笹間のおばちゃん
@takoichiro
第1話
町を見下ろす峠道の広い路肩に車を停め、外へ出た。10月に入ったせいか、吹き下ろす風が少し冷たく、思わず肩をすぼめる。見上げると鈍色の厚い雲の隙間から、まだらに陽が差し込み、辺りにぼんやりとした陰影のコントラストを作っている。
煙草を1本取り出し火を点け、ゆっくりと吸い込んだ。あまり気乗りのしない目的地への、2時間ちょっとの運転に対するほんのささやかな自分への癒しだ。今日くらいは、少し本数が増えてもいいだろう。
煙を細く吹き出すと、眼下には小さな平野が広がっている。碁盤のように整理された住宅地を貫くように国道が真横に走り、それに十字を切るように川が流れている。かつては自然に曲がりくねっていた川沿いの土手は護岸工事が施され、コンクリートで直線的な川堤に変わっていた。その周囲には真新しく整備された住宅用地が広がっているが、家はまばらにしか建っていない。
「過疎なんだなぁ……」と思わず呟いた。
「祖母の13回忌をやるから」と母親より連絡があり、これが4年ぶりの帰郷になった。大学進学のためにこの町を出てからかれこれ10年近くが経ってはいるが、その間に帰ってきたのは片手で数えられるほどで、帰るたびに町の変わりよう、いや、どちらかというとその廃れように驚かされる。
もう一度煙草を深く吸い込み、ゆっくりと煙を噴き出す。記憶を手繰り、目の前の風景と、思い出の中の景色を重ねていく。国道沿いにあった昔なじみのスーパーは、チェーンのファミリーレストランに建て替わっていた。川と国道が交差する角の空き地にはコンビニが建っている。町は少しだけ色付いたように見えるが、車や人の往来は減っていて、町としての活気はむしろ衰えているようだ。
川沿いに目を向け、流れに沿って下流の方を見やると、ふと違和感を覚えた。見覚えのない風景が広がっている。道の繋がりも地形も様変わりし、かつてそこにあったはずのものがすっかり姿を消していたのだ。
僕が子供の頃、町はずれの方の川の左岸には背の高い草が生い茂る荒れ地が広がっていた。今はそれも刈り払われ、いびつに隆起していた地形は平らに整地されている。緩やかにたわんでいた土色の田舎道はアスファルト色の直線に変わり、頼りなげに佇んでいた古い橋も、近代的なコンクリートの橋に架け替えられていた。
その景色のあまりの変わりように驚き、何だか大切なものを無くしてしまった時のような喪失感を覚える。思い出の景色は、もう二度と見ることの出来ない、遠いものになってしまった。暫くその真新しい景色に見入っていると、ふと思い出して、今はそこから無くなってしまっているある場所を探した。
国道の大橋から下流へ下って2つ目の古い橋、今では新しい橋にかけ変わってはいるが、あそこから直ぐだったはずだ――町のはずれ、川の土手が一段高くなったところから連なる竹林があって、その竹林の麓に飲み込まれるようにして小さな家が建っていた。家の前には、また小さな畑があって……。
そうだ、おばちゃんはあそこに住んでいた……笹間のおばちゃん。
昔、うちには「笹間のおばちゃん」という人がいた。いたと言っても一緒に住んでたという訳ではなく、朝早くやってきては共働きの両親に代わり、幼かった僕や、体が弱く床に伏しがちだった婆ちゃんの世話、そして家の炊事や洗濯をやってくれていたのだ。
当時、両親ともに山を二つ越えた先にあるダムの工事現場で働いていて、2人して朝のまだ薄暗いうちに家を出ては夜の9時頃に帰る、という毎日だった。おばちゃんは、そんな留守がちな両親に代わり、家の雑事をやってくれていたのだ。
おばちゃんは少し知的に問題を抱えていたせいか正職は持たず、うちの手伝いで得られるわずかな給金と、自宅の畑で採れる野菜とで生活を賄っているようだった。
今こうして思い返してみると、おばちゃんの本当の名前も知らない。ただ、笹間にある小さな家に住み、そこからやってくるおばちゃんということで、両親も僕も、おそらく町の人たちも笹間のおばちゃんと呼んでいた。
もともとは婆ちゃんの、古い友人の娘さんだったらしい。その友人が亡くなる縁に、婆ちゃんの手を握り、涙ながらに「うちの娘を宜しくお願いします、お願いします」と何度も縋り、それに頷いた婆ちゃんが預かるような形で家の仕事をやってもらっていた、と言うような話を昔耳にしたことがある。
とはいえ、子供だった僕にはそんな事情など知る由もなく、僕にとってはいつも家にいて、あれこれ世話を焼いてくれる優しいおばちゃんで、留守の多い両親に変わり僕にとっては第二の親ともいえる存在だった。幼い僕はおばちゃんによくなつき、その時には天涯孤独になっていたおばちゃんもまた僕のことを「陽さん、陽さん」と呼んで、可愛がってくれていた。
大きな体に擦り切れた割烹着をまとい、髪を頭上のお団子一つにまとめ、いつもにこにこ笑っていたおばちゃんの姿を思い出す。幼い僕は、おばちゃんの行く先々へとついて回り、おばちゃんもまた、そんな僕の手を取り買い物や散歩へと、方々へ連れて歩いた。
朝早くから陽が落ちるまで家の中の雑事をこなし、両親が仕事から帰宅すると、父親から茶封筒に入った小銭を受け取る──それがおばちゃんの毎日だった。おばちゃんが身支度を整え家に帰ろうとする時、僕は必ず玄関口まで出て見送った。「また明日ね」と手を振ると、おばちゃんも笑いながら小さく手を振り返し、そして街灯もまばらな暗く細い道を、笹間の方へと歩いて消えていくのだった。
