第3話

 そこは、エントランスを通るにもカードキーが必要な高級マンションだ。

 シャンデリアが飾られているエントランスまであって、玄関には警備員も立っていた。警備員は制服姿の私を不思議そうな顔で見ていたけれど、借り物とはいえカードキーを持っている私を止めることはなかった。


 カードキーに書かれた番号の部屋に辿り着く。19階、エレベーターの表記上は最上階。

 広すぎる廊下を歩きようやく見つけたその部屋は、1901号室。角部屋――といっても、19階にはもう1部屋しかないみたいなので、どちらも角部屋になるが、長すぎる廊下を歩いているだけで、とんでもない広さの部屋ということが外からでも分かった。


 ドアのセンサーにカードキーを翳し、部屋に入る。アパートの一室くらいはありそうな広い玄関ホールには、靴が一足もなかった。

 人の気配を一切感じさせない部屋に足を踏み入れ、壁際のスイッチで電気を付ける。


 ――広さに、圧巻された。


 リビングは学校の教室以上に広く、隣接するキッチンは、お店のキッチンほどあった。個人宅に相応しいそれでは決してない。

 しかし、どうしてか生活感がほとんどない。

 窓際に観葉植物が飾られていたので近づいて触れてみると、造花だった。

 人が居ないこともあってか埃などは溜まっていないようだが、やけに私物が少ない。

 ふつう、誰かが暮らしていたらもっと荷物が多くなるはずなのに、その部屋にあるのは大きなテーブルと4つの椅子、ソファにテレビ――そのくらい。


 どこかモデルルームじみた人工的な部屋の、柔らかすぎるソファに座り、メッセージを送る。「着きました」、と。

 すぐに返信が来る。『水道はしばらく流してから使ってね。あと暖房使う前には送風で試運転しておいて。食べ物は冷凍庫に入ってるから、好きに食べて良いよ』――以上。

 いくらなんでも雑すぎないか――、そう思って文句を返したが、返事は帰ってこなかった。既読通知もないクソアプリめ。


 とはいえ、ずっと返事を待ってる気にもなれず、ひとまず探索することにした。

3LDKと言えば良いのだろうか、リビング・ダイニング・キッチンが仕切りのない大きな一部屋で、そこからは廊下、他に3部屋ある構造。

 その3部屋だが、一部屋一部屋が私の住んでいたアパートの一室よりずっと広く、それぞれに大きなベッドやテーブル、本棚まである。中身はからっぽだけど。


 しかし、どの部屋にも誰かが生活している様子はなかった。真新しいとは言えない使用感は所々にあったが、誰の部屋かも分からないそこを平気な顔して使う気にもなれなかったので、リビングに戻ると荷物――といっても鞄が一つだが――を置いて、服を脱ぐ。


 脱いでから、そういえば着替えがないよなと、下着姿のまま再び探索。

 ボロアパートには存在しない巨大な脱衣所には真新しいタオルやバスマット、ホテルのようなバスローブがあったので、まぁこれで良いかなと手にとった。

 下着は――、脱衣所にあったやけに巨大なチェストを開けてみると、量販店で買ったであろう新品の下着が、未開封のまま大量に収められていた。ブラなんてAAAサイズからサッカーボールが入りそうな超ビッグサイズまで揃えられていて、ちょっと引いた。ただまぁ、これなら生活は出来そうだ。


 まぁ入る前から想像していたが、バスルームも広すぎる。詰めれば10人くらいは同時に身体を洗えそうなサイズだった。ここまで来たしと下着も脱ぎ捨て、見慣れない給湯装置に苦戦しながらも湯船にお湯を張る。

 新品のソープやシャンプーが何種類も置かれていて、その中で見覚えのあるブランドのものを選んでお借りした。借りてばっかだ、とその時思ったが、まぁ家だって借り物だしな、と、それ以上は考えないようにした。


 のんびり1時間くらいお風呂に入ると、ナノなんたらとか書かれているドライヤーで髪を乾かして、リビングに戻る。

 キッチンにある冷蔵庫を開く。――なんと、二つある冷蔵庫のうち片方は冷凍専用のようで、ぎっしりと、奥に何が入ってるか分からないほど冷凍食品が詰めこまれていた。

 逆に、冷蔵庫の方は水の500mlペットボトルが何本か入っているくらいで、他のものは見当たらない。脇には段ボールが置かれており、中身は水だけだ。

 賞味期限をちらりと見たが、まだ半年ほど残っていた。こういうものの賞味期限がいつ切れるのか分からないので、新しいか古いかは分からなかったけど。

 適当に選んだ冷凍パスタを温めて食べて、ソファに座って。


 ――何をしてるんだろう、私は。


 知らない女の家に上がり込んで、お風呂入ってご飯食べて、こうして呑気にくつろいで。


 いったい、何様なんだ。


 でも、家主は返ってこないし、2時間くらい前に送ったメッセージに返事はない。


 なら、好きにしよう。

 テレビを付けて、ぼうっと眺めているうちに、私は眠ってしまっていた。柔らかすぎるソファがいけないんだ。


 翌朝。

 サイレンのような音で飛び起きる。――テレビからだった。

 中学時代はこの音で飛び起きたり、聞こえてきたら逃げたり隠れたりを何度も繰り返してきたから、もう遠くから聞こえるだけで身体が反応してしまう。愛梨と一緒に遊んでる時にそんな反応をしたら、「ビビりすぎ、ただのパトロールでしょ」なんて笑われたっけ。

