第5話

「……出てくの?」

「また、帰ってくるよ」

「本当に?」

「本当に」


 ちゅ、と私の頬にキスをして、間仲人見はどこかへ行った。


 彼女がこの家に居たのは、1日もないくらいの短い時間だ。

 昼前に何事もなかったように起きて、素っ裸のまま朝食兼昼食を食べて、だらだらテレビを見ながら過ごして夕方に差し掛かる頃、私を置いて出て行った。


 昨晩のことは、実は夢だったんじゃないか。

そう思いたくても、しかし何かの汁でぐちゃぐちゃになったベッドのシーツを剥がすと嫌でも現実に戻される。

 汚れたものを全部まとめて洗濯機にぶちこんで、洗濯乾燥モードで回して、そのまま洗濯機の前に座り込む。


 ごうんごうんと回るドラム式洗濯機は、たぶんあのボロアパートに置いていたらすぐに盗まれてしまうであろう高級品だ。(アパートの部屋には洗濯機置き場がないので、洗濯機は共有部の廊下に出ているのだ)


 そういえば、家はどうなったんだろう。

 すっかり忘れていたが、テレビを見る気にも、ネットで検索する気にもなれなかった。


 だって、もうどうだっていいから。

 この家で、あの女に飽きられるまで、時折セックスして、居座り続ける――


 本当に?

 本当に私は、それでいいのか?


 ――どうだっていい。今の私は、すべてが終わった抜け殻のようなものだ。

 したいことも、何もない。ただ生きてるだけの屍。

 あぁ、そういえば昔、私を何週間か泊めてくれた物好きな男が語っていたな。『哲学的ゾンビ』とかいうやつ。普通の人間と一切変わらない外見と思考能力を持つゾンビは、果たして人間と呼べるのか――みたいな思考実験。


 たぶん今の私は、そんな状態だ。いやむしろ、それよりゾンビに近いかもしれないな。何も考えてないし。

 そんな私でも役に立てるというのなら、セックスくらいいくらでも付き合おう。


 ――案外、気持ちよかったし。


 あの女の為に生きるのもいいかもしれない。掃除をちゃんとして、いつ帰って来てもベッドで迎え入れられるように常に身体を清潔に保ち、妥協せず、飽きられないよう、いつも可愛くあれるようにして――


 それで?

 それで、何が、どうなるんだろう。


 何も分からない。

 何も、考えたくない。

 堂々巡りの思考を時折放棄して、揺れ動く洗濯機に背を預けたまま、じっとしていた。


 ピーと甲高い音が鳴る。背中が熱い。

 どうやら洗濯どころか乾燥まで終わったようだ。何時間経ったのか分からないけど、寝てたような気もするし、ずっと起きていたような気もする。

 分かんないけど、まぁどっちでもいいか。


 ベッドシーツを引っ張り出して、なんとなくベッドに掛けて、なんとなく整えた。

 しょうがないじゃない。布団生活だったから、こういうベッドにどうやってセットするのか分かんないのよ。

 ともかく下手くそなりにセットを終え、リビングに戻る。

 今朝外に出ようとして少しだけ開かれたカーテンからは外が見えたが、もう真っ暗だった。

 時計を見ると、夜中の3時過ぎ。なんて時間に洗濯機回してたんだ、私は。これがアパートだったらクレーム殺到よ。


 とりあえずバスローブの上にコートを羽織り、窓を開けてバルコニーに出る。

 びゅうと拭く風が、火照った私の体温を奪っていく。

 ぎゅむ、ぎゅむと素足で雪を踏んでいると、私の身体が心の底まで冷えていくような錯覚を覚える。


 だいたい10cmくらいは積もっただろうか。都内にしては積もりすぎだ。きっと電車は止まったし、各地で交通事故なり転倒なり、様々な事故が発生したであろう。

 バルコニーから下を見下ろす。高くて、落ちそうだ。手すりはあるけど、胸あたりまでしかない。ぴょんと飛び越えれば落ちる高さ。まぁ落ちないけど。


 遠くにひときわ目立つ繁華街が見える。夜中なのに明るい、眠らない街がある。あぁ、昔はよくあそこの光の一部になってたっけな、なんて考えて。

 私の住んでたアパートは――あっちの方かな。なんとなく目星をつけた方を見て、「ばーか。ざまーみろ」と声を漏らした。誰からも返事はないし、やまびこだって帰らない。


 そいえば19階は2部屋あったはず、方向的にはこっちかな、と少しだけ身を乗り出してみたが、構造上の問題か、それとも私の覚悟が足りないからか――、隣の部屋は見えなかったし、光も漏れてこなかった。

