第一章 4-1 エルディアーナの涙

       * 4 *



 結局明日の分までと思ってつくったカレーは、お袋とエルが競うように食べたために、すっかりなくなってしまっていた。

 千夜とソフィアが自分の家に帰り、軽くシャワーを浴びた後のお袋に今日あったことをひと通り説明をし、エルもまた当分この家で暮らすことを了承した。


「はぁ。今日はいろんなことがあったな」


 さらにお酒を飲んだお袋はさっさと寝室に引っ込み、エルのために客間を軽く掃除をした後、自分の部屋に入ってやっとひと息吐くことができた俺は、今日あったことを思い出していた。


 リアライズプリンタの到着と、戦乙女エルディアーナのリアライズ、さらに俺と同じようにリアライズプリンタを手に入れていた千夜がリアライズしたソフィアに彼女の上書きリアライズ、お袋の不意の帰宅とエルとの同居決定。


 今日一日だけでどれだけのことがあったのかと思ってしまうほどだった。

 その上現実だとわかっているのに、現実感がないことばかりが起こっていた。

 明日起きたら全部なかったことになっていても、夢だと信じられるほどに。


「でも、夢じゃないからな……」


 見ていたエルの表情を、全部思い出すことができる。

 マンガに描いていた以上に表情豊かな顔の、今日見てきたすべてを。

 それに彼女に触ったときの、柔らかくも気持ちのいい感触も――。


「お風呂が空いた」

「ひょっ」


 ノックと同時に扉が開けられて、俺は奇妙な悲鳴を上げてしまっていた。


「……わ、わかった。後で俺も入る」

「湯が冷める前に入った方がいいだろう」


 お袋が早速引っ張り出してきたピンク色のパジャマにカーディガンを重ねるエルは、ちらりと見ると何かを考え込むように扉のところに立っていた。

 しばらく考え込んでいたらしい彼女は、思い切って顔を上げ、声をかけてくる。


「少し、貴方と話がしたい。大丈夫か?」

「……うん。わかった」


 答えて俺はハンガーにかけておいた上着とコートを取って、コートの方をエルに渡してやる。

 壁は決して薄くないし、本が詰まった棚もあるから大丈夫だとは思うが、隣はお袋が寝ている寝室だ。これからどんな話をどんなテンションでするのかわからない以上は、あまり聞かれない方がいいような気がした。


 廊下の突き当たりからベランダに出て、千夜の家に面した家の裏側まで歩く。

 夜になって息が白くなる中で、俺はベランダの突き当たりの柵に身体を預けて、難しい顔をして足下を見つめているエルの言葉を待つ。


「わたしは……」


 顔を上げたエルの碧い瞳は、揺れているように見えた。

 そんな彼女の姿も、やはり美しい。

 夜に染まり暗くなったベランダで、遠くの街灯に煌めく金色の髪は、微かな風になびき、大きめのパジャマの上からでもわかる胸の膨らみを握った右手で押さえ、苦悩に表情を歪ませていても、エルディアーナは美しい戦乙女だ。

 自分が描いていた女の子のはずなのに、自分の知らない女の子ような、そんな印象のある彼女。


「わたしは知りたくなかった……。今日一日で、わたしはたくさんのことを知ってしまった。貴方の想像上の存在であったことも、わたしの目的も、旅も、物語の中の事柄でしかなかったことを」

 三歩あった距離を一歩詰め、彼女は言う。


「わたしには確かにあの世界で生きて、旅をして、戦ってきた記憶があるのに、あの世界で出会った人々が、失ってしまった我が魂の伴侶がいた記憶があるのに、すべてが……、すべてが嘘だった」

 唇を震わせ、涙に瞳を揺らしながら、彼女は言う。


「貴方の言う通り、すべては貴方の創作だったことがいまならわかる。絶対に途切れることのないヴァルハラとの交信もできず、貴方の読ませてくれた本の中に、確かにわたしがいた……。そしてわたしは、あの世界に帰ることもできない」

 零れそうになっている涙を見せないためにか、首を振り、彼女は俯いて顔を隠す。


 その拍子に飛び散った涙が街灯の光を受けてきらきら輝いて落ちる様子すらも、俺には美しく見えていた。

 けれど俺は、そんな彼女に返す言葉がない。


 元々高校以外は引きこもりがちで、クラスでもオタクと言われて孤立している俺は、あまり話すのが得意な方じゃない。

 彼女に返すべき言葉は、頭の中にイメージできても、それを口にすることができない。


「わたしの存在は、この世界では無意味だ。存在している価値すらない。戦うべき巨人族やその眷属はおらず、我らが神族もおらず、求めるべき英雄も、魂の伴侶もおそらくはこの平和な世界にはいない……」


 マンガの中で俺は戦乙女を、勇者の魂をヴァルハラへ誘う役を担う者として描いていた。

 戦乙女の原点である北欧神話で、ヴァルキリーは多くの英雄の魂をヴァルハラに連れて行っていることになっているが、俺はそれを変更して、ただひとりの勇者を求める存在として、勇者との出会いを結婚に見立てて、魂の伴侶を求める存在として、エルディアーナを描いていた。