 エアコンも付けずに眠ったので、少し肌寒い。それでも断熱性がよほど高いのか、年がら年中隙間風が入ってくるボロアパートとは比べ物にならないほど暖かったけど。


 どうやら昨晩は、テレビを付けたまま眠ってしまっていたらしい。映しているのはニュース番組で、中継のようだ。

 都内の木造アパートが不審火で全焼し、近隣住宅を何軒か巻き込んで一晩かけてようやく鎮火した――そんなニュースを、ヘルメットを被った男性レポーターが話している。私を叩き起こしたのは聞き慣れたパトカーのサイレンでなく、消防車のそれであったようだ。


「……うん?」

 なんとなく、その中継映像で映っているところに見覚えがあった。


 ニュースでは大雑把な住所しか書かれていないので、SNSで検索してみると、昨晩よほど派手に燃えていたのであろう、多くの人が火事の様子を実況していた痕跡があった。

 いくつか写真を照らし合わせ――「はぁ……」、私は高すぎる天井を見上げた。


「……あたしんちじゃん」

 燃えたの、私の実家のアパートだ。


 築54年、家賃4万7千円(なお賃料まで知ってるのは、しばらく空き部屋があった時になんとなく検索したことがあったからだ)、風呂トイレ別で2K、大家の住んでいる部屋を合わせ、計8部屋のアパート。

 ニュースでは、古い木造アパートだが出火場所が中でなく外だったこと、交換したばかりの火災報知器が即座に発報し、寝ている住民を叩き起こして皆が逃げ出せたと言われていた。

 消防がアパートの残骸を確認したが、幸いにも死傷者や行方不明者は居なかったらしい。


 ――え? 居るでしょ、ここに。


 私、誰とも連絡取ってないけど?

 それとも私は、その家に居ないはずの人間なの?


 分からない。けれど、もうそのニュースを見てる気にもなれなかったので、テレビを消して、スマホを床に放り投げた。

 壊すくらいの勢いで投げたつもりだったけれど、毛が高く柔らかいふかふかのカーペットは衝撃を完璧に吸収し、スマホは床を転がるどころかその場に留まった。


 それから私は、学校に行くでもなく、何もせずにぼうっとしていた。

 空を見ると、ぱらぱらと雪が降ってきている。そういえば少し前に見た天気予報で、今週あたりに積もるかもって言われてたっけ。

 都内では、雪が積もるのも年に1回か2回くらいだ。

 小学生の頃、雪の日に会った変な女は、――そしてまた、雪の日にやってきた。


 ――ぴんぽんと、玄関のチャイムが鳴る。

 起きていたのか寝ていたのか――、それすら分からないほど働かない脳は、私の身体を動かしてはくれない。

 しばらく待つと、扉が開く音がする。ようやく動いた身体は、しかし首を玄関の方に向けただけだった。


 昨日会った時とは違うコートを着た、間仲人見が部屋に入ってきた。


「や、」と。


 まるで旧来の友人にでも会うかのような態度で、当たり前のように自分の家に帰ってきた間仲人見は、コートを脱いで壁際の突起(それってそうやって使うんだ)に引っ掛けると、私の座っていたソファの隣に座る。


 ――近い。肌が触れる距離だ。


 よほど外は寒かったのか、コートの中にあったはずの服はまだ若干冷気を帯びていた。


「……遅い」

「ごめんね、ちょっと用事があって」

「家出少女を匿う以上に、大事な用事があったってこと?」


 つんけんとした態度でそう言った。不満そうな私の表情がよほどお気に召したのか、間仲人見は「ふふ」と笑うと、私の尖った唇に手を当てる。

 ぴとりと、冷たい指で、リップを塗るように私の唇を弄ぶ。


「そっか」

 何に納得したか、急に私の唇を弄ぶのをやめて指を離した。


 ――名残惜しくて、「あ、」と声を漏らしてしまったのが、恥ずかしくなって顔を背ける。


「理由が知りたいって、言いたそうな顔だね」

「……誰だって、そうでしょ」


 こんな高級マンションを、きっとこの女は何部屋も持っているのだろう。


 ――だって、手慣れすぎている。

 この部屋は、知らない人間を上げるために作り上げられた部屋だ。昨日とは服もコートも違うし、他にも家があるのは明白である。


「じゃあボクは、何がしたいと思う?」

「そういう問答、嫌い。何歳だと思うとか、何考えてると思うとか、そういうつまんないクイズは彼氏にでもやって」


 間仲人見は少しだけ驚いたように目を開くと、「彼氏、……彼氏ね」と呟く。

 誰が見ても美人だと言うその顔で、まさか彼氏が出来たことがないなんてことはないだろう。それは、仲の良い友人以外のに、ビッチとかヤリマンと陰で呼ばれている私が、純情と思われるくらいありえない。