笹間の竹やぶが無くなっているのを知った事をきっかけに、昔の記憶が一気に蘇える。まるで更地になった地面の下から、埋もれていた僕の記憶が次々と掘り起こされてきたかのようだった。煙を細く吐き出すと、煙草はほとんど燃え尽きていた。
遠くで小さく正午を知らせるチャイムが鳴っている。もう12時か、母には昼過ぎには着くと伝えてあるので、ちょうどいい頃合いだろう。
吸い殻を携帯灰皿に放り込む。袖口を嗅いで煙草の匂いを確かめると、車に乗り込んだ。
「――ただいま」
日に焼けた玄関の古い引き戸を引くと、ガタつきながら軋む音を立てて開いた。するとすぐ横の台所から聞こえていた水の音がぴたりと止まる。
「あら、陽一、おかえんなさい。本当にあんたはもう全然連絡もせんで」
母親が炊事の手を止め、足早に駆け寄ってきた。久しぶりに目にする母の姿は、白髪が増えてどこか小さく見える。合わないこの数年の間に、母の老いが進んでいる様を見て、胸が痛んだ。
「母さん、ただいま」
謝罪するように、もう一度挨拶を繰り返す。
「お昼はまだでしょ?」母が笑いながら問いかける。
「うん、お腹空いてるよ」
真新しいスリッパが用意されている。靴を脱ぎ板の間でスリッパを履くと、床板が小さく軋んだ。
壁の古びた時計は、ちょうど12時半を回ろうとしている。
「喪服は持ってきた?お寺さんには2時前に着けばいいからね、ゆっくりしてね。お父さん、居間におるけん挨拶せんとね」
言われるがまま荷物を台所のテーブルに下ろし、居間へと向かう。薄暗い部屋には、昔から使っている古いちゃぶ台と、平たく潰れた座布団がそのままだ。父親はちゃぶ台に肘をつき、昼のニュースのスポーツコーナーに見入っている。
「帰ったよ」
声をかけると、父親はテレビから目を離すことなく「おう、お帰り」とだけ返した。その父親の素っ気ない態度に、むしろ軽い安堵を覚える。
「これ、お土産」と言って、綺麗に包装された日本酒の一升瓶をちゃぶ台に置くと、ようやく顔をこちらに向けて相好を崩した。日本酒を手に取るとその包装を無造作に破り、凝ったデザインのラベルを眺める。そして
「高そうやなあ、美味いんかこれ?後で飲もう」
と独り言のように呟いた。
テレビではニュースが終わって、お昼のバラエティー番組が始まっている。
父親と僕の間のぎこちない空気を中和するように、母親がお膳を抱え早足にやってくる。
食卓には僕の好物だった料理が次々と並べられていく。きっと早くから準備をして帰宅を待っていてくれたのだろう。
「ほら、手を洗っておいで。みんなでお昼食べよ」
母親が嬉しそうに笑いかける。その笑顔には久しぶりに家族が揃った喜びが滲んでいる。
ちゃぶ台の上には昔僕が好きだった献立が並ぶ。三人で食卓を囲むのは、一体いつ以来のことだろうか――思い出そうとするが、はっきりしない。
県外の大学に進学し、そのままその土地で就職した。今回の帰郷も数年ぶりになる。祖母の法事という特別な理由がなければ、恐らく今年も帰らなかっただろう。
チャカチャカと食器の音をさせて飯をかきこみながら
「どうだ、仕事は?」と父親が聞いてきた。
「うん、毎日忙しいけど――」と短く返すが、仕事の話をしたところでどうせ理解も出来ないだろうと考えて「景気はあんまりよくないね」と適当に流した。
話題を変えようと、「峠の方を通って帰ってきたんだけど、川の辺りはすっかり変わっちゃったね」と違う話題を振ると、父親も直ぐにのってくる。
「ああ、都市計画がやっと動いてな。道も川も綺麗になっとるやろ?」
「でも、がらーんとしてて驚いたよ。昔は草ボーボーの荒れ地だったのにね」
箸を置き、ふと考え込むように少し間を置いてから続けた。
「笹間の竹藪も、もうないんだね」
「あーそうやなあ、あの辺の土手も全部切り崩されてな、きれいに整地されて一帯全部が住宅地になっとるよ」そう言うと、全然売れてないみたいやけどな、と小声で続けヘヘッと笑った。
「おばちゃんちはどうなったの?昔うちに来てくれてた笹間のおばちゃん、あの辺りに住んでたよね?」
その質問に父親は少し間を置くと、まるで興味なさそうに答えた。
「おばちゃん?……ああ、あの妙な歌ばっか歌っとった手伝いのおばちゃんな」
その口調に、おばちゃんへの微妙な距離感を感じ取れる。それは決して家族や親しい親戚に対して抱くような感情ではなく、どこか、いつの間にか姿を見なくなった遠い知り合いに対する冷めたような響きを孕んでいた。
「歌なんか歌ってたっけ?」
父親のその言葉で思い出す。そうだ、おばちゃんはいつも歌を口ずさんでいた。僕の手を引いて買い物や散歩に行くとき、台所で料理をしているとき、いつも決まって歌を口ずさんでいた。歌といっても、古い子守唄のような単調な節に乗せて「八百屋さんでえ大根買ってえ輪切りにしいたら出汁で煮てえ」といった風に、ただの覚え書きのような言葉を繰り返すのだ。子供の僕はそんな歌が面白くて、おばちゃんの真似をしてよく一緒に口ずさんでいたこ。歌の内容に合わせて行動していく様も、子供心に何かの遊びのように思えたのだろう。
それでもあまりにも同じ歌を何度も繰り返すものだから、ある時幼い僕はついおかしくなってしまって「なんでおばちゃん、何度も同じ歌を歌うん?」と笑いながら尋ねたことがあった。するとおばちゃんは少し困った、そしてどこか悲しげな顔をして俯くと「おばちゃんは頭がボロやけん、こうしとかんと次にせんといかんことを忘れてしまうとよ」と、小さな声で呟いた。