 まぁ見えたところで何という話だけど、こんな家に住んでるのは、一体どんな人間なのか知りたかった。

 間仲人見のような変な女なのか、それとも絵に描いたような金持ちのおじさんなのか、それとも幸せそうな家族だろうか。


 家出少女を匿うための家にしては、ここはあまりに広すぎる。どこぞの成金か、それともよほどお金持ちの家に生まれたのか。どちらにせよ、私には縁遠い世界だ。

 空を見上げても、月も星も見えない。いつもよりずいぶん高いところに居るから見やすいかもと思ったが、そうでもないようだ。雲の中ほどは高くないしね。


 しばらく空を見上げていたが、寒くなって部屋に戻った。素足で雪を踏んでいた足は当たり前だが冷たくなっていたので、ソファに座ると、膝を抱えて丸くなった。


 目を閉じると、間仲人見の顔が浮かぶ。

 耳を澄ませば、彼女の優しい声が聞こえてくる。


 どこか芝居がかったあの口調は、生来のものか、それとも、あえてああしてるんだろうか。胡散臭いからやめた方が良いと思う。あの口調の所為で、何喋っても嘘に聞こえる。

 それでも、私を抱きたかったというのは、きっと本当。そう思えてしまうほど、彼女は女を抱くのに慣れていた。


 けれどそれ以外、あの人は私に説明をしなかった。

 嘘を吐くのではない。ただ、言わない。話さない。

 都合が悪いことを聞かれたら、微笑みを返すだけ。


 あぁ、私と似てるな。ちょっと沈黙の理由は違いそうだけど。


 ――ならば、本当に他の理由なんてないのかと考えてしまう。

 お金持ちが道楽で、家出少女を匿うための家を持っている。本当に、ただそれだけなのかもしれない。昔私に声を掛けたのは青田買いだったのかななんて考えていたら、少しだけ笑えてきた。声掛けんの早すぎでしょ。小2よ?


 確かに私は可愛い。誰が見ても可愛いと言うと思う。

 背は低いし、胸はあんまり大きくはないからモデル体型とは程遠いけれど、それを上回る魅力がある――と思っている。ナルシストとか言われても、だってそうでしょ。

 高校に入ってから告白された回数は、指で数えきれないほど。一緒に遊ぶと、たいていその日のうちに告白される。断っても何度だってトライしてくる男子だって居る。街を歩いているといつでもどこでもナンパされるし、遊んでる時でも、男子が居なくなった途端に話しかけられることだってあった。


 そのくらい、私は可愛い。それは自意識過剰なわけではなく、純然たる事実なのだ。

 流石に女の子に告白されたことは一回もないけれど――、


 そういえば、間仲人見は私を抱いている間、ずっと「好きだよ」と囁いていたっけ。

 小鳥の囀りのように小さな声で、私の耳元で、何度も、何度も。

 あれは告白にカウントしていいんだろうか。それとも変態特有の鳴き声のようなものだろうか。まぁ告白にせよそうでないにせよ、私はその気持ちに応えることは出来ないけれど。


 別に、同性の関係が嫌というわけではない。


 だが恋愛感情を抱いたら、全てが終わってしまうから。


 恋焦がれた乙女になったら、私はきっと、その他すべてのものを犠牲にしてもあの女のために生きようと思ってしまうだろう。

 娘を、――義理の父に純潔を奪われた娘を売女と蔑んだ、母のように。


 ――だから、絶対にそうはならない。

 失うものなんて、もう何一つない。手放すものなんて、何も持っていないけれど。

恋する乙女なんかに、なってなるものか。

 あんなみっともない人間になるくらいなら、私は自分で死を選ぶ。

 なに、死のうと思えばいつでも死ねるんだ。バルコニーの手すりを、ぴょんと超えればそれで終わり。15年生きた私の人生は、たった数秒で終わるだろう。


 そのまま私は、ゆっくりと眠りに入った。

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