4 不運令嬢、「推し」を知る



 ボルドーグ公爵家の朝はゆったりとしている。小鳥の声で、少し早く目座めたルミティは朝の風に当たりながら深呼吸をした。


「奥様、お洋服が届きましたよ」


 メイドの声がして振り返ると、そこには可愛らしい黒髪のメイドが昨日外商に発注した普段着を持って立っていた。彼女の名前はルナ、女性しかできない私の身の回りの世話をしてくれるメイドだ。


「ありがとう、ルナ。背中のリボンを結ぶのを手伝っていただける?」

「もちろんです。あの奥様……昨日いらした騎士の方とても麗しい方でしたね」


 そう言われてルミティはエリアスの顔を思い出した。麗しいという言葉がぴったりで、今日も彼が来ると思うと嬉しいような緊張するような不思議な気持ちになる。


「そうね」

「メイドたちの中でも彼を推しにする人が多くって」

「推し?」

「あら奥様、動かないでくださいね」


 ルナがきゅっとルミティの背中のリボンを結ぶ。「推し」という聞き慣れない言葉にルミティは首を傾げた。


「推しって、何かしら?」

「まぁ奥様。推しというのは最近都市部のご婦人の中で流行っているものですわ。例えばこのクラス王国の第3皇子ミハエル様。彼は絶世の美男で国中のご婦人を骨抜きにしていますわ。けれど、多くのご婦人は彼に手が届かない、いや届かなくていいのです」

 ルナが恋する乙女のように手を胸の前でいのるようなポーズをして頬を赤らめる。一方で話が見えてこないルミティは首を傾げたままだ。

「つまり、「推し」というのは尊い存在なのです」

「ルナ、話が見えないわ」

「そうですね……。ルナはエリアス様の麗しい姿を遠くから眺めているだけで十分なのです。彼を誘惑しようとかどうこうなろうとかそんなの烏滸がましいとさえ思う。ただ、彼が幸せになってくれることを願い応援し続けるのです」

「恋人や憧れの想い人とは違うの?」

「えぇ、明確に違います」

「もしかして、幼い頃に童話の中の王子様を眺めているような感覚かしら?」


 ルナは少し考え込んで


「似ているような気もしますね。けれど、それは恋愛感情があるので違うかもしれません。推しの麗しさにドキドキこそすれど、そこに愛されることを期待してはいけないのです」

「なるほど……、難しいのね。推しって」

「あぁ、エリアス様のお姿を拝見したいわ。私、それだけで普段の何倍も動けちゃいます!」

「ふふふ、ルナったら」

「ここだけの話、メイドの中には奥様を推しにしている子もいるんですよ」

「へっ?」

「もしも、奥様をこっそり影から見守っているメイドがいたら微笑みかけてあげてくださいね」

「ルナ、私なんかを推しに? 女の子のメイドが?」

「えぇ、推しに性別は関係ありませんもの。奥様のお優しくてお可愛らしいところを推しているメイドたちがいるのです。旦那様も美男子だし、奥様も麗しくて……あぁ私ったらなんて幸せ者なのかしら」



***


 朝食を食堂でとっていると、ルミティは配膳室の方からの視線に気がついてそちらを向いた。そこにはこっそりルミティの方を覗いているメイドが二人。


(もしかして、あの子たち……)


 先ほどのルナとの会話を思い出し、ルミティは彼女たちに向かって微笑んで小さく手を振った。すると、彼女たちは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに会釈をし、お互い顔を見合わせると配膳室の中へと引っ込んでいった。

 耳を澄ますと彼女たちの声が聞こえ


「今、奥様がこちらに手を振ってくださったわ」

「朝からなんて麗しいんでしょう」

「あの細くて小さい手、見た?」

「今日はいい一日になるわ、絶対よ!」


 そんな会話をしていて、ルミティはルナの「推し」の話が本当だったと理解した。カリカリに焼いたベーコンを口に入れ、食感を楽しんだらふかふかのパンをちぎって食べる。向かい側の空席を見て少しだけ悲しい気持ちになったが、自分を「推し」にしてくれるほど愛してくれている使用人たちのことを考えたらちっとも寂しく無くなってしまった。

 新鮮なミルクを飲んで、最後に旬のフルーツを口に運ぶ。


「美味しい」


 ポツリと呟くと配膳室の方から小さな悲鳴が上がった。


***


 たっぷり朝食を食べ終えて少し休んだルミティは中庭へと向かい、綺麗に整えられた花々を愛でていた。ボルドーグ公爵家の中庭は、大きな噴水がいくつもあり薔薇のアーチや極東から取り寄せたと言う藤の花、桜の木などが植えられている。

 気候に関わらず全ての花が咲いているのは、ボルドーグ公爵が代々受け継いでいる秘宝の魔力によるもので本来であれば隣同士に並ぶはずのない花たちが並び、美しい姿を揺らしている。


 薔薇のアーチの下に設置されたベンチに腰掛けて、少し気になっていた本を開く。恋愛小説と呼ばれる類の本でルミティが学園に入ったばかりの頃、女学生たちの間でとても流行ったものだ。当時は勉強ができなかったことでこういった娯楽小説を買ってもらうことはできなかったし、恋愛に対して良い印象がなかったので自ら手を出すことはなかった。

 けれど、この屋敷に来て数日。彼女は幸せを噛み締めて、恋愛小説を手に取るほど心に余裕ができているのだ。最初こそ「愛のない契約結婚」を嘆いたものの、実際に過ごしてみれば人間関係の鬱陶しさが少ない分生きやすかった。


「おや、探しましたぞ」


 声の主はエリアスだった。薔薇のアーチの中で見る彼の顔は一際美しい。まるで、本当に童話の中の王子のようだとルミティは思った。


「こちらで読書をしていただけよ」

「今日も麗しいです、奥様」

 

 彼は昨日と同じく立膝をついて最敬礼をすると、ルミティの手の甲にキスをする。その様子を見ていたルミティは「はっ」と何かに気がついたように息を飲んだ。


(私にとって……エリアスは推しなんだわ)


「奥様……?」

「いえ、なんでもないの。スッキリしただけ」

「そ、それならいいが。お隣失礼しても?」

「えぇ、どうぞ」

「失礼……」


 エリアスが横に座り、彼はじっとルミティを見つめた。一方でルミティは自分の中のエリアスに対する気持ちに「推し」という名称がついて、心のもやが晴れたような気分。彼女の頭の中で、今朝ルナから教えてもらったことが反芻される。


『麗しい姿を遠くから眺めているだけで十分なのです。彼を誘惑しようとかどうこうなろうとかそんなの烏滸がましいとさえ思う。ただ、彼が幸せになってくれることを願い応援し続けるのです』

『推しの麗しさにドキドキこそすれど、そこに愛されることを期待してはいけないのです』


(まさに、ルナの言う通りだわ)


「奥様、何か良いことでも?」

「えぇ、とっても!」


 ルミティが幸せそうに笑い、エリアスはそんな彼女の笑顔に見惚れて顔を赤らめた。


(あぁ、今日も推しが麗しいわ。なんて素敵な一日なのでしょう)


 幸せそうな表情のまま、ルミティは小説を読み始めた。

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