そのとき、僕はおばちゃんをひどく傷つけてしまったような気がして、とっさに「でも、僕、おばちゃんの歌好きよ」と慌てて取り繕ったことを覚えている。するとおばちゃんは下を向いたまま、うんうんと小さく二回頷いて、それからまた同じ歌を静かに繰り返し始めた。
慌てて取り繕うように言葉を紡いだ僕に、おばちゃんは下を向いたまま、うんうんと小さく二回頷いた。それからまた、いつものように同じ歌を静かに口ずさみ始めた。
「そう言えば、おばちゃん、よく歌を歌ってたかなぁ。なんか、僕も真似してたような覚えがあるよ」
今思い出したように、父親に言う。
すると、それまで無言で話に耳を傾けていた母親が、割って口を挟むように言った。
「そろそろお寺に行く準備をしなさい。あんた着替えんといけんでしょ?それから、お婆ちゃんにちゃんと頭を下げてこんと駄目よ」
時計を見ると午後1時を回っている。うちが檀家になっている寺までは徒歩で10分ほどの距離だ。用意と言っても着替えるだけなので大して時間はかからないが、父親の興味なさげな話を無理に続ける雰囲気でもなく、そこで切り上げることにした。
荷物を取り玄関脇の急な階段を足早に上がると、2階の仏間で婆ちゃんに手を合わせる。写真の中の婆ちゃんは、記憶の中よりもずっと若々しい。よそ行き用だった縹色の着物を着て、黒縁の写真立てに収まって微笑むその姿は、覚えている顔よりも幾分優し気に見えた。おりんを二つ鳴らし、「婆ちゃん、帰ってきたよ」と小さな声で言って頭を下げる。線香に火をつけて備えると、数年ぶりに入った仏間を何となく見渡した。
1階に台所と水回り、そして8畳の居間があり、2階には仏間ともう一間がある、古い木造の小さな一軒家。もともとは婆ちゃんの代に建てられた父親の生家で、そのまま父親が受け継いだものだ。
両親とも朝早く家を出る生活が長かったせいか、この仏間の隣の寝室を使うことは殆どなく、1階の居間に布団を敷いて寝泊まりしていた。僕はというと、中学に上がるまで、今は仏間となっているこの婆ちゃんの部屋で、婆ちゃんと2人布団を並べて寝ていたのだ。
思わず仰向けになって煤けた天井を見上げると、この部屋で暮らしていた日々の懐かしさが込み上げてくる。
窓からは柔らかな陽が差し込み、どこか遠くから鳥の声が聞こえてくる。体を起こし、窓から外を見ると、川へと続く細い通りが見えた。昼前に空を覆っていた雲は去り、秋の日差しが辺りを柔らかく照らしている。この辺は都市計画区域から外れていたせいか、古い田舎の町並みがそのまま残っている。
「妙な歌ばかり歌ってた手伝いのおばちゃんか……」
父親の言い捨てるようなその一言が、胸の奥深くに引っかかっている。言葉に孕む棘がじんわりと胸を包み、やがてその棘の毒が悲しみとなって広がっていくのを感じる。
両親が共働きで家を空けることが多かったあの頃、おばちゃんはまるで母親代わりのように、僕に寄り添ってくれていた。朝から晩まで台所に立ち、慣れない手つきで作ったおかずを僕と婆ちゃんに食べさせてくれた。僕が風邪をひいて寝込んだ時には、ずっと僕の枕元に座り、あれこれ世話を焼いてくれたこともあった。おばちゃんは、僕にとってただのお手伝いさんなんかじゃなかった。
小学校に上がる頃、おばちゃんは僕の手を引き、河原の土手に数本植えられていた桜を見に連れて行ってくれた。風に舞う花びらの中、おばちゃんは僕の小さな歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、「綺麗だね」と何度も呟いていた。
あれは、僕が小学校に入ることを、おばちゃんなりに祝ってくれていたのだろう。
その帰り道だったか、駄菓子屋の三浜屋に寄った。古い店先に並ぶお菓子を眺める僕に、おばちゃんは「好きなものを選んでいいよ」と言ってくれた。その一言に幼い僕は心を躍らせ、自分の小遣いでは買えない当時新発売だった100円のチョコレートアイスを選んだのを覚えている。
僕が三浜屋のおばさんにアイスを見せると、おばちゃんが古びたがま口を開いて中の小銭をありったけ台の上にひっくり返した。ところが散らばった小銭を何度数えても、中には100円に足りない小銭しか入っていなかったのだろう。三浜屋のおばさんは気を利かせて、「笹間さん、お金は後で持ってきてくれたらいいけん」と優しく言ったが、おばちゃんは動かなかった。
あとで知ったことだが、おばちゃんは母親から「物を買うときは絶対にお金を払わんといかん」と厳しく教えられていたらしい。その言いつけを破ることができず、どうしていいかわからなくなってその場で固まってしまったのだ。
僕は何も言わず、三浜屋のおばさんに目配せすると冷凍庫にアイスをそっと戻し、おばちゃんの手を引いて三浜屋を出た。あの時、おばちゃんは泣いていた。子供の僕には悟られまいと、涙をせわしなく拭い、それでも小さく漏れる嗚咽が聞こえてきた。
きっと、恥ずかしさと情けなさに耐えきれなかったのだろう。あの日の、おばちゃんの小さく震える丸い背中は、僕は一生忘れることが出来ないかも知れない。
あの優しくも悲しいおばちゃんは、それから暫くして、自らの人生を終えるという決断をしてしまった。
そしてその事実を知ったときから、僕の中に一つの疑念が消えずに残り続けている。
――うちの家族が、おばちゃんにその決断を強いたのではないか?
