第6話 燃える街、守るためにできること


 ファジュルとルゥルアがユーニスを迎えに行く途中、とうのユーニスが息を切らせて走ってきた。

 ユーニスだけじゃない。ユーニスが来た方角から、何人もの人が、他人を押し退けて逃げ惑う。赤子を抱いた女が突き飛ばされて転ぶ。罵声を発しながら走り去る男。

 煙が視界を黒く染め始めていて、ただ事じゃないのは誰の目にも明らかだった。


「兄ちゃん! たいへん、家が、火が……っ! 大変で、逃げないと燃えているんだ!」

「火事? まさか。スラムには炊き場以外の場所で火を使う人なんて」


 スラムの家は隙間を埋めるように、一軒でも多くと密集している。木材の壁に天幕を張った簡素な小屋も多い。

 言わば燃えるものをかき集めたような場所だ。

 だから住人はことさら火の扱いに気を使っていて、家の近辺で煙草を吸うこともしない。

 火を使っていいのはスラムの真ん中にある石造りの広場だけと、暗黙の了解があった。

 なら、なぜ火事が起きたのか。

 

 ルゥルアがりんごをユーニスの手に持たせて、背中をさする。


「ユーニス、落ち着いて。深呼吸して。何があったか話してくれる?」

「し、知らないおっちゃんが、火をつけてて。昨日来た、ええと、シャなんとかって姉ちゃんが『捕まえる』って言って追ってった。おれには、人を避難させて火を消せる人を呼ぶようにって」

「なんなんだそれは……」


 シャムスとユーニスが放火犯を目撃して、追いかける。どんな状況だ。

 昨日は気位が高いだけのお姫様かと思っていたが、怒って犯人を追うくらいの気概はあるらしい。

 ファジュルはユーニスの背を軽く叩く。


「よく呼びに来てくれたな、ユーニス。お手柄だ。俺は火消しの方に加わるから、ユーニスはルゥとじいさんを連れて、火の届かないところに行くんだ。ルゥの左側に気を配ってくれ」

「うん。わかった、兄ちゃん。まかせて!」

「逃げるとき他の人たちにも声をかけて。避難誘導を頼んだぞ、ルゥ」

「ファジュル……」


 ファジュルは不安に震えるルゥルアの肩に手を置いて、安心させるよう笑いかける。


「大丈夫。きっと小火ぼや程度だから、消したらすぐに合流する。俺はルゥの左目だから、いなくなったりしない」

「……うん。待ってる。絶対に、無事に戻ってきてね」


 一年前、ファジュルはルゥルアに約束した。ルゥルアが暗闇でも歩けるように、ルゥルアの左目になると。


 ルゥルアはユーニスと手をつなぎ、急ぎラシードの家に向かった。

 二人を見届けてから、ファジュルは人波に逆らい、火事の中心に向かう。

 小屋が火柱を上げていて、火の粉が散る。小屋の前にはなんとか消そうと躍起になっている。

 その中にはサーディクの姿もあった。

 

「サーディク、状況は」

「ああ、来てくれたかファジュル。ありがてぇ。見ての通りどんどん火がでかくなっていて、市街地にある水路の水をもらいたかったのに、ドブネズミは触るなって追い返されちまって……。くそっ」


 理由はどうあれ、スラムの民はこれまでさんざん町中で窃盗をしてきたのだ。

 こんな時だけの助けてくれなんて都合がいいことを言っても、手を貸してくれるわけがなかった。すべて自業自得。スラムなんて燃え尽きても構わないと、見捨てられても責めることはできない。


