8 不運令嬢、馬に乗る(2)
昼食後少し休憩した二人は、広い裏庭を抜け厩舎にやってきていた。よく手入れされた木の建物には五頭の馬が住んでいて、うち四頭は馬車を引くおとなしい馬だ。四頭は隣り合った馬房の中にいて、穏やかに過ごしている。厩舎に二人が入ってくると馬房から顔を出して覗き込んだり、人懐こい馬はフンフンと鼻を鳴らしてルミティに近づく。
厩舎の馬番は先ほどルミティたちが乗った馬車の御者。彼はブルーノと同じくらいの年齢で、代々この公爵家で馬番・御者をしている。
「奥様、騎士様。手前の四頭はとても気の優しい性格の馬、ぜひ撫でてやってください。まずはこうして手のひらをゆっくりと差し出して匂いを嗅がせてやってください。そうすれば自ら頬を寄せてきますよ」
「ありがとう。まぁ、こんにちは」
ルミティは馬房から顔をだし、鼻を突き出していた黒い馬に手のひらを差し出した。馬は彼女の掌の匂いを嗅ぐと、ふにふにの唇で挟んだりつついたりしてルミティの手のひらを弄ぶ。
その感触が柔らかくてくすぐったくて、ルミティがくすくすと笑うと隣の馬房にいた馬も顔を出して彼女をみながら大きく首を振る。
「おや、この子たちはさっき僕たちの馬車をひいてくれていた子たちだな」
「まぁ、ありがとう」
人懐っこい黒い馬の額や頬を撫でると、馬が気持ちよさそうに目を細め馬の長いまつ毛が揺れる。ルミティはそれを愛おしそうに眺め、エリアスはそんな彼女を愛おしそうに眺める。
一方で、一番奥の一番広い馬房は少し殺気立っていた。ヒヒンヒヒンと神経質な声、蹄を細かく鳴らす音は明らかに厩舎に入ってきた人間を警戒していた。
ルミティはその馬房の前のプレートを見て納得する。
「奥様、そちらは……」
馬番が申し訳なさそうに言ったが、ルミティは興味津々でゆっくりと奥の馬房の前まで歩く。
「あの子がカローニャ?」
「そう、ヴェルズの愛馬さ。カローニャ。奥さんに挨拶は?」
馬房の奥、警戒するように首を下げこちらを睨んでいるのは栗毛の大柄な馬だった。一際毛艶がよく、後ろ足の筋肉は大きく美しい。栗毛の体毛に光り輝く金色の立髪と尻尾は高貴さすら感じさせるほど。けれど、彼女はルミティを見ると威嚇するように足を踏み鳴らす。ブヒヒーンと一際大きな声を出して前歯を剥き出しにしたり、後ろ足だけで立ち上がったりと落ち着かない。
「あら、怒らせてしまったかしら。ごめんね、カローニャ」
「ちょっと気難しい子でね」
エリアスは柵をくぐって馬房の中に入り込んだ。
「騎士様、危険です!」
「大丈夫、僕は騎士だよ。どんな馬も乗りこなすさ」
馬番は「あぁ、なんということか」と震え、ルミティは心配そうに見つめている。カローニャは馬房の端っこまで逃げように身を寄せ、歩いてくるエリアスを警戒した。エリアスは手袋を外し、威嚇する馬に臆することなく近づき触れた。
カローニャは後ろ足を浮かせ、大きく嗎いたがそれでもエリアスは彼女の頬に触れてゆっくりと撫でた。ルミティたちには聞こえなかったが、カローニャに優しく何やら語りかけていく。次第に、カローニャは落ち着きを取り戻し、おとなしく手綱を装着された。エリアスは慣れた手つきでカローニャを誘導すると、ルミティのいる馬房の入り口までやってくる。
「さ、カローニャ。お前の旦那様の大事な大事な奥様にご挨拶を」
カローニャは頭を下げ、片方の目でじっとルミティを見据えた。つぶらで大きな瞳、長いまつ毛が揺れ「あなたは誰?」と言っているかのように感情のある瞳であった。ルミティはゆっくり優しく口を動かした。
「はじめまして、ルミティよ。カローニャ、驚かせてしまってごめんなさいね」
フンフンと鼻息を鳴らし、カローニャからルミティに近づいた。ゆっくりとルミティの胸元に頬を寄せ、ふわふわの三角耳が細かく揺れる。ルミティはカローニャの顔をそっと抱きしめて、優しく頬をさすってやる。
「本当は賢くて優しい子。その上、旦那様のことが大好きな忠実な子なのね。気難しいなんてこちら側の都合だもの。そのままの貴女でいてね」
「あのカローニャがこんなに気を許すなんて……さすがは奥様でございます。騎士様、鞍はこちらに」
馬番が用意したカローニャ専用の鞍を装着し、ゆっくりと馬房の柵をあげる。エリアスが手綱をしっかりと握り、ルミティはその後に続いた。馬番はいつも気性の荒いカローニャがこうもおとなしくなるかと驚きつつも、怖がる他の馬たちの世話に戻る。
カローニャを連れて裏庭に出た二人は綺麗に整えられた芝の上をゆっくりと歩く。午後の柔らかい日差しがじんわりと体温を上げ、少し冷たい風がそれを調整する。風はほのかに紅茶の香りがして、ルミティはここが都市部なのだと改めて感じた。
「さ、カローニャ。奥様を背中に」
「待って、エリアス。少し、一緒に散歩してからでもいいかしら? カローニャもいきなり人間を背に載せるのはきっと窮屈だわ。ね、ほらあっちの花壇まで歩きましょう」