直接的ではないにしても、何かしらの形で追い詰めてしまったのではないか。その思いは僕の脳裡にこびりつき、今も消えることがない。そしてその疑いは、僕の家族に対する感情に薄い膜をかけている。
そう言えば、おばちゃんが居なくなったあの夜遅く、ここで何か奇妙なものを見たことを思い出す。あれは一体何だったか、思い出そうと、体を起こし窓枠に肘をつき少し考え込んだ。
そのときだった。
「おい、着替えたか?もうすぐ出るぞ。」
階下から父の声が響いた。
僕は我に返ると、足を引きずるようにして立ち上がり、荷物の方へと向かった。
お寺では1時間ほど、住職のお経を聞き法話を頂いた。その後、家族3人で婆ちゃんの墓をきれいに掃除して、花を供える。
父親が婆ちゃんの墓前で神妙な顔をして手を合わせ、口の中で何かをぶつぶつと呟いている。
生前の、最後には寝たきりになった婆ちゃんの世話は母親に任せっきりで、殆ど言葉も交わしていなかったような記憶がある。それだけに、こうして墓前でかしこまった姿を目の当たりにすると、戸惑いにも似た不思議な気持ちが胸をよぎる。神仏なんてまるで信じないがさつな人間でも、亡くなった実母を敬う気持ちはあるのだろうか、と。
寺を出ると、早い夕焼けが通りを赤く染めていた。
遠くの山の稜線が薄紫に滲み、冷たい風が頬をかすめる。どこかから漂う銀杏の饐えた匂いが、夕暮れの空気に混ざっている。
三人で並んで歩く帰り道。足音だけが静かな田舎道に響く中、父親がぽつりと口を開いた。
「晩飯は寿司でも取るか。お前、今日は泊まれるんだろ?」
「今日は泊まっていけるんでしょう?明日の日曜日に帰ればいいんでしょ?」
間を置かずに母親が続け、せがむような調子でこちらを見上げてくる。
実は夕方には家を出るつもりだった。今夜は別の予定を入れることも考えていた。
けれど、家でまだ聞きたいことも残っている。それもあって僕は結局うんと頷いた。
家へ帰ると、父親が昔から贔屓にしている町の寿司屋へ電話をかけた。
すると小一時間ほどして握り寿司3人前の大きな桶が届く。ちゃぶ台の上に置かれた握りの盛り合わせの、その内容を見て、歓迎されているのだなと思いながらも少しだけ居心地の悪さも感じる。
持参した父への土産の酒も、燗をつけられて徳利に移され、缶ビールと並べて置かれた。
父はその徳利を手に取り、お猪口に一息で注ぐと、「お前も飲むか、少しは飲めるんだろ?」と声をかけてくる。母はその横で、食器を並べる準備をしながら、父親の一言を聞いてお猪口をもう一つ取りに台所へ走った。
初めての出来事に、僕は少し戸惑いながらも母親から渡されたお猪口を受け取り、差し出した。
「仕事で飲むことは多いよ」と、軽く笑みを交えながら言ったが、その声にはどこかぎこちなさがあった。
父は黙ったまま徳利を傾け、僕のお猪口になみなみと酒を注ぐ。僕は軽く口をつけると、「父さん、はい」と徳利を取って差し向けた。
父親は一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに盃を差し出し、「お前と酒を飲めるようになるなんてな」と照れたように笑った。
僕が注いだ酒を父は一息でぐっと飲み干すと、「やっぱり高い酒は美味いな」と満足そうに頷いた。頬が少し赤らみ、機嫌は良さそうに見えた。母親も隣で微笑みながら、何かと話しかけている。ちゃぶ台の上では箸が音を立て、湯呑が軽く揺れる音が聞こえた。僕は静かにそのやり取りを見守りながら、心を決めた。
父親の赤ら顔を見ながら、慎重に口を開く。
「さっきの話だけどさ、おばちゃんって、突然いなくなったよね……」
「死んだ」という言葉はあえて避け、柔らかく言い換えたつもりだった。しかし、その言葉が放たれると同時に、満足げに酒を楽しんでいた父親がぴくりと頬を震わせた。その反応で望まない話題らしいことが見て取れる。
おばちゃんの突然の死。それは我が家で長らく語られることのない、触れてはならないタブーのようなものだった。けれど、今日ならば――いや、今日こそは聞かなければならない、そう思った。
「……あれって、何でだったの?」
僕の声が少し小さくなった。父は短く息をつくと、目を伏せたまま手酌で酒を注ぎ直す。ゆっくりと酒が溜まるように沈黙が部屋に満ちると、父が重い口を開いた。
「ああ、あれはな……母ちゃんがさ、ダムの工事が大方済んで、あの年いっぱいで飯場の食堂が閉まることになってな。俺は工事現場のほうに回してもらえたんやけど、母ちゃんは仕事が無くなってしまってなあ」
父の声が、どこか遠い記憶を辿るような調子に変わる。当時、両親がダムの工事現場で働いていたことは聞いていたが、最初は二人で飯場の食堂を切り盛りしていたのだという。それは初めて聞いた話だった。
「でな、母ちゃんの仕事がのうなったらおばちゃんに給料を払うことも出来んけん、俺がおばちゃんに『しばらく休んでもらえんか』って相談したんや。お前も冬休みに入る頃やったやろ?母ちゃんも家に居ったらお前や婆ちゃんの世話も見れるし、そうしながら次の仕事を探せばよかろうってなってな」父親が盃を呷って続ける。
「そしたらその頃からおばちゃん、ちょっと様子がおかしくなってなぁ。今思うと鬱やったんかも知れんなあ」
父親の声は低く、どこか苦い後悔の色が滲んでいる。その独白めいた言葉を聞きながら、僕はどこかでこの人の罪を炙りだし、審判するつもりでいるのではないか、どこか自分がそう言う風に考えていることに気が付いた。
母が口を挟む。「お婆ちゃんも何とかならないかって言ってたんだけどね、私が頼んだんよ。『次の仕事を見つけるまで待って下さい』って。やっぱりお金がね……。それで、すぐ見つかればよかったんやけど……」
