第34話 規格外の最弱モンスター

ぬるりと。

半透明の液体が通路をはいずる。

スライムだ。

これまで何度も見てきたそれと何も変わりない。

形も大きさも、どこにでもいる雑魚モンスターそのもの。


なのに。


「……っ!」


俺の足が動かない。

額から冷たい汗が流れ落ち、小さな金属音が響く。

自分の足が震えている音だと気づくまでに数秒かかった。


「なんだよ……あれ……」


思わず後ずさる。

そうだ、後ずさってしまったのだ。


これまで幾多の死地をくぐり抜け、強大なモンスターと渡り合ってきた俺が、ゴブリン以下の最弱モンスターに、恐ろしくて一歩下がってしまったんだ!


「くそ……くそっ! 俺はゴールドランクの冒険者だぞ! それがこんな、スライム如きに!!」


叫び声は自分を奮い立たせるためのものだった。

冷静な判断力は、あれには勝てないと告げている。

だがそれを認めることは、冒険者としての誇りを粉々に砕くことと同じ。

スライム如きに後れを取るなんて、そんなことがあったら、このさき俺は二度と剣を握れない。そんな確信があった。


死を恐れるようになったら、冒険者は終わりだ。

恐怖を知るのはいい。無謀な冒険者はすぐ死ぬだけだ。

しかし、恐怖から逃げるようになったら、いざという時に足がすくむようになる。それはもう、冒険者として死んだも同然。誰もが知っている事実だ。

だから、たとえ死ぬと分かっていても、俺は心を守るために剣を振りかぶるしかなかった。


「ああああああああ!」


死を覚悟で突進しようとした時だった。


「馬鹿野郎が!」


リーダーの男が俺の身体を掴んで引き戻す。

その腕の力は、普段の温厚な様子からは想像もできないほど強かった。


「ハイプロテクション!!」


同時に僧侶の詠唱が響き渡る。高位防御呪文の光が全員を包み込む。

そして、微かに空気が動いた。


──ギィィィン!!


何かが空間を裂いた。

そうとしか分からなかった。

発動したばかりの防御結界の表面を、鋭利な何かが通り過ぎていく。

その一瞬、薄暗いダンジョンの空中に無数の火花が散った。僧侶の展開した高位の防御結界が、まるでガラスのように砕け散る。


ゆらりと。

半透明の触手のようなものがスライムの体内に戻っていく様子が見えた。

まさか、攻撃されたのか? 一撃で防御魔法を破壊するほどの強力な攻撃を? 今の一瞬で?

違和感を感じ、俺は自分の身体を見下ろした。


「──っっ!!」


息が止まる。

生半可な攻撃では傷一つ付かないはずの、神の加護を付与した魔力鎧がズタズタに切り裂かれていた。

しかも一撃じゃない。ざっと見ただけでも10回以上、無数の斬撃の跡が刻まれている。

それなのに、俺の目にはひとつも見えていなかった。


冷や汗が背中を流れる。

攻撃があとほんの少し深ければ、この鎧と同じように俺の身体はズタズタに切り裂かれていただろう。

男が俺の身体を後ろに引かなかったら。一瞬でも防御魔法が遅かったら。それに、怖気付いて思わず一歩下がらなかったら──


「────っ!!」


声にならない叫びが喉から漏れる。


「一撃は凌いだ! 下がれ!」


リーダーの声に促され、パーティは一斉に退却を開始する。

遠ざかる廊下の奥では、半透明の触手が、まるで死神の鎌の様に揺らめいていた。



十分な距離をとったことを確認して、俺たちはダンジョンの廊下に座り込んだ。数十秒にも満たない出来事だったのに、全身から汗が吹き出している。


つい先ほど目の前で起きたことが、まだ現実とは思えなかった。

スライムという最弱のモンスターが、一瞬で高位魔法を破壊し、神の加護すら貫く一撃を放つ。そんなことが、本当にあり得るのだろうか。


「奴はこっちの殺意に反応する。近寄るか、攻撃しなければ襲ってくることはない」

「なんだ、あれは……」

「いったろう。ここのスライムはスライムじゃない──」

「スライム!? スライムだと!? あんなものがスライムだというのか!?」


叫び声が狭い廊下に悲鳴のように響く。


「ふざけるな、あれはそんなものじゃない! 高位の防御結界も、魔力を付与したエンチャントアーマーも、紙切れ同然に切り裂かれた!

