鳴かぬ蛍とコンビニ灯

宮谷 空馬

鳴かぬ蛍とコンビニ灯



 大通りまで出ると人が多かったので、今日が休日だと思い出した。息が詰まる。背中を丸めて人ごみをくぐり、セブンイレブンに飛び込んだ。コーヒーとホットスナックの油の匂いが混ざっている。店内放送の黄色い声が耳に障る。僕は冷たいミルクティーを取ってレジに置いた。

「コーヒーと、ピース下さい」

ポケットから畳んだ千円札を出す。四つ折りだ。先生はいつもこうやって札を畳む。


 レジ横の機械からホットコーヒーが紙コップに注がれている間、僕はうつむいて袋の中のピースを見つめていた。高い電子音が聞こえて、顔を上げる。夏を惜しむような夕暮れが目に痛い。店を出て、急いで歩く。雑踏の声がパーソナルスペースを侵食していく。熱い紙コップを抱くように持った。首筋を汗が伝った。


 大通りから横道に入ると、ようやく呼吸ができたような気持ちになる。深いため息を飲み込んで、剥き出しの階段を上り、見慣れたドアを引いた。




「先生」

先生はソファに座ったまま、埋もれるようにして眠っていた。ローテーブルに買ってきたものを置き、名前を呼んで起こそうとする。コーヒーの香りが部屋を満たした。

「先生、煙草、買ってきました」

先生は、起きない。


 向かいに座って、ミルクティーとピースを取出し、机に並べる。酷い名前だ、といつも思う。お使いは嫌いではないが、吸ったこともないこれの名前をコンビニで伝えるのは恥ずかしくて嫌だった。手慰みにセロファンを剥がす。その音でようやく、先生が目を覚ました。うつろな声で、成海、と僕の名を呟いた。


 名前を呼んでも起きなかった癖に、と心の中で小さく文句を言いながら、僕はそれを先生の前に差し出した。先生はまばたきをして、体をソファから引きずり出す。伸ばされた手が、ピースを掴んだ。


「ご苦労さん」

 掠れた声に労われる。爪の短い指が一本抜き取る。先生はそれを咥え、黙った。たぶん、ライターをどこに置いたか、思い出そうとしている。先生が知らないライターの所在を僕が知るはずもないので、じっと見つめていた。それから、虚無を映していた先生の目がコーヒーに向き、ピースを手放してホットコーヒーを啜るのも、僕は静かに見ていた。白昼夢のような時間だった。窓の外の騒がしさだけがこの部屋を現実たらしめていた。


「……一番近くのファミリーマートが死んだんですよ」

 僕が譫言のように呟くと、先生がコーヒーを飲みながら頷いた。

「あそこがなくなったら、大通りに出て、セブイレまで行かなきゃいけなくて。今日、土曜だから、人多くて、だめですね」


 テーブルの上のミルクティーのボトルには水滴がついていた。右手でそれを拭う。そうか、と先生が言った。ふと、先生も人ごみは苦手なのだろうかと考えた。案外何とも思わなさそうな気がした。人の群れの中をふらふらと漂う先生を想像した。差し込む夕日のせいで、そのイメージは本物らしさを帯びていた。

「昨晩、ここに来た時、いつもより道が暗かったので気付いたんです」


 思い出す。深夜二時、ファミマの前で、僕は思わず立ち止まったのだ。真っ暗な店と、入り口の張り紙を見て、ここの明かりがなくなるだけで、こんなにも暗いのかと驚いて。


「何故か悲しくなりました」

僕がそう言うと、先生は、静かにコーヒーを置いた。

「虚しくて、遣る瀬無い気持ちになりました。無性に泣きたくなりました。人って光がないと生きていけないんですね。コンビニがなくなっただけで、何を言ってるんだって感じですけど」


 誘蛾灯のようだと思った。僕たちはこんなものに縋って生きている。夏の果てのこんな夕焼けでさえ、僕たちを救ってはくれなかった。必要なのは身体に悪そうな蛍光灯の光だ。科学を信仰するだけの僕は、そんな自分をまざまざと見せつけられて、憂鬱になった。コンビニ灯は、まさしく僕たちの浅ましさの具現化だった。それでさえも、無くなってからしかそのことに気が付かない。


 そんなようなとりとめのないことを、独り言みたいにぼやいていると、突如、先生が立ち上がった。皺だらけのスラックスのポケットに手を入れた。出された手にライターが握られていたので、僕は小さく笑った。立ったままピースに火を点ける先生を見ていた。先生にはピースが似合う。先生は、この世界や僕らの心の平和についてなんか、ひとつも興味がないから。


 煙草の先で燃える赤を見て、ようやく部屋が暗くなっていることに気付いた。日が沈んだのだ。先生は座り、またソファに埋もれていった。だから僕も明かりを点けようとはしなかった。蛍のようにちらちらする煙草の火を見ていた。


 蛍になりたい、と思った。


「鳴かぬ蛍が身を焦がすって」

 綺麗事だ。蛾だって鳴かないのに、と言いかけて、やめた。煙草の火に燃やされる翅を想像した。先生が吐き出した煙が天井に上っていく。暗闇の中でぼんやりと揺れている。


「先生、」


 呼びかけると、目が合って、何を聞こうと思っていたか忘れてしまった。零れ落ちそうな灰が心配だった。

「先生は、人ごみ、嫌いですか」

口をついて出たのはそんなよくわからない質問だった。先生はノータイムで頷いた。灰は落ちなかった。

「コンビニも嫌いだ」

 先生はそう言った。

 



 ファミマの跡地にセブイレが建った。冬の真夜中だった。僕は立ち止まって、その毒みたいな光を見つめた。湧き上がる感情が何かわからず、ただその暴力的な動揺のまま、僕は「クソだ」と呟いた。呟いた瞬間鼻の奥がじりじりと痛んだので、慌てて上を向いた。

 真冬の京都の夜、陳腐なほど星空が綺麗だった。


 何もかも言葉でできてしまっている、と思った。先に生まれるのはいつも言葉ばかりで、プリミティブな感情はそこにはない。僕は、鳴くことさえできない。僕は、先生みたいにはなれない。


 誰もいない夜道を、蛍光灯が照らしている。

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鳴かぬ蛍とコンビニ灯 宮谷 空馬 @kuuma_M

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