そう言えば、母親がダムの現場を辞めた後、おばちゃんのこともあったからか、国道沿いのスーパーで働き始めるまでに、1年以上の空白があったはずだ。
二人の言葉を聞きながら、おばちゃんの死に対して、それぞれに抱えていた思いがあったのだなと、気付く。
あの時、まだ子供だった僕には、おばちゃんが精神的に不安定になっていたことなど全く知る由もなかった。けれども、事実としておばちゃんは自ら選択し、この世から去ってしまった。その背後にあった様々な事情が、20年の時を経て少しずつ明らかになっていく。
「私の仕事が無くなりさえせんければねえ……」
母は俯きながら、ぼそりと呟いた。その声は、小さくかすれていたが、その一言にどれだけの無念さが詰まっているのかが伝わってくる。
誰も言葉を返さない。食卓に暫くの沈黙が降りた。
テレビの音だけが白々しく部屋に響いている。
「あの人も、思えば可哀そうな人やったかもなあ」
父親がポツリと呟き、ゆっくりと体を横たえた。その仕草は、これでこの話はお終いだという意思が見て取れた。
赤ら顔の父親が目を閉じると、少しして静かな寝息が聞こえ始めた。
その無言の主張に従うように、僕もそれ以上話を続けるのをやめた。
「父さんもお酒、弱くなったね」と小声で母に話しかけると、母は「もう最近は全然飲まんのよ。この辺の飲み屋も全部閉まってしもうたけんね」と静かに笑った。
食事の終わったちゃぶ台の上を母親が片付け始めた。寿司桶はあらかた空になってしまっている。
僕はテレビの音を絞ると、ニュース番組の字幕を目で追いながら、頭の中であの日の出来事を反芻し始めた。あの日、僕が小学校に入って初めてのクリスマスを迎えるころ、学校から帰り玄関を開けると台所の明かりは消えていた。いつもならおばちゃんが晩ご飯の準備をしているはずなのにおかしいな?と思いながら靴を脱いで家にあがると、暗い台所に1人婆ちゃんが腰かけていた。
縹色の着物を綺麗に着つけ、背筋をのばし、テーブルに置かれた湯呑を前に、何か思いつめたように空を見つめていた。僕は、声をかけづらい雰囲気に気圧されながらも、小さな声で「婆ちゃんただいま」と言うと婆ちゃんは少し驚いたような顔で僕に気付き、おかえりと笑いかけた。
その時の僕は病院にでも行った帰りかな?と勝手に得心し、一人で腰かけている婆ちゃんに「婆ちゃん寝とらんでよかと?おばちゃんは?」と聞いたのを覚えている。
婆ちゃんは「おばちゃんは今日はお休みよ。婆ちゃんね、今日は大事なお客さんが来るけん、陽君は上にあがっとき」と僕を2階へ行く用に促し、「今日は婆ちゃんお客さんと大事な話があるけん、下に降りてきちゃいかんよ。上で静かにしとくんよ」とゆっくりと、しかし少し強い口調で言いつけた。そして傍らに用意してあった袋菓子と缶ジュースを僕に渡す。
「誰が来てもって、誰が来てもってこと?」お菓子を抱えながら僕がと聞くと、婆ちゃんは少し困った顔をして「シーっとしとってね」と口に指をあてた。
言われた通りに2階へ上がり、炬燵に首まで潜り込んで、音を小さくしてテレビを見はじめる。暫くして夕方のアニメも終わり、炬燵の暖かさからうとうとしていると、玄関の開く音が聞こえた。
「ああ、婆ちゃんの大事なお客さんがやってきたんだな」と夢うつつに思いながら耳を澄ませていると、どうにもその声は笹間のおばちゃんのものだった。
「陽さんは帰ってきたかね?」おばちゃんが僕の名前を呼んでいる。
すると即座に祖母は否定した。「まだよ、まだ帰らんから、家で待っときなさい」。続いて玄関の引き戸を閉める音がして、また静寂が戻った。
そのまま僕は寝入ってしまったらしい。しばらくして、また玄関の引き戸が開く音で目が覚める。うっすら目を開けると、外はもう暗い。北風がカタカタと窓を揺らしている。
「陽さんは帰ったかね? 三浜屋にも行ったけどおらんようやが」――今度は僕がよく立ち寄る駄菓子屋の名前を口にした。どうやら僕を探して町中を歩き回っているらしい。
婆ちゃんは少しキツい口調で「まだ帰っとらんよ」と追い返した。
また玄関の閉まる音がして、僕はぼんやりと、婆ちゃんは来客を待っているのではなく、僕とおばちゃんを会わせないように玄関を見張っているのだな、と気が付いた。そしていつもは穏やかな二人の間の会話に、険悪な雰囲気を感じ取り、二人が喧嘩でもしたのかと心細くなったことを覚えている。
それからまた小一時間が過ぎた頃だろうか。階下から聞こえるおばちゃんの声で目が覚めた。「陽さんは帰ってきたかね?」寝ぼけ眼をこすりながら耳を澄ますと、「上の電気がついてるようやけど」と、続いた。通りから二階の様子を伺っていたのだろう、誰かが二階にいると察しているような口ぶりだった。もし今、僕が襖を開けて玄関を覗き込んでいたら、きっとおばちゃんと目が合っていたに違いない。
「まだよ。上には誰もおらんよ」
「――上がって見てきましょうか……」
「上がらんでいい!」
婆ちゃんの怒声が、2階まで鋭く響いた。その気迫に圧倒され、僕は炬燵の中に頭まで潜り込み、息をひそめる。
どうして婆ちゃんはおばちゃんを追い返し、まるで僕を匿おうとするような行動をとるのか。幼い僕にはその意味が分からず、ただ胸の鼓動が早まるばかりだった。
すると、わずかな間の後、婆ちゃんの声がさらに鋭く響く。
「今日はもういいけん帰りなさいッ!」
体が弱く、いつもは穏やかな婆ちゃんが、まるで追い立てるような激しい調子で言い放つ。その声にはどこか悲しみと、そして覚悟が混じっているように聞こえた。
少しの間があって、やがてガラガラと引き戸が閉まる音が響くと、再び静けさが戻った。
