第41話 休戦条約第三項 その1
俺たち二人の視線が同時に扉の方へ向く。そこには開け放たれた扉の前に仁王立ちしている、久遠夏月の姿があった。
「夏月……」
驚きと戸惑いの色が濃く表れる春葉。その彼女の元へ、夏月は恐れることなく歩み寄り、冷静な表情でその手を叩き落とした。
ナイフは床に弾け飛び、カランカランと音を立てて転がり、静止する。
「どうしてここに……夏月が……」
春葉のか細い声。その問いに、夏月は鬼の形相で応じた。
「冬也の前で自分の最期を迎えたい、その気持ちはわからなくもない。でもね、春葉。そんな選択は最低最悪よ。冬也を愛している女として、絶対に許すわけにはいかないわ」
春葉は息を呑むように沈黙し、夏月をじっと見つめていた。しかし夏月はそのまま言葉を続ける。
「ここに来られたのは葵たちのおかげよ。あなたが冬也を連れ出している間、みんなで必死に探していた。あなたたちがこのホテルに入ったという目撃証言を頼りに、オーナーに事情を話して鍵を借りたの」
夏月の姿は制服姿のままで、全身が雨でびしょ濡れだ。その瞳には怒りと決意が宿っている。
「女として覚悟を決めた、なんて言えば聞こえはいいけどね。現実が辛くて逃げたいだけならまだしも、冬也を巻き込もうとするなんて最低だわ。自分のエゴを通すために他人を傷つける姿勢だけは、どうしても許せない」
夏月の強い言葉に、春葉はようやく口を開いた。その声は震えながらも反撃の色を帯びている。
「……それなら、夏月はどうなのよ! 偽物の彼氏まで用意して冬也君に近づいたのは卑怯じゃない! 私が堂々と付き合えないのをいいことに、少しずつ冬也君の心に入り込んで……それって卑怯じゃないの!?」
春葉の訴えにも、夏月は一歩も引かない。
「卑怯だって? その通りよ。でもね、春葉。私は冬也には一切迷惑をかけていないわ。すべてはあなたとの勝負に勝つための戦略だった。それがあの『条約』の意味でしょ?」
「条約なんて、そんな……!」
「あなたと冬也の関係に口を挟まない代わりに、私も全力を尽くす。それが取り決めだったはずよ」
その正論に春葉は感情を露わにし、叫び声を上げる。
「私がどれだけ辛かったか、夏月にはわからない!」
「わからないわね。でもね、春葉。辛さを理由に、冬也を犠牲にしていいわけがない!」
夏月がきっぱりと言い放つと、春葉は怒りを抑えきれず、彼女の頬を張った。
パシンッ――。
一瞬の静寂の後、夏月も春葉の頬を張り返す。
パシンッ、パシンッ――。
二人は激しく張り合い、ついには取っ組み合いの喧嘩に発展した。床を転げ回り、殴り合い、服は乱れ、春葉のバスタオルは外れて真っ裸に、夏月の制服はずぶ濡れでぐしゃぐしゃだ。
「冬也君は私のものよ! 夏月はなんでも持ってるじゃない! 温かい家庭も、自由も、友達も……。好きな人くらい私に譲ってよ!」
「自分の感情を抑えられないで冬也を傷つけるような人に、絶対に渡さない!」
乱闘は続き、二人の想いは激しくぶつかり合う。彼女たちの叫びが空気を震わせる中、俺はただ彼女たちを止める術を探していた――。
「私は夏月よりも冬也君が好き!」
「私は春葉より冬也を大切にしているという確信がある!」
ああそうか、と腑に落ちたことがあった。
俺は間違っていた。本当に間違っていたと自覚する。というか、侮っていた。春葉のことも夏月のことも。
二人とも、浮気とか仮のお試しなんかじゃない。本気で命がけの恋愛を、俺としたいと思っていたのだ。
これはよくあるライトノベルのいちゃいちゃラブコメだと思っていたが、実際はどろどろのヒューマンドラマだったのだ。
ならば俺が決めなくてはならない。春葉も夏月も自分からは引かないだろう。本気で俺が向き合って選択しなければ、二人の争いは止まらない。
そこまで考えて、俺は床上の二人に向かって大声を出した。
「やめてくれ!」
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