 見ろよこれを! あとほんの少し深かったら、俺の体は紙切れのように切り裂かれていた……」


恐怖に凍える体を抱きしめる。

歯がガタガタと鳴るのを止められない。


「あれは、あれは……悪魔だ……」


リーダーの男がため息をつく。


「ここの魔法生物は人間が敵う存在じゃない。見かけたら全力で逃げろ。それが唯一のルールだ」


僧侶の男も頷いた。その顔は青ざめている。


「込められている魔力が桁違いだ。ここではデススライムと呼ばれている」

「他にも、あんなのがいるのか……」

「確認されてる中では、ロックゴーレムが1体。それから地下3階でミミックが居たそうだ」


喉がごくりと鳴る。


「たかがスライムであの強さ。ゴーレムやミミックとなると、どうなるんだ……」

「さあな。戦ったやつはいないからな。それに、不思議とこのダンジョンでの死者は未だゼロだ」

「どういうことだ?」

「奴らは殺気に反応する。恐らくは必要以上に攻撃しないように命令されているんだ。だから俺たちが逃げれば、追撃はしてこない」

「なぜそんなことを……?」


リーダーは一瞬考え込んでから口を開いた。


「さあな。ダンジョンを作ったやつに聞かなければ分からない。

 だが仮説はある。俺たちなんかよりもっと強大な敵から何かを守るために、門番として奴らが造られたのかもしれない。あるいは、俺たち人間とゴブリンの見分けもつかないほど、想定している敵が強すぎるのか……」

「このダンジョンは、いったい何なんだ」


リーダーは無言で一本のポーションを取り出した。受け取る前から、その桁違いの魔力に気付く。


「まさか、エリクサーか?」

「そうだ。これが、すぐそこの一階の宝箱に入っていた」

「馬鹿な……。これ一本で一か月は遊んで暮らせるだろう。一階でこれなら、これよりも地下には何があるんだ?」

「それを知るために世界中から冒険者たちが集まっている。もっとも、3階より下に行った者は未だ一人もいないがな」


その言葉に、誰もが沈黙した。


「王都の騎士団も最初はたった一度の戦闘で撤退を余儀なくされたという」


盾役の戦士が小さく頷いた。


「中央から伝説のパーティがやってきたんだろ。剣聖ライガに魔導王ヴァールなど、そうそうたるメンバーだ。奴らがここの秘密を暴いてくれるだろう」

「そいつらがすでに何度か偵察に向かったらしい。噂だと4階までたどり着いたとか」

「もうかよ。さすがだな」

「それでなにがあったんだ?」

「別世界につながっていたそうだ」

「は?」


誰もが息を呑む。


「草原に川、木々が生え、山まであったらしい。空には太陽が昇り、雲が風に流れていたと」

「いやいや、なにいってるんだ。地下だぞ? 山や太陽って、どこにそんなのが入るんだよ」

「俺に聞くな。そういう噂があるってだけだ。伝説のパーティ様はそこで一度戻ったらしいが」


リーダーは壁に寄りかかりながら、さらに続けた。


「それに草原にはギガントタイガーの姿も確認されたとか」

「A級モンスターか。それくらいじゃ驚かないが……」

「最弱のはずのゴブリンですらあの強さだ。ギガントタイガーもどれほど育っていることか……」


誰もが先ほどのスライムとの戦いを思い出し、身震いする。


「噂だと、無数の触手を生やした邪神の像もあったらしい」

「悍ましい……。やはりここは邪神のダンジョンなのか……」


俺は先ほどのスライムの触手を思い出していた。

あの恐ろしい速度と威力。確かに、邪神の力と呼ばれても不思議ではない。


「とにかく、何もかもがここは規格外なんだ。おれたちゴールドランク程度の一般人は、一階で小銭を稼ぐのが仕事ってわけだよ」


自嘲気味に言うリーダーの言葉に、誰も反論できなかった。

ついさっきまで初心者向けダンジョンと聞いて高を括っていた自分が恥ずかしくなる。

普通の冒険者である俺たちに、このダンジョンの真相に迫ることはできない。

それはもう誰の目にも明らかだった。


しばらくの沈黙の後、僧侶が静かに口を開いた。


「このダンジョンの目的は、何なのだろうな」

「鍛錬所としては優秀すぎる。見せしめにしては生かしすぎてる」


リーダーの言葉に、誰もが考え込む。

確かにこのダンジョンは、一般的なダンジョンとはあまりにも違う。


「そういえば聞いたことがある。魔王が現れる時、勇者を導く存在もまた現れるという伝説を」

「それが、ここだと……?」


俺の言葉に、パーティのメンバーが顔を見合わせる。

確かにこの異常な強さは、そういった可能性すら思わせる。


「わからん。ただの伝説だからな」


リーダーは肩をすくめた。


「少なくとも一階で手こずってる俺らが勇者じゃないことだけは確かだ」

「それもそうだな……」


苦笑いが漏れる。

ゴールドランクとしてそれなりに腕にも自信があるつもりだった。

いや、実際かなりの実力者のはずだ。それだけの自信はある。

それでもこのダンジョンの前ではまだまだ未熟者でしかない。


井の中の蛙。

その言葉が頭をよぎる。

世界にはまだまだ俺たちの想像を超える存在が潜んでいるのだ。


「とりあえず、今日はここまでにしようぜ」


皆が頷く。

こんな状態で深追いしても、命を落とすだけだろう。

今は一度引いて、情報を集め直す必要がある。


立ち上がる時、ふと振り返ると、あの恐ろしいスライムが手を振っているような気がした。

まるで「またおいで」とでも言うように。


気のせいだろうか。それとも本当に──


──────

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