まるで自分が怒られているかのように体を強張らせていた僕は、玄関の閉まる音を聞いて、ようやく炬燵から這い出した。窓へ駆け寄ると、路地の先をおばちゃんが歩いていく姿が見える。
寒さのせいか、それとも失意のためか、おばちゃんは小さく背を丸め、その後ろ姿がどこか遠い、二度と帰らない場所へ消えていくように思えた。僕は、その背中が夜の闇に溶けて完全に見えなくなるまで、じっと目を離せずにいた。
婆ちゃんとおばちゃんが喧嘩しとる。何かあったんやろうか。
幼い僕にも、おばちゃんがきつく怒られたことへのやるせなさを感じていた。それでも、二人の間に割って入ることなど子供の僕にはとても出来ない。行き場もなく、ただ炬燵に首まで入って目を閉じるだけだった。
部屋の中は静まり返り、時計の短針は7と8の間を指している。両親が帰ってくるには、まだ1時間はあるだろう。風が窓を叩く音が妙に大きく響き、それを聞いているうちに、またいつの間にか寝むりに落ちていた。
どれくらい眠っただろうか。父親の軽トラのエンジン音で目が覚めた。勢いよく玄関が開き、父親と母親が入ってくる気配がする。時計を見ると、夜の9時を少し回っていた。
空腹でぐうぐう鳴る腹を抱え、もういいのかな?と階下へ降りていく。
居間では、婆ちゃんが父親に何だか難しい顔で話をしていた。声は低く、まるで何か秘密の話をするかのような静かな調子だった。母親が僕を見つけると、「ご飯食べてないんだって?お腹空いたねえ」と言いながら、簡単な夕食を用意してくれた。
その日の出来事は、今でも僕の記憶に強く残っている。婆ちゃんの怒声、おばちゃんの小さな背中、風の音。そして、静かに流れていく時間の感覚。
それが、あの日の夜までに起こった一連の出来事だ。
台所で洗い物を終えた母親が、テレビを見ながらお茶をすすっている。
父親は体を投げだして本格的に眠り込んだようだ。すると母親はまるでそれが決まりでもあるように小さな毛布を父親にかけた。
僕はテレビに目をやりながらずっと考えていた。あの日、僕が2階で匿われている間に、婆ちゃんとおばちゃんの間に一体何があったのか、またどんな理由があっておばちゃんを追い返していたのか、その背景にある理由を最後に知りたい、そう意を決すると母親に問いかけた。
「ねえ母さん、一つだけ教えて? あの日、おばちゃんが何度も家に来てたみたいだけど、婆ちゃんは何で追い返してたの?」
僕のその問いに、母親は顔を青ざめさせ、言葉を詰まらせた。狭い居間に静寂が落ち、テレビから漏れるバラエティ番組の嬌声だけが、小さく響く。
「――お前、本当何も知らんかったんやな……」
不意に背後から声がした。振り返ると、さっきまで酒に酔って横になっていたはずの父親が、いつの間にか体を起こし、じっとこちらを見ている。
「知らないって……何のこ」
僕の問いが最後まで言葉にならないうちに、父親の無機質な声が居間に響いた。
「おばちゃんはな、お前を連れて行くつもりやったんやぞ……」
驚いて父親の顔を見直す。その顔は僕の目を真っ直ぐに見つめ、事実を語る覚悟を決めた表情をしていた。
父親はそのままゆっくり目を閉じると、遠い記憶を引きずり出すように話を続けた。
「お前、よくおばちゃんの真似して妙な歌を歌ってたやろ。あの日の朝、お前が『陽ちゃんの首絞めるとか木に吊り下げるとか』そんなことを笑いながら歌ってたのを婆ちゃんが気付いてな。それでお前が学校に行った後におばちゃんにどういうことか聞いたんや。そしたらおばちゃんが『この仕事がなくなったら、もう生きている意味がない』って言ったらしくてな。婆ちゃんは仕事は無くならんから心配するなと説得したけど、おばちゃんはもう聞く耳持たんでから。そんで婆ちゃんはその時、おばちゃんは本気でお前を連れていくつもりだと気付いたんや」
その父親の話を聞いて僕は言葉を失った。すると項垂れた僕の脳裏の奥底に、沈んでいた遠い記憶がまるで深い沼の底から泥をまといながらじわじわと浮かび上がってくる。
僕の首を絞めて、僕が死んだら仲良く並んで、一緒に木に吊られよう――。
そんな歌を、おばちゃんが口ずさんでいた場面が、不意に蘇る。
あれはおばちゃんが台所で料理をしているときだった。僕はそっと背後に近寄り、その歌を聞いていたのだ。子供だった僕は、ただおばちゃんが僕を笑わせようとしているくらいに思っていた。いつもおばちゃんが台所で魚を捌きながら、「お魚の頭を落として腹を裂いて」とうたう歌に僕がよく笑い、一緒に合わせて歌うのを、おばちゃんもまた目を細めていたからだ。
「あの日な、現場から帰ってきたら婆ちゃんが『おばちゃんの様子がおかしい』って言うもんやけん、俺も最初は取り合わんやったけどさ、しつこく言うから。じゃあ明日おばちゃんと話すからって言って。そしたら夜中に警察が来て、『おばちゃんが自分ちに火をつけて藪で首を吊ってる』って言われてな……」
父親の言葉が途切れる。唇が小さく震えていた。
そうだ、その話を聞いてあの夜のことは鮮明に蘇る。
婆ちゃんがおばちゃんを三度追い返した後、両親が帰ってきた。そして僕は母親が作ってくれた夕食を食べ、風呂に入ると2階へ上り、翌日の準備を済ませて布団に入った。
その間、婆ちゃんは昼間の着物姿のまま、窓から川の方をじっと見つめていた。
「婆ちゃん、まだ寝らんと?」
布団の中から声をかけると、婆ちゃんはゆっくりと振り返り、微笑んだ。そして、節くれだった皺だらけの手で僕の頭を撫でながら、「大丈夫やけん、ゆっくり眠りね」と静かに言って、電気を消した。
電気が消えると、暗闇の中で風が窓を叩く音と、微かに漂う婆ちゃんの気配だけを感じていた。
