第2部 第1話 日本
リビングのソファに、子供が丸まって寝ている。顔をうつ伏せにして、眠りに沈んでいるその姿は、まるで静かな時間がそのまま身体に流れ込んでいるかのようだ。隣に置かれたクリスマスツリーのライトが、薄暗い部屋の中でほんのりと輝いている。黄色い光が、ゆっくりとしたリズムでゆらめき、時間がここにあることを静かに知らせている。その周りには、何も急ぐことなく、ただ通り過ぎていくものたちの気配が漂っていた。
母親は、キッチンに立ったまま、時計を見つめている。まだ父親は帰ってこない。すこし長く感じるその時間に、何度も時計を見上げるたびに、その目の下に薄く疲れが浮かんでくる。だが、それ以上に彼女の心には、どこか安心したような、でも少しだけ空虚な気持ちが広がっていた。これでいいのだろうかと思う反面、きっとそうだと心の奥では感じている自分もいた。
窓の外を見れば、雪が細かく降り続いている。街灯が白く光り、雪はそれを反射して、ほんのりと淡い光を放っている。まるでこの町全体が、何か深い夢の中にいるようだ。風が木々を揺らす音も、どこか遠くで聞こえるだけで、家の中には何も外の音が入ってこない。エアコンがかすかに動いていて、温かい空気が部屋に満ちている。その温かさが、ひんやりとした外の空気と交じり合って、部屋の中を包み込んでいた。
母親は動かない。目の前にあるケーキを見つめながら、少しだけ手を休める。そのケーキは、子供のために作ったものだ。ほんのり甘いクリームに飾られた小さなチョコレートの飾りが、無邪気な笑顔のように輝いている。あまりにも小さな、それでいてどこか優しい気持ちを込めたケーキだ。それを前に、母親は何も言わずにただ目を閉じた。静かな空気が漂い、ケーキが無言でそこにあることを感じるだけだ。
時計の針が進む。まだ帰ってこない父親のことを、何度も何度も思い返す。外で何かが起きているわけではないのに、なぜか母親の心には浮き沈みがある。子供の寝顔は穏やかで、すぐにでも目を覚ましそうなその姿に、母親は微笑みながらも少し寂しさを感じる。子供の寝顔が、何かを語りかけているような気がした。しかしその言葉は、ただの夢の中でしかない。
冷たい風が窓を叩く音が、部屋に入ってきた。母親はその音に耳を傾けながら、立ち上がり、キッチンのテーブルに向かう。ケーキを少しだけ切り、そっと部屋の隅に置く。それから、エアコンの温度を少し上げ、子供の寝床を確かめるようにして、静かに戻っていく。母親の足音だけが、部屋に響く。深く静まり返ったその空間に、ひとしずくの温もりが少しずつ増えていくのがわかる。
外の雪はますます激しく降り、白い霧がかかったような街が広がる。夜の帳が下り、どこか遠くで車の音がかすかに響く。それに反応するように、部屋の中でも小さな音が聞こえる。電気が消える音、リビングの隅に落ちた小さな音、そしてキッチンから聞こえる母親の動きが、全てが一つのリズムを作っているかのように感じられた。
父親はまだ帰ってこない。母親は、そのことを心の片隅で気にしながらも、ただ目の前の小さな世界に集中している。リビングの空気が少しずつ変わり、やがて彼女の背中が少しだけ曲がり、目を閉じて深呼吸をした。
夜の静けさの中、父親はそっと玄関を開けた。外の冷たい風がほんの少しだけ入ってきて、ドアがきしんだ音がリビングの奥まで響く。彼は軽く息をつきながら、雪の降りしきる街の景色をちらりと見る。真っ白な雪が、ひっそりと道路を覆っている。
靴を脱ぎ、手袋を外しながら、部屋の中へと足を進める。リビングの中は思ったよりも静かだった。窓辺のカーテンがわずかに揺れ、外からの明かりが薄く部屋の中に漏れ込んでいる。暖房の音が心地よく響いていて、冷えた体をすぐに温めてくれるような感じがした。
静かな足音が玄関の方から聞こえてきた。ドアが静かに開き、ひとりの人影が入ってきた。帰宅した父親だ。母親は、その足音を聞き、軽くうなずいた。しかし、その時も言葉は交わさず、ただ静かな夜が続いていく。父親はそのまま、リビングに目を向け、ソファに眠っている子供を見つける。まるで何事もなかったかのように、そのままリビングに入ってきた。彼の動きは、どこか自然なものだった。
彼は少し息を呑んだ。リビングのソファに、子供が丸くなって寝ているのが見えた。毛布に包まれて、その小さな体はぐっすりと眠っている。いつもなら寝かせるべき時間には寝かせるという決まりを守るべきだと思いながらも、今夜はただそのままでいてほしいという子供の感情を心の中で感じていた。子供の寝顔は穏やかで、無防備で、どこか神聖なものを感じさせる。
暖房の音とともに、リビング全体が温かく、心地よい空間を作り出していた。空気がやわらかく、包み込むような暖かさが、まるで家全体を抱きしめているようだ。リビングの中央に立つ照明が、白く柔らかな光を放ち、部屋の隅々を照らしている。その光がソファの上に寝ている子供に優しく当たっているのが見える。
彼はふと足を止め、静かに部屋の中を見渡す。子供の寝顔を見ながら、何も言わずに、ただその穏やかなひとときを楽しんでいた。リビングの空気が、どこか静かな愛情を感じさせる。エアコンから流れる温かい風が、寒い外と家の中の温もりをしっかりと隔てているように、家の中は彼にとって安らげる場所であり、家族を守る大切な場所だと思える瞬間だった。
彼はエアコンを少し強くして、部屋の温度を少し上げる。子供が寝ている間に、少しでも暖かく、快適な空間を保つためだ。部屋の温もりが、子供の小さな体にしっかりと伝わり、寒さを感じることなく眠らせてあげたいと心から思った。
そうして彼は、リビングの空間に溶け込むように、そっと椅子に腰を下ろし、しばらくその静けさを楽しんだ。いつもならあまり意識しないが、今日はその空間がとても温かく、心に響くものがあった。これが、家族が集う場所なのだと思うと、不意に胸が温かくなった。
それから、ソファの横にある小さなクリスマスツリーを見上げた。わずかな電飾が輝いている。その灯りが、部屋の中でほんの少しだけきらきらと輝き、静かなクリスマスの夜を作り上げている。彼は深呼吸をして、再び静かな夜を感じながら、子供が眠るソファに目を向けた。
今は、何も急ぐ必要はない。家の中が静かで温かく、心が落ち着いていることが、何よりも大切だった。
父親は何も言わず、ソファに寝かせている子供の姿をしばらく見つめた。そこには、言葉が不要な静けさがあった。
母親はその様子を見ながら、ただ静かに、何も言わずに目を閉じた。部屋の空気が、ほんの少しだけ温かく、でも静かに流れていく。誰も言葉を発することはなく、ただその瞬間が続いていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます