母親に抱きしめられているような不思議な感覚になる。私はそのまま子供が甘えるように、葵の柔らかな髪に頬を押し付けた。

 いつまでもこうしていたいような気持ちだったが、あいにく、授業の時間が迫っている。私はそっと葵から離れた。

 

「そろそろ、着替えなきゃね」


「うん」


 葵は私から体を離し、私の目を見て柔らかく微笑んだ。


 着替えながら、私は夢のことを考える。


 ――ひとつめの夢は、月が無くなる日の夢。


 私は、小さいころの自分になって故郷の城内、裏庭の薮を駆けて行く。

 城の裏庭、木々と薮に閉ざされた旧館を目指して。現実には見た事もない道なのに、なぜか私はその道を正確に知っていた。服に枝が絡み付いて、肩に羽織った織物がほつれる。気づけば靴は泥まみれだ。


(あとで、かあさまに怒られてしまうかしら?)


 そんな事を考えながらも、私は胸を弾ませながら駆ける。薮の向こうにそびえる塔の下、旧館で待っている友のもとに、一刻も早く駆けつけるため。


 ……友?


 いや、小さな私が彼に抱いている感情は、いささか違うものだった。

 淡い恋心と例えるべきであろうか。もう少し違うものであったかもしれないが、十六歳となった自分にとっては、その呼び方が最もしっくりくるもののように感じられた。


 夢の中の小さな私は、とても幸せな気分で駆けていく。


 その声が聞きたい、だから、もっともっと、はやく!


 やがて旧館の姿が目に入りぐんぐんと近づいてくると、小さな私の胸の心臓は飛び出しそうになるほどどきどきした。いつもと同じ、閉まった窓の中に一つだけの半分だけ開いた窓。眩しい光の下を走って来た私からは、薄暗い中は伺えない。

 すっと一息、呼吸を落ち着けて。服を整えてから声をかける。

 

「こんにちは」


 真っ暗な空気の向こうで、ぱたりと本を閉じる音がした。

 次いで、椅子がきしむ小さな音が聞こえ、ぱた、ぱたとゆっくりと歩く音。その音は窓の前で止まった。

 

「…こんにちは」

「また、来てくれたんだね」


 同時に、二つの声が窓の内側から聞こえた。

 とても似ている、でも、少しだけ違う声。私は、その声を聞いてとても嬉しい気持ちになる。胸の奥に広がって行く甘く優しい気持ち。私はもっと声の主の姿を良く見ようと、窓の中を覗き込む……。

 

 そこで、いつも夢は終わり。それがひとつめの夢。不思議で、とても幸せな夢。



 つぎに、もうひとつの夢。


 ――月が満ちる日の、夢。


 私は、一つ目の夢より少し成長した姿で、銀で作られた祭壇の上に背を向けて立っている。母親がよく着ていた祭服を身にまとい、手には祭祀用の黒いナイフを掲げて。

 周りは薄闇。ほんのりと、東の空が朱に染まっている。

 私は、待っているのだ。あの東の空から、太陽がその姿を現すのを。

 永遠にも思える瞬間。私はナイフを胸に抱き、祈るように瞳を閉じる。そして、しばらくの静寂の後、そのときは訪れる。

朱に染まった山の向こうから、まぶしい光が顔を出した。

 私は僅かな高揚と誇らしい気持ちを胸に、太陽に向かってナイフをきらめかせる。そして、祭壇へとゆっくりと向き直る。


 振り向かないで。


 夢を見ている自分自身の心が警告する。


 振り向きたくない!


 私は、この先がどうなるかを知っている。なのに、どんなに逆らっても、目覚める事もなく、夢の中の私は、その目を今まで背にしていたものに向けてしまう。


 ――そこには、私の母親が横たわっていた。


 眠っているのか、今まさに息絶えた所なのか、一目には伺えない。

 長年煩っていた病でやせ細った指は腹の上で組まれ、外れないように祭文を刻んだキープで軽く結われていた。その手の上、祭服 の胸は大きく開かれ、白い胸が晒されている。

 

 その中心には、赤。

 

 横たわる母の胸は切り開かれ、心臓が露になっていた。夢の中の私は、特に動じる事もなくその前にひざまずく。そしてその洞に手を差し入れ、何の躊躇も無くその心臓を掴む。

 まだあたたかくて柔らかいそれを体につなぎ止めている複雑な組織の間に、夢の中の私はナイフを差し込む。


 ナイフ越しに、ぶつりと肉がちぎれ、引き裂かれる感触がして――。


 ――そこで、目が覚める。


 それがふたつめの夢。


 私は、これらを何か意味のある夢のように感じていた。同じ夢を何度も見続けるなんて、普通じゃない、と。

だが、この二つの夢には、いくつもの納得のいかない部分があった。

 私の記憶では実家の城に旧館なんてないし、城には自分以外の年の近い子供は居なかった。それに、私の母親は病死しているはずだった。父親とともに城内の一室で看取った覚えもある。ベッドに伏せてわんわんと泣いていた自分のことも、その背を撫でてくれた父の大きな手も覚えている。

 

 この夢と、覚えている自分自身の記憶との食い違いはいったいなんなのだろう?

 

 何度も考えてみたが答えは出なかった。あったところで、別に今が変わる訳じゃない。だから、私は月に二度のこの夢を我慢してやり過ごしていたのだった。


 始業10分前の予鈴が、私を現実に引き戻す。私は鞄を取って慌てて部屋を出た。

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