あの日は夕方ずっと炬燵でごろ寝をしていたせいか、なかなか寝付けずにいた。目を閉じても、婆ちゃんが窓辺に立って外を伺っている気配を感じる。一体何を見ているのか、婆ちゃんに聞きたかった。だけど、夕方おばちゃんに向けたあの鋭い声を思い出すと、話しかける気にはなれなかったのだ。薄目を開けると、つけっぱなしの炬燵が薄く赤い灯りを放っている。婆ちゃんは相変わらず無言で窓の外を、川の方へ向かって何かを見つめていた。
そのまま時間が過ぎて、意識が夢との狭間でうとうとし始めた頃、どこからか聞こえる騒めきで目が覚めた。何事かと思い目を開けると、窓から赤い光が差し込み天井でちらちらと揺れている。さっきまで窓辺に立っていたはずの婆ちゃんの姿もない。
布団から起き上がって、窓へと歩み寄り外を見ると、家の玄関先に赤い回転灯を回したままのパトカーが停まっていた。遠くで犬が吠えている。胸騒ぎがして目をこすりながら襖をそっと開けて1階を見やると玄関口に制服姿の警察官が2人立っていた。父親と婆ちゃんがそれに応対し、何やらあれこれ質問に答えているふうだった。
「大事なお客さんが来て、大事な話がある」ーー婆ちゃんの言っていた言葉の意味はこのことだったのか、とその時悟った。
大人達の会話に耳をすましていると火事だ、首吊りだという言葉が聞こえてくる。
そうだ、おばちゃんはあの夜に死んだのだ。婆ちゃんに追い返された後に、笹間の竹藪へ1人入り、首を吊っていたと警官が話していた。
おばちゃんの最後の言葉、玄関先で警察官が読み上げていた遺書の内容もその時聞こえたはずだ。
そう、確か——、
——きぼうがないのでもうしにます。1人でしぬのはとてもさびしい——
「1人で死ぬのは、とても寂しい……」僕の口から不意に漏れた言葉が、ゆっくりと宙に消える。
気が付くと視界がぼやけていた。涙がひとしずく頬を伝い、手の甲に落ちる。するとそれが合図であったかのように、抑えていた嗚咽が、波のように繰り返し何度も押し寄せてきた。
おばちゃんに残酷な選択を強いた、あの20年前の取り返しのつかない出来事。そのことを思うと、ただ胸が痛んだ。そして同時に僕を守るために、あの日おばちゃんから僕を匿い続けた婆ちゃんの行動の意図を、20年経った今になって、ようやく分かった気がした。
僕を守ろうとする行動の裏で、婆ちゃんの心奥にあったであろう悲愴な決意と覚悟。一体どれほどの葛藤を抱え、それがどのような結果をもたらすのかを自ずと知りつつも、おばちゃんを退け続けたのだろうか。そのことを思い、僕は思わず胸を押さえようとして、そのまま前のめりに手をついて崩れ落ちた。
二十年間、膿んだままの傷の、その乾かぬ表面が再び裂けて、貯め込んでいた涙が留まることなく流れ出る。
隣で母親も泣いていた。顔を両手で覆い、肩が小刻みに震えている。
「ごめんね……おばちゃんのこと、もっと何とかなったかも知らんのに……」
母の声は掠れ、何とか絞り出すようにそう言った。
「僕こそ……僕も何も知らないで……父さんや母さんの気持ちも考えないで……」
涙の狭間で、途切れ途切れにやっと言葉を紡ぐ。
決して家族との間に表立ったわだかまりがあったわけではない。
だが、おばちゃんの突然の消失は、家の中に暗い影を落とし、その影は長い間、家族皆の心を覆い続けていた。
子供だった僕に、事の詳細が語られることはなく、僕自身もまたその影を踏まないよう努めていた。
それでも、昨日まで家にいたはずのおばちゃんの喪失感だけは、子供の僕の中にぽっかりと大きな穴を残した。そして何も知らされないことがかえって疑念を産み、それは知らず知らずのうちに僕の中で巣食っていった。その疑念が大きくなると、やがてそれは無言の抗議となり、僕はそれを家族に向け続けていたのだ。
どうして僕は、この家、この町から足が遠のいていたのか。
どうして僕は、家族を避けてきたのか。
漫然とした嫌悪とも疎外ともつかぬその感情の正体は、今こうして振り返ると、僕の心の底に時間をかけて堆積した独善的で子供染みた我儘と、独りよがりな誤解だったのだ。
そして、全てを知ってしまった今、僕のために両親が背負い続けてきた罪の重さに気付かされた僕は、二十年にも及ぶ大きな過ちを詫びるべく、ただ畳に額を擦りつけていた。
「もういいから、俺がおばちゃんに暫く休んでくれって頼んだのは本当のことやけん」
父が静かにそう言うと、僕の肩にそっと置いた。
「それよりも、婆ちゃんと母ちゃんによく謝っとけよ。婆ちゃんは死ぬまでお前のことを気にしとったぞ。結果的におばちゃんを死なせてしまったことも、お前の気持ちを傷つけてしまったことも、ずっと悔やんどったぞ。もっといいやり方があったんやないか、ってな……」
父が小さく咳をして続ける。
「許さなくてもいいからって、死ぬ間際まで、お前に謝っといてくれって言うとった。だから俺は今でも、それでもお前が元気でやれているのは、婆ちゃんのおかげですって手を合わせてる……」
その言葉に、婆ちゃんの墓前で深く頭を下げていた父の姿が頭をよぎる。
そして一息つくと、少し間を置いてから言葉を続けた。
「それとな、母ちゃんも……お前がこの家から離れたがっとるって思って、ずっと長い間悩んどったぞ」
父の言葉を聞いて、母は両手で顔を覆ったまま小さくかぶりを振る。
「私はいいから……おうちのことは気にしないで。それよりも、あなた自身の人生を大切に生きて……」
その言葉が、また僕の胸を深く抉る。
おばちゃんの死に対する家族への疑念は僕の体の隅々にまで根を張り、家族と真正面から向き合うことを避けさせ、曖昧な態度をとらせていた。
学校では真面目に勉強していたし、それなりの大学にも進んだ。周りから見れば、何の問題もない人生を歩んでいるように映っただろう。
しかし、心の奥底では常に虚無感が鎮座し続け、現実から目を背けるように曖昧な日々を漂っていた。