 割と平和で、神話のように神や巨人がいなく、神話のような戦いも起こらないこの世界では、確かにエルの言う通り、戦乙女の存在は無意味だ。

 彼女をリアライズすると言うことは、彼女の存在意義を、生きる意味を奪うことになると、俺はわかっていた。


「何故、貴方はわたしをこの世界に喚びだしたのだっ。わたしを生み出した貴方ならば、それがわたしの存在を無意味にすることだとわかっていただろう! それなのに、それなのに何故! わたしを喚び出したのだ……」


 大きく一歩俺に近づいてきたエルは、両手で俺の上着をつかむ。

 もう抑えることのできない涙が、俯いた彼女の顔から滴り落ちていた。


「それは……」

 何か言おうと考えていて、でも思うように言葉にならない。

 マンガの中で描いたことがないほど打ちひしがれているエルは、俺の胸に額を着けて泣く。


「わたしは出会いたかったのだ、魂の伴侶に。我が勇者に。あの人を失ってなお消えない想いを打ち消してくれるほどの者に。それなのに、それなのに……、貴方はすべてを無にしてしまった。いまさらあの世界に帰れたとしても、わたしは今日知ってしまったことを忘れることはできない。わたしは、わたしはどうすればいいのだ……」


 肩を震わせているエルを慰めてやることもできなくて、思っていた以上に細い肩を抱いてやることもできず、俺はただ立ち尽くす。

 慰めの言葉も、抱き締めてやることも、いまの彼女には何の役にも立たない。それがわかっている俺は、彼女にやっと思いついた言葉を言う。


「……だったら、この世界で勇者を探してみるのは、どうかな?」

「それに、何の意味がある」


 手で涙を拭ったエルが顔を上げて言う。

 涙はどうにか止まったみたいだが、悲しみに揺れる碧い瞳はいまも変わらない。


「えぇっと……、巨人族との戦いのためとか、神に与えられた使命ってこともあったと思うけど、勇者を、魂の伴侶を求めるのは、エル自身の願いでもあったんじゃないか、と思うんだけど……」

「それは確かにそうだが」

「設定した俺だからわかるんだけど、魂の伴侶ってのは、好きな人を探すのに近い。好きになって、結婚相手を探すのに近い。あの世界での勇者とは意味が違ってくるけど、好きで、一緒にいたいと思える相手を探すのは、エルにとって無意味ではない、と思う……」


 俺が言ってる間に涙はすっかり止まり、驚いたような表情になるエル。

 俺から視線を外して、しばらくの間考え込むように俯いた彼女は、口元に微かな笑みを浮かべた。


「……そうだな。それもまた、よいかも知れない」

「うん」

「わたしはまだこの世界のことをよく知らない。すでに貴方の母上には良いと言われているが、しばらくの間この家に厄介になっても構わないだろうか?」

「それは……、もちろん」

「そうか。ならば、わたしがこの家を出る決心がつくまで、お願いしたい」


 上着をつかんでいた手を離し、一歩距離を離したエルは、深々と頭を下げる。

「こちらこそ、これからよろしく」


 戦乙女エルディアーナが強いことは知っていた。

 戦士としての強さだけでなく、心の強さも充分以上であることを。

 だからこそ、放浪の戦乙女の第一部のラストで、一度は出会った魂の伴侶を失っても、立ち上がることができたのだ。

 どんな風に言ったらいいのか、うまく思いつけるか不安だったが、俺は言葉選びに成功したらしい。


「しかしもし、昼間のような不埒なことをしたときには、容赦なく叩き斬るがな」

 冷たく鋭い視線を向けてくるエルに恐怖を感じて身を竦めてしまうが、そんな俺の様子を見て彼女は笑みを浮かべる。


 そんな彼女の表情が、一瞬して曇った。

「どうかした?」

「何か、おかしな気配が……」

 眉間にシワを寄せ、何かを探るように目を細めるエル。


「悪意か殺意か……。何かそうした禍々しい気配を持った者が近くにいる。それもこの気配は、人のものとは思えない……。魔神の力に似ている」

「いったい何なんだ?」


 そうエルに問うたとき、ズボンのポケットの中に入れておいた携帯端末が震え出した。

 取り出して見ると、千夜からの通話着信。


「どうしたんだ? 千夜」

『ソフィアが人間じゃないヘンなものの大きなエネルギーと、女の人の悲鳴を感知したって言ってるんだけど。なんか急いだ方がいいみたい』

「……わかった。すぐに家の前まで来てくれ」

 通話を切って、エルに向き直る。


「行こう、エル」

「えぇ」


 脱いだコートを俺に手渡したエルは光をまとい、パジャマ姿から普段着スタイルへと服装を変化させる。俺はすぐにやってくるだろう千夜と落ち合うためにベランダから中に入って玄関へと向かった。

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