 もし仮にそうだとしたら、何か致命的な欠陥を抱えているということになり――


「彼氏は居ないよ。代わりに君に言うんじゃ、駄目かな?」

「嫌。次そういう聞き方したら無視する」

「ごめん。じゃあ、聞き方を変えるよ。?」

「……どういうこと?」

「理由なんてなかった、ただ君が助けを求めたからだ――そう答えて、君は素直に信じられる? それとも、理由を説明して欲しいのかな」

「…………」


 言葉を失った。優しそうな顔をして、なんて不誠実な質問だ。


 こんな人間には、これまで会ったことがない。つまりこの女は、「今から嘘をつくよ」と言っているようなものなのだ。

 私を納得させられるような理由を持っていない。だからこそ、こんな聞き方をしている。


 こんなこと言わずに嘘を吐けばいいのに、あえて嘘を吐くことを前提に質問してきた。

 優しいのかそうじゃないのか、全然分からない。なんなんだこの女は。


「じゃ、納得させて。嘘でもいいから」

「分かった。――可愛かったからだ」

「…………はぁ?」

「顔が好みだった。それだけだよ」


 可愛い? 私が?

 知ってる。当たり前でしょ。


 私は若いし可愛いし、ほんのちょっとだけ頭は回るから、あんなクソみたいな環境でも生きていけたのだ。

 まぁ知能レベルという意味では低いかもしれないけれど、それでもホストに貢ぐために立ちんぼをしたり風俗に通う子に比べたら、ちょっとだけ賢いはず。

 なるほど、確かにそれは納得できる答えではある。


 可愛いから、ただそれだけの理由で私を泊めてくれた男なんて、これまでいくらでも居た。

 ――まぁあれは間違いなく性行為を求められていたんだろうけど、私は気付かないフリをしたりあえて年齢をアピールすることで手を出されるのを避けていたというのもあるが――少なくとも、それならこれまで会った男と同じ、ひどく分かりやすい理由である。

 家出少女を匿うためだけに高級マンションの一室を持ってるような男には、ついぞ会ったことがないけれど――


「ところで、だ」

「うん?」


 もう説明は終わりなの? 本当に、それだけ?

 理由をいくつも並べると思っていたのに、もうこの話は終わりだと言いたげなあっさりとした顔でこちらを見る。


「温めて欲しいんだけど」

「お風呂入ったら?」

「君に」

「――んぐっ」


 ソファに、横倒しにされて。


 ――流れるように、唇を奪われた。


 あまりの手際の良さに、ぬめりとした暖かい舌が私の歯を描き分けて口内に侵入してきて、ようやくキスをされたことを理解したほどだ。

 呼吸が、出来ない。顔同士が密着して、鼻もほとんど塞がってしまう。

 貪るように私の口内をひとしきり探索して、「ぷはぁ、」とようやっと唇を離した間仲人見は、自分の唇に手を触れ、指先をじっと見て微笑む。

 急展開すぎて抵抗も出来なかったわ。舌噛んでやれば良かったかしら。


「……何」

「いやぁ、理由が必要なんだろうな、と思ってね」

「それとキスするの、なんの関係があるの?」

「ほら、理由になっただろう?」

「はぁ?」

「可愛い子とセックスがしたくて、家に連れ込んだ。これ以上の理由が、必要かな?」

「…………は?」


 いやあの、私女ですけど?


 セックスとか、いや、出来なくはないかもしれないけど、ないじゃないの棒が。女にぶっ刺すためのモノが。

 それとも実は男だったり――ないか。さっき押し倒されてた時、おもっきり胸当たってたわ。コート越しでも大きいと思えたその胸は、ニットのワンピース越しでも膨らませた水風船のように変形した。

 これで生えてたら前代未聞よ。男が豊胸して女装してるとか――絶対にないとは言い切れないけど。


「昨日、話してくれたじゃないか。君が泊めてとお願いすると、男はみんな頷いた、と」

「……いや、それはそうだけど、は?」

「まだ何か納得出来ないのかな」

「え、いや、だってそれ、嘘でしょ?」

「嘘じゃないよ?」

「……セックスしたいの?」

「したいよ」

「誰と」

「き、み、と」


 細くて長い、爪先まで短く綺麗に整えられた指を、私にピンと向ける。

 ――あぁ、からかわれてるんだなと気付いて、私は自嘲気味に笑った。


「別に良いわよ、出来るもんなら」


 バスローブ一枚。脱がしやすいその服に手を掛け、挑発的な目で返した。

 ――こうすると、大抵の男はたじろぐ。流石に中学生と分かっている相手に手を出そうとする男はそう多くないし、何歳だろうが無理矢理襲ってきそうな男はなんというか、目を見れば分かったので、避けるのは容易だった。

 ほとんどの男は、パンツとかブラとか――そういうのをこれ見よがしに見せるだけで満足するのだ。たまに寝てる時に胸を触られたり写真を撮られたりはしたけれど、払った対価は、そのくらい。


「……頂きます」

 そんな私の逡巡には、気付いてか気付かずか。


 再び私に覆いかぶさった女は、隙間だらけのバスローブの中に手を入れて――――

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