「水がなけりゃ消火なんて……このままじゃスラムが」

「嘆く暇があったら考えろ。死にたくないだろう!」


 うずくまって泣く男をファジュルは叱咤する。

 ファジュルはあたりに目を配り、あらん限りの声で叫ぶ。


「そうだ……水がないなら……。みんな、風下にある家屋を壊せ!」

「壊す!? で、でも家が壊れちまったらぼくら住むところが」

「家なら、生きていればいくらでも建て直せるだろう。だから今は、火の近くにある燃えるものをすべて撤去するんだ! 燃えるものさえなければ火はそれ以上広がらない!」

「わ、わかった!」


 水が使えない今、ファジュルの言葉を信じるしかない。男たちは力を合わせて火の近くにある家の天幕を取り払い、壁を倒していく。


「サーディク。お前は逃げ遅れる人がいないよう、見回りをしてくれ。怪我人はヨハン先生の診療所へ誘導を。あそこなら石造りだから燃えたりしない」

「あぁ、任せろ!」


 ファジュルは男たちに指示を出しながら家を壊す。そこに、見知らぬ男が加わった。

 スラムの民ではない、身奇麗な男。そしてシャムスが髪を振り乱しながら男に追走してきた。

 男はファジュルに目配せして言う。


「わたしも手伝います」

「……お前は」


 ユーニスから聞いた特徴と一致する者。こいつが放火した張本人だと、ファジュルは直感する。


「わたくしも、できることをします。民を守るのは王族のつとめ」


 ススで汚れるのも構わず、シャムスは目の前にある家の天幕をはごうと手を伸ばす。

 王女はいい性格だとラシードに言ったことを、心の中で詫びる。

 この娘は、少なくとも王のような腐った性根ではない。



 何人もの人が集まり、火が広がらないよう力を合わせる。

 そうしているうちに日が陰り、ポツリと雫が降ってきた。一つ二つ、雫は数と勢いを増して、ファジュルたちを濡らしていく。


「雨……雨だ!」

「ああ、マラ神よ。我らのために雨を降らせてくれたのか……。天は私たちを見捨てていなかったんだ」


 歓喜の声が広がる。火は雨により、次第に弱くなっていく。


「そうだ、本で読んだことがある。これを使おう。みんな、手を貸してくれ」


 壊した小屋からはぎ取った厚手の布、雨を吸って重く湿ったものを、ファジュルは広げる。


「何言ってんだファジュル、せっかく取ったのに、布なんてかぶせたらまた火が大きくなるんじゃ」

「いいや。『火は空気中の成分を糧にして大きくなる。弱い火なら、水を多く含んだ布をかぶせると空気が足りなくなり消える』と、じいさんの持っていた本に載っていた。これだけの雨を吸った布なら、消せるかもしれない」


 どのみち何もしなければ火が広がるだけなのだ。一か八か。みんなはファジュルの案に乗り、六人がかりで湿った大きい布を広げ、火元を覆うように投げる。

 一枚、二枚……。

 雨を吸った布地が新たな火種になることなく、ようやく鎮火した。


「消え、た……? やった、おれたち、やったんだ!」

「良かった……ほんとうに……」


 みんなが歓声をあげて、肩を叩いて抱きあう。頬を濡らしているのが雨なのか涙なのかわからない。


 ファジュルも全身ボロボロになりながら、濡れた前髪をかきあげる。

 見上げた空は雨が弱まり、雲間から光がさしている。


「ぼく、みんなに伝えてきます! 火が消えたって!」


 若者が笑顔で家族や仲間たちを呼びに行く。

 避難していた人たちがしだいに戻ってきた。住まいが燃えてしまった者は落ち込みはしたが、命あっての物種だと前向きに言う。

 ルゥルアとユーニス、ラシードも連れだって合流した。


「ファジュル!」

「ルゥ。良かった。ルゥも無事だったか」


 飛びついてきたルゥルアを抱きとめて、ファジュルはようやく笑顔を見せる。


「無事だったか、じゃないわ! 傷だらけじゃない。早く先生に診てもらわないと」

「本当だ……。気づかなかった」


 ファジュルの両手足はところどころ火傷を負っている。火を消そうと無我夢中だったから、痛みなんて完全に意識の外だった。

 