だがそれは、おばちゃんを無くしたあの日からの、拗ねた子供の気に入らない現実からの逃避だったのだ。
母は、そんな僕をずっと案じていたのだろう。
その言葉には「もう過去に縛られるのはやめて、自分の人生を大切に生きてほしい」という切な願いを含んでいるように聞こえた。
声を殺して泣こうとしても無駄だった。涙は止めどなく頬を伝い落ちる。
「ごめん……ごめんなさい……」
絞り出すように呟きながら、ただひたすら頭を下げた。
途切れ途切れの、まとまりのない謝罪の言葉だったかもしれない。
それでも、心の奥底に溜まっていた何かが少しずつ流れ出していくのを感じた。
どれくらいの時間が経っただろう。僕の涙がようやく枯れたころ、母が気遣うように口を開き、昔話を語り出した。それは、父との思い出や婆ちゃんの話だった。
最初は抑えがちだった母の声も、思い出話を語るうちに自然と明るさを取り戻し、顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
いつの間にか僕もそれに耳を傾け、時折相槌を打っていた。
「もう遅いけん、今日は寝よう」
不意に父が言い、立ち上がった。時計を見るともう1時に近い。
母は父の背中を見送りながら、ふと僕に向き直り、微笑んで言った。
「また帰ってきてね。お正月とか、時間があったら……」
僕は静かに、小さく頷いた。
階段を上がろうとしたとき、背後から父の声がかかった。
「ほら、飲まんと眠れんやろ」
振り返ると、父が缶ビールを渡してくる。
小さく笑ってそれを受け取りながら、ふと思った。
この人は昔から何も変わらないのだ。ただ不器用で言葉少ない人――。
でも、その一言の中には、僕がこれまで気づけなかった多くの想いが込められていたのかもしれない。
僕の歪んだ抗議の目が、全てを曇らせ、拒絶し、父を勝手に悪者にしていただけだったのだ。
「ありがとう」とだけ言って受け取ると、階段を上がる。
途中で振り返ると、父は階段の下に立ったまま、じっと僕を見ていた。
それはまるで最後の別れを惜しんでいるかのような、静かな佇まいだった。
「ゆっくり休めよ」
父の声が、階段の下から追いかけてくる。その響きはどこか懐かしく、子供の頃に感じていた暖かさを孕んでいた。
父から受け取った缶ビールを手に、窓を開け窓枠へと腰かけた。煙草を取り出し、火をつけると、冷たい夜風が吹き込んでくる外を見やった。人家もまばらで街灯も少ないせいで、窓の外の景色は殆ど真っ暗の闇に包まれている。
あの夜、階段から玄関の方を見下ろすと、婆ちゃんが昼の着物のまま警察官と話しているのが見えた。深々と頭を下げ、外へ出ようと履物を揃えようとする婆ちゃんを、若い警官が苦笑しながら制止していた。
子供だった僕は、家に警察が来た、という非日常の光景と、婆ちゃんが警察に連れていかれるかもしれないという不安に、息が苦しくなるように感じていた。
気持ちを落ち着けようと窓辺へ歩み寄り、窓を開けようとしたとき、通りの街灯の下、薄明りの中に誰かがぽつんと佇んでいるのが見えた。体を乗り出して目を凝らすと、それは笹間のおばちゃんだった。おばちゃんは、泣いているのか、微笑んでいるのか曖昧な表情で、こちらに向かって小さく手を振っている。
「おばちゃん、おるやん」死んでなんかいない、おばちゃんはここにいるよと、窓を開けて呼びかけようとした瞬間に、背後でがらっと襖が開く音がした。振り返ると、婆ちゃんが警察との話を終えて、二階に上がってきたところだった
「陽君、起きとったんか。早く寝らんと」婆ちゃんが少し驚いた顔で語りかける。
「あ、うん……」と僕は返事をしながら、再び窓の外に目をやると、おばちゃんの姿は消えていた。
あの時のおばちゃんは一体何だったのだろう。そしてあの振られていた手、あれは「バイバイ」だったか、それとも「おいでおいで」だったか。いや、そもそもあれ自体現実の出来事だったのだろうか――。
生温くなった缶ビールを握りながら1人考えていた。
おばちゃんはあの最後の日、何を思い僕を探していたのか、その様子を思い浮かべると今でも胸を締め付けるような悲しみと、そしてほんのりとした恐怖に包まれる。しかし、それらはもう20年以上も前の、とうの昔の出来事なのだ。おばちゃんも、笹間の竹林も、既にこの世にはなく、全てが遥か時間の彼方に消え去ってしまった。
そう言えばおばちゃんのお墓はどこなんだろう?もし場所が分かるのなら訪ねてみたい。もしかしたら大人になった僕の姿を見て喜んでくれるかもしれない……。
缶ビールの最後の一口を飲み干す。
煙草を消し、吸い殻を携帯灰皿にしまう。時計を見ると、夜中の2時を回っていた。もう寝よう、明日は父さんと母さんをドライブにでも誘ってみようか、そう思いながら布団を準備するべく立ち上がった。その瞬間、遠い窓の向こうから微かに声が聞こえてくるのを感じた。誰かが僕の名前を呼んでいるようなーー。
耳を澄ますと、その声は少しづつ鮮明になっていく。
聞き覚えのあるその声に懐かしさを覚え、同時に起こり得ない事実に戦慄した。あの日の夜の奇妙な邂逅が脳裡に浮かぶ。これは現実なのか、それとも幻聴なのか、答えの出ない自問に責められ、心臓が早鐘のように高鳴った。この声の主は、いやありえない、そんなことがあるはずがない……。思わず、窓の方へ目を向けた。
——陽さんのぉ首絞めてぇぐったりしたら吊り下げてぇ一緒にあの世に行きましょかぁ——
闇の向こうから、懐かしいおばちゃんの歌が聞こえてきた。
終わり
笹間のおばちゃん @takoichiro
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