第7話 過去の真実、すべてを失った日

 十八年前、ファジュルが生まれた日の夜。

 最初に王城内の異変に気づいたのはラシードだった。


 王子が生まれたことを祝して、兵士や給仕など城に仕える者たちに先代国王ヤザンから果実汁りんごジュースが振る舞われていた。

 これはガーニムが進言したことらしい。

「弟が親になるのを心から祝うのも兄のつとめだ」と言って。


「ガーニムはアシュラフを毛嫌いしている節があったが、本当は素直になれなかっただけなのだろう」とヤザンが笑顔で話してくれた。

 不仲の息子たちを心配する姿は、父親のもの。子を思う心は、王族も平民も変わらない。

 大樽に詰まった果実汁を、みなが喜んで口にした。


 唯一、ラシードだけは体質的にりんごを口にすることができないため、盃は他の者に譲った。


 それから一時間あまり経って、異変が起きた。

 ラシードと話をしていた兵が倒れたのだ。

 まず一人が、眠たそうにしていたと思ったら、そのまま床に倒れた。

 そばにいたもう一人の兵も、顔からその場に突っ伏す。


 洗濯物を運んでいた召使いも、かごを持ったまま不自然に座り込み、そのまま壁にもたれていた。


 一度に何人も倒れるなんて、絶対におかしい。何かとんでもないことが起きているのは明白だった。

 心臓を鷲掴みにされるような恐怖を覚え、ラシードはこのことをアシュラフに伝えようと走り出した。


 アシュラフの私室に向かう間も、そこかしこに城に仕える者たちが寝息を立てている。

 聞こえるのはラシード自身の足音だけ。

 すべての人が廊下や部屋の床で眠っているのは不気味すぎた。


 途中、先王ヤザンの執務室の前を通るところで、男の悲鳴が聞こえてきた。

 そして荒々しい足音が廊下、つまりラシードのいる方へと向かってくる。

 ラシードはとっさに、柱の影に隠れた。


「ククッ。あんたが悪いんだ、父上。あんたがアシュラフなんかを王にするから」


 薄暗くて姿はよく見えない。ヤザンの部屋から出てきた何者かは、背筋が凍るような冷たく低い声で嗤う。

 ハーレムを置かなかったヤザンの子は、世界に二人だけ。ガーニム・アシュラフの兄弟しかいない。

 そして言葉の内容から、この声の主はガーニムであると予測できた。

 ガーニムの足音が十分に遠ざかるのを確認して、ラシードはヤザンの部屋に近づく。


 目に飛び込んできた光景に、ラシードは息を呑んだ。


 ──執務室の絨毯が、赤黒く染まっている。

 その染みの真ん中に、先王が仰向けで倒れていた。

 あかい足跡が、部屋の外へと続いている。


 ラシードは先王に駆け寄り、投げ出された手を取る。

 触れた手首は人の色を失っていてぬるく、脈が弱い。血だまりはじわりじわりと広がっていた。


 あまりにも惨い現状を、ラシードの脳が受け入れるのを拒否している。


「ヤザン様!?」

「ラ、シード……か……」

「い、今、医師を呼びます」


 立ち上がろうとするラシードに、先王は首を横に振る。


「よい、わしは、もう……。アシュ、ラフと、ファジュルを……た、すけ」


 全て言い終えることは叶わず、ヤザンの手から力が失われた。


「ヤザン様……なぜ、こんなことに……」


 主の遺体をこのままにしておくなんて心が痛むが、今は一秒でも早くアシュラフのもとに行かないといけない。手遅れになってしまう前に。




 アシュラフの私室の前に、王妃が倒れていた。

 首が斬られていて、もう助かる余地がないのはひと目でわかった。


 部屋の中から争う音が聞こえてきて、ラシードは命を落とす覚悟で飛び込んだ。


「陛下!」

「シャヒドか。お前、なぜ起きている・・・・・


 今まさに、ガーニムがアシュラフに斬りかかっているところだった。

 ガーニムはラシードの姿をみとめると舌打ちをする。


「シャヒド、先生……」

「陛下、間に合って良かった。殿下を連れて逃げてください」


 アシュラフはラシードが敵でないと察し、一瞬ホッとした顔になる。


 ラシードは護身用の短剣ダガーを抜いて、ガーニムとアシュラフの間に割って入る。


「ガーニム様。なぜこのようなことをなさる。お父上まで手にかけて、何をなそうというのです」

「あぁ。あれ・・を見たのか。俺を王に選ばない目の腐った阿呆など、存在する意味はないからな」

「……なにを、言っているのです兄上。父上に何をしたんです」


 兄の口からもれる不穏な言葉に、アシュラフは動揺する。


「そのままの意味さ。安心しろ、お前もすぐに父と同じところに行く。じっくり、時間をかけて冥界に送ってやる」


 ガーニムが低い声で笑う。ガーニムにとってアシュラフは、王位を横取りした簒奪者。病弱なのだから、こんな無能はさっさと病死すればよかったのにと考えない日はなかったのだ。

 病死しないのなら、この手で殺してしまおう、その考えを決行してしまうほどにガーニムは思い詰めていた。


 ラシードは傷だらけになったアシュラフを背にかばい、正面にいるガーニムを見据えながら言う。


「陛下。ここは私が時間を稼ぎます。早く殿下を。城内にガーニム様の仲間がいる可能性も捨てきれませんので、隠し通路を使って逃げてください」

「しかし、それでは先生が」

「臣下と王、どちらの命のほうが重いかおわかりですね」

「余計な真似をするなシャヒド! アシュラフだけは、絶対に生きて逃さん!」


 ガーニムが半月刀シャムタールを振り上げ、二人に襲いかかる。

 勉学や作法を教えることを仕事とするラシードと、日頃荒事や狩りをしているガーニム。

 戦うには分が悪すぎた。

 

 短剣が弾き飛ばされ、ガーニムが振り下ろした刀身がラシードの右腕を深く割いた。


「ぐ、ぁぁああっ!!」

「ハハハッ。今宵より国王になる俺に逆らった罰だ。王の右腕と名高かったお前の右腕が使えなくなる、似合いの姿だなぁ」


 激痛にうずくまるラシードを足蹴にして、ガーニムはアシュラフを追う。アシュラフは赤子を抱いて逃げようとしたが、叶わなかった。

 ガーニムはラシードが落とした短剣を拾うと、アシュラフの背中に突き立てる。


「逃げられると思うな、アシュラフ」


 ただでは死なせない。宣言通り、ガーニムはあえて即死するような傷を負わせなかった。

 アシュラフの腕の中で、ファジュルがぐずり泣き出す。


「泣かないで、おくれ、ファジュル」

「へい、か」


 ラシードは武器を失い丸腰。それでも、主を守るため這ってアシュラフのもとに行く。

 刺し傷が肺に達しているのだろう。アシュラフの口からいく筋も血が垂れ、ファジュルの産着を赤く濡らす。


「ラシード、先生。ファジュルを」


 ラシードは左腕でファジュルを受け取り、落とさないよう大事に抱える。

 二人を見下ろすガーニムの顔は、虫の脚を千切って遊ぶ幼子のように歪んでいる。

 二人が死んでからじっくりファジュルをなぶり殺しにしようと、脳内で算段を立てていた。


 万一でも二人が助かることのないよう、城の常駐医師を殺しておこう。そう思い立ち、場を離れた。

 



 ガーニムが姿を消し、アシュラフは最後の力をふりしぼって机の下、隠し通路を開いた。

 

「……王に、なる前に、僕がもっと、ちゃんと、ガーニムと話をしていたなら……こんな…………」

「いいえ。陛下は、なすべきことをなさいました。全ての人間を納得させるなど、どんな名君でも無理な話。わかり合う努力は、お互いが歩み寄ってはじめて成るもの。ガーニム様には、私の言葉も先王様の言葉も伝わらない」

