綴り書き 弐ノ六
「お前……いつの間に人間の伴侶なんて……」
「ヴィー。この曇天さんが、またみんなで暮らせるようにしてくれるんだ! 紅人を助けてくれるそうだよ」
明るい声で女性へと話し掛ける青人。女性は微笑んで話を聞いていた。
「そう? それは素敵ね。アオト。疲れているみたい。貴方も少し、お休みになって?」
「私は眠くなんて……あ、れ?」
微笑む女性がアオトの頬を撫でると、突然眠気に襲われたのか、アオトも寝台へ突っ伏して眠り出してしまった。
「少し。内緒の話をしましょうか?」
青人の髪も愛おしそうに梳き、女性は二人へと向き直った。
「彼は……確かに私の旦那様だけど、厳密には違うわ。棺の人魚を見たかしら? 本当はあの身体の持ち主の旦那様なのよ。それにね、きっとこの人は落胆してしまうかもしれないけれど……この世に紅人なんていない」
「どういうことだ?」
「長過ぎる寿命は人を壊す……この人も例外ではなく、あの悪魔の楔が心の奥を巣食って、勝手に暴れている」
「アイツの能力は精神の弱いとこに働きかけて病ませるものだしな。現実には干渉出来ねぇが、精神世界でなら無敵に近いと思うぜ」
女性の言葉に、難しい表情を浮かべるヨウム。
「……ドッペルゲンガー」
「ああ。人間の世界ではこの現象をそう呼ぶのね」
「愛する家族が生きていて、観光客もみんな笑顔。活気のある村のままの理想の世界ってことか……けど、じゃあ、あっちの支配人は?」
「人間性は一面だけでは測れません。仄暗い内面も彼の一部。表裏一体ということですね」
深く頷いた女性。ゆっくりと足を揺らすと、その足元が海水を掻き混ぜたように泡立ち、両足は尾びれへと徐々に変化していく。
女性は一度目を閉じ潤ませ、ゆっくりと開く。
「だからこそ、壊さなくてはいけない」
「ここは精神世界なんだろ? じゃあ、この世界を壊しちまったら青人は……」
「ええ。間違いなく、心ごと壊れてしまうでしょうね。けれど、もうあの人はこの世界にはいない。器はなくなったの。殻の世界へ引き籠ったままでは、本当の花嫁に再会することも。新しく産声を上げることも叶わない。愛する娘を自分の籠へ閉じ込めたまま一緒に滅びを待つなんて、エゴの塊ではなくて?」
女性の言葉を聞きながら、腕を組んでいる曇天は、なにを思っているのか深い瞬きを落とす。
「お前はそれでいいのかよ? 旦那のこと、愛してるんじゃねぇのか?」
「人間相手にそんな感情湧くわけないでしょ? まあ、この人に愛着もなくはないわよ。入れ替わってから長く一緒に過ごしているもの」
女性は自分の胸元へ掌を当てて、自身を指す仕草をする。
「この子から乞われたから演じているだけ。私がこの世界へ戻る準備が出来るまで、アオトと娘を守って欲しいってね。でも、もう。飽きちゃったの。壊して開放してほしいわ」
この子とは、この身体の持ち主のことなのだろう。
「そりゃあ……なんともらしい理由だなあ。じゃあなんで、入れ替わりを引き受けた? いつ戻るかも分からねぇ状態だったんだろ?」
「……強いて言うなら興味本位かしら? 寿命も概念も全く違う人間に本気で恋をするなんて、馬鹿らしくて面白いじゃない。この子は私の可愛いお魚ちゃんの一人だったのよ」
僅かに怒りを滲ませて問い掛けるピィちゃんへ、悪びれなく明け透けに答える女性。
情の概念がある悪魔は極少数派だ。そう考えるとまた、この悪魔ヨウムも毛色の違うはみ出しモノなのかもしれない。
「曇天さん……だったかしら? 壊してくださるでしょ? この理想郷」
「どうして僕へ頼むんですか? そんな面倒ごと」
「この子の身体が限界でもう動けないというのが一つ。もう一つは貴方の性質かしら? 貴方は情では動かない。誰も信じていないから。好奇心旺盛で理知的な破壊者。貴方は人を拐かしたり、壊す方がお得意でしょう? こちら側の性質を強く持っている」
曇天は否定も肯定もしない。同じ香りを纏う、悪魔の魂にも耐えうる器の持ち主。その性質が悪魔たちを魅了しているのかもしれない。