「シャムス、だったな。あんたも、ヨハン先生に診てもらうといい。そのままで城に帰ったら使用人たちが卒倒するだろ」

「え、ええ。そうさせてもらうわ」


 ファジュルが座り込んでいたシャムスに言う。

 初対面でファジュルはまともにシャムスを見ようとしていなかったから、はじめてきちんと目を合わせたような気がする。


 ファジュルの瞳を見て、シャムスは思い出していた。

 この国の王族は、代々瞳に青を宿して産まれてくる。王廟に飾られた歴代国王の姿似はみんな、青い瞳をしていた。

 今目の前にいるファジュルの瞳は、夜明け空のような深い青。

 ある確信が、シャムスの中に生まれる。


「……よくぞ火をおさめられた。ご立派でした、殿下」


 ラシードが静かにファジュルの前で片膝をつき、頭を下げる。

 臣が王にする最上級の礼だ。


「殿下? 誰かとまちがえていないか、じいさん」

「いいえ、わしは……私は貴方の祖父ではありません。アシュラフ様の臣下、シャヒド・アル=ラシード。アシュラフ様の命により、ご子息である貴方を連れ王城を離れていたのです」


 自分が亡き王の息子で、祖父だと信じていた男が臣下だなんて、信じろと言われてすぐに受け入れられるはずもない。

 シャムスとともに来た男が、ラシードの前に膝をついた。


「殿下を匿っていた……。やっぱり、父さんはアシュラフ様を裏切ってなんかいなかったんだな」

「アムル。なぜ、なぜお前がここに」


 スラムにいるはずのない息子が目の前にいて、ラシードは驚いた。

 両手の拳を固めて視線を落とすアムルを、シャムスがかばう。


「お初にお目にかかります、シャヒド様。わたくしはシャムス……イスティハール・アル=シャムスと申します。わたくしの父が、彼の家族を人質にして命令したそうです。スラムに火を放てと。すべての責任はわたくしの父にあります。だから、どうかご子息を責めないでやってください」

「いいえ。いいえ、姫様。脅されたとはいえ、わたしはしてはならないことをした。わたしのせいでどれだけの人が傷つき、家を失ったか」 


 この惨事の首謀者が、国王ガーニムだった。その事実を聞き、誰もが憤った。

 ドブネズミと呼ばれるだけ・・ならまだ我慢できた。

 けれど、ネズミを駆除するかのように始末されようとしていたなんて、許容できるはずなかった。


「すまない、アムル。お前が非道な命令に逆らえなかったのも、私のせいだな。裏切り者の血族を生かしてやっているだけ感謝しろ、とでも言われたのだろう」

「……ああ、そうさ。僕と母さんは、ずっとガーニムの支配下だった。逃げたラシードが下手な行動をしたら、二人とも首をはねると。自分たちの命惜しさに、あいつに手を貸すなんて。ここに暮らす人たちになんと言って詫びたらいいかわからない」


 懺悔し、泣き崩れるアムルを責められる人は、誰もいなかった。 




 ヨハンは怪我人の治療を終えて、一息ついているところだった。サーディクも手伝いしていたらしく、薬が入っていた木箱に座って足を投げ出していた。


 火傷を負っているファジュルとシャムスを見て、すぐに手当をしてくれる。

 ルゥルアもいつも医療の手伝いをしているから、ヨハンの指示に従ってファジュルの傷を清潔な濡れふきんで拭い消毒をかける。


 一度にいろんなことが起こりすぎて、理解が追いつかない。ファジュルは治療を受ける間ずっと、誰とも目を合わせず黙りこくっていた。


 日が落ちて、ランタンの灯りだけがあたりを照らしている。

 診療所の前の広場にめいめい腰を下ろして、毛布を肩にはおる。


 虫の声も聞こえないほどの静寂の中、ラシードが語り始めた。

 十八年前に王城で起きた惨劇の裏側を。

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