カローニャは「そうよ」と言わんばかりに首を振るとルミティについて歩いた。ルミティの歩幅に合わせるようにゆっくりと蹄を鳴らす。
「エリアスはカローニャとは長いの?」
「あ、あぁ。僕はヴェルズとも長いからね。この子が生まれた時からよく知っているよ。この子は前の飼い主にひどい仕打ちを受けていたところヴェルズが引き取ってね。非常に優秀で体も強い馬だけど、彼にしか懐かなくて」
「エリアスにはよくなついているじゃない?」
「あ、あぁ。僕も認めてもらうまで大変だったよ」
エリアスは苦笑いをして誤魔化したが、カローニャが足を止めてじっと彼を見据える。エリアスは軽薄な笑みを浮かべ直すと
「お嬢さん方、あまり僕をいじめないでくれよ」
とおどけて見せた。カローニャは「フン」と鼻息を鳴らすと、ルミティに頬づりをして再び歩き出した。
「エリアス、嫌われちゃったかも?」
「奥様の方がカローニャと気が合いそうだ。そうだ、もしも奥様が望むならヴェルズに伝えてここから少し行った場所にある領地の一部を牧場にしてって頼むのはどうだい? ちょうど僕も騎士として乗馬訓練場が欲しかったんだよなぁ」
「ちょっと、それは私の希望じゃなくってエリアスの希望じゃない。旦那様にそんなわがままいってご迷惑かけてはダメよ」
「奥様は厳しいなあ、な? カローニャ。広い牧場で日向ぼっこができて、砂浴びができる場所があって駆け回りたいだろう?」
「確かに、カローニャたちのためを思ったらわがままを言ってみてもいいかもしれないわね」
裏庭の端っこ、城壁のような塀の下は花壇になっていて、さまざまな花が咲き誇っている。甘い蜜の香りを楽しむように、カローニャが花の香りをフンフンと吸い込む。優しい瞳がじっとルミティを見つめ、ルミティは彼女の首元を優しく撫でた。
「馬が好きかい?」
「えぇ、動物はみな好きよ。お父様は危険だなんて言ったけど、人間がお馬さんを怖がらせてしまうからいけないの。こうして、向き合って理解し合えば仲良くなれるのに。ねぇ、カローニャ」
「もしも、カローニャが君を認めなかったらどうしていた?」
「そうねぇ、きっと彼女の好きな食べ物を毎日持っていって好きになってもらえるように努力をするかしら。それでもダメなら、遠くから彼女を眺めて我慢するわ。こんなに美しいんだもの、それで十分よ。ね、カローニャ」
カローニャはルミティに声堪えるように、彼女が履いていた乗馬用のブーツを甘噛みした。それは「背に乗っても良い」という彼女のなりの合図で、今まではヴェルズにしかしたことのない仕草であった。
「さ、奥様。ここに足を、そのままゆっくり、よし」
ルミティはエリアスに補助されながらカローニャの背に乗った。普通の牝馬よりも一際大きなカローニャは何事もなかったかのようにゆっくりと歩き出す。カローニャに合わせて作られた鞍は大きく、ルミティは落っこちないようにバランスを取る。
「ふふ、ありがとうカローニャ」
エリアスが手綱を握り、カローニャの顔の横を歩く。ルミティはとても楽しそうな笑顔で景色を眺めた。裏庭から見える屋敷の構造はとても美しい。まるで美術館のような重厚な石造の建物、金色の窓枠に午後の日差しが反射してキラキラと光っている。
遠くに見える二つの人影はブルーノとルナだ。ルミティが手を振るとブルーノは胸に手を当て会釈し、ルナはスカートを少し広げて挨拶を返す。しばらくすると、ルナの方が急いで屋敷の方へと走っていき、ブルーノは相変わらずルミティたちを見守るように木陰へと移動した。
「さ、少し速度をあげようか。カローニャ、いいかい?」
カローニャはエリアスの掛け声に彼の手を甘噛みして答えた。すると、エリアスは彼女の鼻をなで、軽やかに背に乗った。
「きゃっ」
「ルミティ、少し前にずれて手綱を握って。大丈夫、最初から二人乗り用の鞍にしているよ。カローニャ、いいよ。ゆっくり加速して」
ルミティは手綱を握り、それをエリアスが後ろから手を重ねるようにして握る。彼に後ろから抱き込まれるような体制になって、彼女は思わず顔を赤くした。
主人からの嬉しい命令にカローニャの方は徐々に早歩きに、ピョンピョンと足を跳ねさせるように走り、最後には風のような速さで駆けた。
「大丈夫、僕とカローニャを信じて」
耳元でそう囁かれて、ルミティは恥ずかしそうに頷いた。手綱を握り、視線を前に戻す。カローニャの立髪が風に煽られ、金色に輝く。広い裏庭を横切れば彼女は華麗にカーブをするとまた走り出す。ルミティの頬を撫でる風は冷たいはずなのに、彼女の体温は熱い。背中に感じるエリアスの体温のせいであろうか、彼の心臓の音がかすかに背中に伝わってまた体温が上がったような気がした。
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