「壊れた人間がどうなるのか知らなくはありません。気分のいいモノではない。買わなくてもいい恨みを進んで買うほど物好きではないつもりですよ」
「あら? 面白いと思ったのに。残念ね。けど、満月の期限は本当よ。この理想郷は大きくなり過ぎた。今も生きた人間を喰い続けている。実体のある妄想が膨張肥大したらどうなると思う?」
愛らしく首を傾げて、投げキスでもするように、女性は小さなシャボン玉をふぅっと二人の前へと飛ばす。
目の前のシャボン玉はみるみると大きくなり、弾けた。弾けて飛び散った飛沫が、そこそこ距離もある、二人の後方の洞窟の入り口を酸のようなモノで溶かす。完全に塞がってしまったその箇所からは、煙がもうもうと立ち上る。
「お前っ! いきなり何すんだよっ!」
流石に驚いて目を丸くする曇天。咄嗟に庇ったヨウムの体は、一軒家ほどもある大鴉。羽先や尾も、通常の鴉の外見よりも長い。鋭い眼光を湛えるその身体は実体を持たず、青い炎で包まれている。
「ピィちゃん。何故その姿へ?」
「この場所がアイツの妖気で満ちてるからだろうな。まあ、多分一時的だろうから、長くは持たねぇけど」
そうですか。と、一つ呟いて、曇天は開かれたヨウムの翼の陰で様子を伺う。
「戻れないって聞いていたけど……そんなにその人が大事? でもね、この世界を壊せないと、その大切な主様……帰れなくなっちゃうわよ? この世界に飲まれちゃうもの……現実ごと丸っと……ぱちんっ」
再度出したシャボン玉。ベルを包み、浮き上がらせて女性が指を鳴らすと、パチンっと弾け、ベルごと消し去る。
「な、何を! 彼女はまだ生きて……」
「まあ。そんな表情も出来るのね。でも、大丈夫。あの子は、現実と理想郷の狭間に戻しただけ。今ならまだ間に合うかもしれないわよ。明るい夢を信じられるのは子どもの間だけ。大人になったら気付いてしまうの。現実の空虚さに……ああ。なんて可哀想な囚われのお姫様」
不敵に唇を歪ませて。挑戦的な流し目を送る蠱惑的な女性。思わず踏み外したくなってしまうような色香を纏う。
「分かりました。壊せばいいんですね」
「おぉいっ! 曇天なに言って……あの女の色仕掛けに堕ちたのかよ! お前そんなヤツじゃねぇだろ! 紅人滅ぼせば青人も壊れちまうってことだろ? 聞いてなかったのかよ!」
「聞いていましたよ。青人さんにもう器はない。死者の魂が壊れたところで、輪廻の輪へと戻るだけです」
「でも、嬢ちゃんが一人になっちまう。まだあんなに小せぇのに。母親失くして父親もなんて……」
いやいやいや。と、首を振り、曇天の発言を考え直させようとするピィちゃん。
「彼女は、もう大人だと自分で言っていましたが?」
「それは、あの年頃によくあるあれじゃねぇのか?」
「年頃の? 貴方はどれくらいその年頃の子をご存知なんですか?」
「いや、まあ、それはそうだけどよ」
悪魔ピィちゃんは曇天の指摘にもごもごと口篭る。
「協力してくれるのなら、この人の身体に出口の鍵を預けておくわね。ベニトに分からないようにちょっと仕掛けを施すけれど。曇天さん貴方には解けるはず。満月に間に合えば、帰れるかもしれなくってよ?」
「なら、その鍵使って直ぐにでもオレ等帰せんじゃねぇのか?」
「私には出来ないの……この子の身体はもう使えない。それに私も、今はこの理想郷に閉じ込められている住人……彼の夢の中。まだ現実と繋がってる貴方たちにしか頼めない。けどその繋がりも力が強くなった満月には消えてしまう。期限は明日。満月が天頂に上るまで……上手くいくことを祈っているわ」
ごく軽く手を振り、二人をしゃぼんへ閉じ込めると、両手で宙へ浮かせて、人魚は柔らかく息を吹きかける。風景ごと渦で歪み、二人は棺に凭れ掛かる、ベルとミニマムに戻ってしまった支配人を眺めていた。
――――13――――
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