9 不運令嬢、兄に会う


 馬との触れ合いがルミティの日課になった。彼女は天気がよければ厩舎に赴き、馬番のジャックと共に馬のお世話をするのだ。馬車引きの四頭の黒馬たちとヴェルズの愛馬。カローニャはルミティによく懐いていた。


「奥様、お召し物が汚れてしまいます」

「ジャック、大丈夫よ。これは実家から持ってきた古い服なの。それこそ、実家にいたときはこっそりお庭で畑作業とかもしていたからもっと汚れていたし……この子たちをブラッシングしているとね、すごく落ち着くのよ」


 カローニャがブルルと鼻を鳴らした。ルミティは、初めての彼女の背に乗った日にブルーノからカローニャの過去について聞かされて、彼女を精一杯愛そうと誓ったのだ。

 王宮の騎士御用達である有名な調教師のもとに生まれたカローニャは「牝馬で気性難」だからという理由だけで王宮の騎士たちに乗りこなせず、厳しく辛い訓練を繰り返す日々。鞭で後ろ足の肉が抉れ、調教師たちは彼女を従えるために暴力を振るった。しかし、体の大きいカローニャは調教師に大怪我を負わせ調教不可能と判断、買い手もつかなかったため殺処分の危機にあった。

 狭く暗い場所に押し込められ、十分な食べ物を与えられず死を待っているだけの彼女を救ったのはヴェルズだった。


「女性が苦手なのは、その調教師が女性だったから。後ろに立たれるのが怖いのは後ろ足に傷を負った記憶があるから。カローニャ、私を受け入れてくれてありがとう。精一杯、お世話をさせて頂戴ね」


 ブラッシングをするとふわふわした毛がごっそりと抜け、新しくて綺麗な毛が顔を出す。換毛期になると抜け毛だけでもう一頭生み出せそうなくらいの抜け毛が取れたりもする。なお、馬は汗をかくことで自分の毛を綺麗にする力があるため、毛艶はよく触り心地もつるつる。カローニャのような良馬は特にブラッシングをしているだけでも美しさがみるみるうちに磨かれていく。


(なんだか、このお屋敷での暮らしがどんどん大好きになっていくわ。愛のない契約結婚だけれど、優しい騎士と素敵なお屋敷の人たちに囲まれて……なんて幸せなんでしょう)



「奥様、こちらにいらしたんですか」


 エリアスが厩舎にやってくるとちょっと困ったような顔でルミティを見つめた。彼の後ろにはルミティの兄・ロビンが不機嫌な顔で立っている。


「ロビンお兄様?」

「ルミティ、まさか我が妹がこんな仕打ちを受けているなんて。アルバンカ家の時期当主として許し難い。王宮にもここにも不在だと? 全く」

「お兄様、あの……」

「その上、我が妹に馬の世話を? ふざけている」


 怒るロビンを宥めながら、ルミティは応接間へと彼を案内した。ロビンは妻・リリーの懐妊にあたり王宮への休暇申請を出しにやってきたついでに、このボルドーグ家にも立ち寄ったとのことだった。

 ルミティにとって久々に見る兄は懐かしく、そして勘違いとはいえ自分のために怒ってくれている兄に少しだけ嬉しい気持ちを感じている。


「そうだ、ロビンお兄様。こちらのエリアスはお兄様と旦那様と同学年で同じ寄宿学校の出身なのよ。ね? エリアス」

「あ、あぁ」

 飲み掛けの紅茶をテーブルに置き、ロビンがじっとエリアスを見据えた。

「いや、今日初めてお会いするね? エリアス殿」

「えっ、エリアスは旦那様と旧知の仲。お兄様もご存知かと思ったのだけれど」

 ロビンは眉間に皺を寄せエリアスをじっとみたが、わからないとばかりに首を捻る。そこでエリアスが慌てたように補足した。

「もともと僕の家はこのボルドーグ家に使える下級貴族だから……ロビンさんやヴェルズとはクラスが違ったんだよ」

「そうでしたか。それは失礼。で、その騎士殿が我が妹の護衛を? なぜ、妹に馬番の真似事をさせていた?」

 ロビンがエリアスから疑惑の視線を外すとエリアスはホッとしたように小さく息を吐いた。

「お兄様、あれは私がやりたくてやっていたのです。お兄様も私が大のお馬さん好きなのは知っていらっしゃるでしょう? そうだ、リリーお義姉様のご懐妊の件おめでとうございます」

「ありがとう、ルミティ。全く、我が家にいたときはマロンのわがままに悩まされやっと婚約が決まって幸せになっているのかと思いきや……ヴェルズは一体どこにいるんだ」

「旦那様は王宮で従事しているのではないでしょうか?」

 ルミティに言われて、ロビンは深いため息をついた。


「さきほど、王宮に行ったとき彼に挨拶をしようと居所を訪ねたら『屋敷にいるはずだ』と言われたんだ。本邸であるここにいると思ったが、この騎士殿に聞けば帰っていないというじゃないか。ヴェルズは新婚の妻を放って一体何をしているんだ」

 ルミティが寂しそうに俯いた。ぐっと膝の上で拳を握りそれから、愛想笑いをする。愛のない契約結婚の現実を理解させられ「旦那様に愛されていない」と実感して彼女の心がぎゅうぎゅうと締め付けられた。


(お兄様をこれ以上心配させてはいけないわ。契約結婚であることもバレてはいけないわ)


「旦那様はどこかで私のためにお買い物をしてくださっているのかも。私が、真珠貝の置物が欲しいと駄々をこねたから……」

「そういえば、ルミティは海に関するものが好きだったものな。まぁ、それならいいだろう。じゃあ、君は幸せなんだな? 普段、ヴェルズは早く帰ってきてここで君と楽しく食事をしたり休日は一緒に過ごしたりしているんだな?」


「えぇ、とっても幸せよ。お兄様、リリーお義姉様のご懐妊に何か贈り物をしたいのだけど何がいいかしら?」

「そうだな、気持ちだけで喜ぶだろうが……彼女、最近おしゃれなランプを集めていてね。良いものがあれば送ってやって欲しい」

「かしこまりましたわ。今度……今度、旦那様と一緒に選んでお送りしますね」

「あぁ、もしヴェルズのやつが忙しくなければ久々に我が家の領地に戻ってきて会ってやってくれ。リリーは都市部で過ごす君をすごく羨ましがっていたからね」

「えぇ、とても素敵なランプを探しておきますね」


 ロビンを見送り、ルミティはやっと愛想笑いを止めることができた。契約結婚であることを知られてはいけない、兄を心配させてはいけない。けれども、兄がヴェルズに対して怒れば怒るほどルミティは虚しくなった。自分が愛されていないのだとまざまざと見せつけられて心が死んでしまいそうだった。


「エリアス、今日はもう戻って大丈夫。私、疲れてしまったみたい。部屋で休ませていただくわ」

「奥様……」


 ルミティは足早に自室へと向かい、追いかけてくるエリアスを振り切るようにしてドアを閉めた。ドアが閉まると、感情と共に涙が溢れるように溢れ、彼女は声を漏らさないように唇を手で塞いだ。


(あぁ、私はなんて惨めなんでしょう)

(旦那様がもしかしたら私を愛しているのかもなんて甘かったんだわ)

(お兄様に嘘をついてしまったわ。あぁ……こうしてずっと嘘をつき続けなければならないのね)


 ひとしきり泣いたあと、ゆったりした部屋着に着替えてソファーに腰をかける。それから少し横になって自分が「公爵婦人」として生きていけるだけ幸せなのだと必死で言い聞かせた。そのうち、ルミティは眠りに落ちてしまうのだった。



***


 ふかふかのベット、カモミールの香りが微かに漂うベッドで暖かい毛布に包まれている。ルミティは夢見心地の中、自身の髪を撫でる存在に気がついた。


(私、ソファーで眠ってしまって……?)


「あぁ、ルミティ。愛しのルミティ」


 ルミティの頭をそっと撫でる手は大きくて形の良い手。暖かくて優しい。その人物はベッドに腰をかけ、眠っていて、小さな声でつぶやいた。


「こんなに愛しているのに、伝えられなくて……不甲斐ない僕を許してくれ」


 ルミティがうっすらと瞼を開くと、彼女を撫でているのは見慣れた騎士だった。いつもの軽薄な笑みではなく、慈愛に満ちた表情でまるで別人のようで、ルミティは驚いた。


(今、愛していると……言った? あぁ、これはきっと夢なんだわ。そもそも、エリアスがノックも無しに勝手に部屋に入ってくるなんて……それはあるかもしれないわ)


「でも少しだけわかったよ。君の呪いについて。あぁ、僕のルミティ。誰よりも愛している」


 ルミティがもう一度眠りに落ちる前、額にキスをされた感覚がうっすらと残る。耳に当たる吐息が夢の中だというのにあまりにも現実感があったような気がした。


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