「話して、あゆみ、よれないのなら……なぜ人は、言葉を持って、いるのだろう」


 端からアシュラフたちを殺すつもりの相手を説得なんて、できるわけがなかったのだ。兄と生涯分かり合えないことに、アシュラフは涙を流す。

 震える手で腰巻きに結んでいた王剣を抜き取り、鞘ごとラシードに渡す。


「せんせい、…………どうか、ファジュルを……正しき、王に」


 アシュラフの体は力を失い、絨毯の上に崩れ落ちた。

 

「陛下……」


 ガーニムは『ドブネズミなどに人権を与えてしまったら、平民たちの仕事の席がその分奪われてしまうではないか』と声高に訴えていた。

 仕事の数には限りがあり、平民同士でさえその枠を奪い合うこともある。


 その意見を持つガーニムからすれば、アシュラフの打ち出す改革は悪手でしかなかった。


 ドブネズミを人にしようとする愚かなアシュラフを降ろし、ガーニムを王に。

 その者たちがガーニムをそそのかし、手引したのは目に見えていた。


 城内にガーニムの仲間が潜んでいたなら、自分の命はない。

 主の最期の願いを叶えるために、ラシードは隠し通路に入り、城を脱した。




 長年使われずにいた通路の先は、放棄された水路に繋がっていた。乾いて砂ぼこり舞う水路は足元にネズミがかけまわっている。

 途中に分岐路があり、ラシードは荒野と市街の境に出る道を選んだ。


 だいぶ血が失われていて、意識もぼんやりとし始めている。日が落ちて月明かりしかない中を、ラシードは意志の力だけで歩き続けた。


 視界の先に、焚き火の明かりが見えた。

 旅の商隊の馬車と天幕のシルエットが浮かび上がる。

 焚き火の番をしていた男がラシードを見て声を上げた。


「どうしたんです。その怪我! みんな、来てくれ、大変だ。大怪我をした人が!」


 敵ではなさそうな人に出会えて、ラシードは緊張の糸が切れて気を失った。




 次に目を覚ましたとき、ラシードは天幕の中にいた。

 簡素な小さいテーブルにランタンが置かれていて、ガラスの中で火が揺れている。

 右腕の肩から先は包帯が巻かれている。


「殿下、殿下は……」


 体を起こし、そばにファジュルが寝かされていた。静かに寝息を立てている。抱き上げようとして、右腕が……指一本動かないことに気づいた。

 左手でファジュルの頬を撫で、確かに生きているのだと確認する。

 自分の右腕などどうでもいい。ただただ、ファジュルが無事であったことが幸いだ。


「目が覚めましたか」


 若い男女が、天幕に入ってきた。

 年の頃は二十歳を過ぎたばかりにみえる。

 ランタンに照らされる姿は、金髪に白い肌。北方の民特有のものだ。


「貴方たちが、助けてくれたんですか」

「ああ。ぼくはヨハン。彼女はアンナ。ここは見ての通り旅一座のテントだ。なんかワケアリっぽいから、今は事情を聞かないでおくよ。無理するとせっかく縫った傷が開いちゃうから、寝てな」

「この子はまだ産まれて間もないのでしょう? ヤギのミルクをもらってきたから、起きた時飲ませてあげる」


 ヨハンたちが敵か味方かわからず、親切を素直に受け取っていいものか迷った。

 が、武器もなくまともに動けない今、ファジュルを連れて逃げることなんて不可能。

 ラシードは傷が癒えるまで旅一座に匿われることになった。


 ガーニムの手の者なら、わざわざ助けたりなんてせず、即座にラシードとファジュルを殺すだろう。

 

 信頼できる相手を得ないと、ファジュルをガーニムの目から隠し続けることはできない。

 まともに起き上がれるようになってから、ラシードは旅一座の者たちに力添えを頼んだ。


 そうして十八年。

 ファジュルは自分の身の上を知らされることなく、スラムで隠遁生活を送ることになったのだ。

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