坂本さかもと菜々ななと俺は、同じ高校出身の元クラスメートだった。

 高校時代の菜々はおっとりとしたおとなしい雰囲気の子で、クラスの賑やかグループにいた俺とはあまり関わりがなかった。そんな菜々と俺が関わるようになったのは、大学入学後に学部ごとで行われたオリエンテーションのとき。

 地元を離れて進学した東京の大学は、あたりまえだけど知らない顔ばかりで。そのなかに偶然菜々の姿を見つけた俺は、見知った顔にほっとして彼女に声をかけた。

 知らない人ばかりで心細かったのは菜々も同じだったらしい。俺の顔を見た瞬間、彼女もほっとしたように笑顔をみせた。それが、俺と菜々が親しくなったキッカケ。

 地元を離れてお互いに大学の近くで下宿生活をしていた俺たちは、ときどき一緒にごはんを食べに行くようになった。

 菜々は優しくていい子で、彼女といっしょにいると自然と心が癒された。

 菜々と仲良くなってから、彼女を「好きだ」と思うようになるまで、それほど時間はかからなかった。

 ふたりでごはんを食べに行った帰り道、ドキドキしてヘタクソな言葉でしか伝えられなかった「好き」の気持ちを、菜々は恥ずかしそうに笑いながら受け入れてくれた。

 菜々と付き合うまでの俺は、彼女ができても長続きしないことが多かった。ケンカばかりしてうまくいかなかったり、付き合いだすとお互いに気持ちが冷めてしまったり……。

 だけど、穏やかな性格の菜々とはほとんどケンカをすることはなくて。一緒にいればいるほど菜々を好きだと思う気持ちは大きくなった。

 俺の話を、いつもにこにこと楽しそうに聞いてくれる菜々はかわいかったし。バイトのあとに疲れて家に行くと、ミルクと砂糖がたっぷりのカフェオレを淹れて出迎えてくれる菜々の優しさが愛おしかった。

 漠然とだけど、大学を卒業して就職したら一緒に住みたいなんていう話もしていた。

 俺と菜々は、うまくいっていたと思う。

 そんな彼女との関係に綻びが生まれたのは、俺の20歳の誕生日。

 授業が終わったあとに菜々が俺の家でお祝いをしてくれるはずだったのが、彼女のバイト先で急な欠員が出て、シフトに入らなければいけなくなった。

 菜々も最初は予定があるからと渋ったみたいだが、「どうしても人手が足りない」と店長に頼み込まれて、最終的に断れなかったらしい。

 菜々は「必ず埋め合わせするから」と、何度も謝ってくれた。仕方がないとは思ったけど、俺はちょっとだけ不満だった。

 授業が終わったあと、不貞腐れた気持ちで帰ろうとしていたら、学部のゼミの仲間たちから家飲みに誘われた。

 20歳になって初めての飲み会。誕生日に菜々と一緒に過ごせなくなった淋しさと、気心の知れた友達の家での宅飲みだったこととが相まって、気が緩んで、ペースも考えずにお酒を飲んだ。

 気が付けば終電の時間が迫っていて。俺を含めた何人かは、飲み場所を提供してくれた友達の家に泊めてもらった。

 早朝、目覚めてスマホを見ると、菜々からラインが届いていた。


『お誕生日おめでとう。今日はごめんね……』


 急いで家に帰ると、冷蔵庫に手作りっぽいホールケーキが入っていた。


『洸希へ。お誕生日おめでとう。食べきれなかったら捨ててね』


 ケーキの箱に添えられていたのは、菜々の手書きのメッセージ。

 事前に作っていたのだろうか。

 俺との約束を守れなかったことを気にして、バイトのあとにケーキを持って会いに来てくれたのかもしれない。

 シンク横の食器置きには、菜々がコーヒー飲むために使ったらしいマグカップが洗って立てかけてある。

 バイトのあと家に来た菜々は、どれくらい待ってくれていたんだろう……。

 友達の家で不貞腐れて酔い潰れていた俺は、昨夜帰宅しなかったことを後悔した。

 すぐに電話をかけたけど、菜々は出なかった。

 大学で会ったら、謝ってお礼を言わないと……。

 菜々が冷蔵庫に入れて置いてくれたケーキは、大学に行く前に四分の一ほど食べた。

 二日酔いで胃の中が若干気持ち悪かったけど、菜々のケーキは今まで食べた誕生日ケーキの中で一番美味かった。

 その日、二限目の授業をサボって三限目から大学に行くと、同じ授業をとっているはずの菜々が講義室にいなかった。大学に来るまでに何度かラインも入れているのに、既読にはなっても返事がない。

 どこにいるんだろう。

 スマホを気にしつつ空いている席に座ると、同じ学部の高本が横に座って話しかけてきた。


「なあ、コウキ。おまえ、あの写真なに?」

「写真?」

「学部内でちょっと話題になってたよ。コウキがついに、カナエに落ちたって」

「はあ……?」

「ほら、これ」


 高本がスマホを操作して、俺に見せてくる。気怠げに隣に視線を向けた俺は、画面に表示されたSNSの投稿に真っ青になった。


「は、なにこれ……」

「なにこれ、って。コウキだろ」


『コウキ、20歳おめでと〜♡』


 そんな投稿文とともにSNSにアップされていたのは、同じゼミのカナエとの自撮りっぽいツーショット。もちろん、投稿者はカナエだ。

 ツーショットのあとには、酔い潰れて眠った俺の顔のアップの写真まで投稿されていて。

『寝顔、かわい〜』と、あらぬ誤解を受けそうな一言が添えられている。

 同じゼミのカナエは派手目の美人で、いろんな男と遊びまくってるらしいというウワサのある女の子だった。

 カナエは、なぜかゼミのメンバーの中でも俺のことが気に入っているらしく……。これまでにも何度か「ふたりでごはん行こうよ」と誘われ、その度に「ふたりはムリだ」と断っていた。

 菜々に誤解をされたくないし、カナエと接するときは気をつけていたつもりだった。

 だけど昨日の夜の家飲みに、カナエは途中から参加してきて。いつもすごく気をつけているのに、酔っ払ったノリで一緒に写真を撮ってしまった。

 だけど、彼女と絡んだのはそれだけだ。


「酔っ払って、浮気しちゃったか?」


 SNSの投稿を見て固まる俺に、高本が苦笑いで聞いてくる。


「んなわけ……。この投稿の仕方だと、ふたりきりみたいだけど、ゼミのメンバー8人くらいで中田ん家で飲んでたんだよ。カナエちゃんは、終電前には中田に送られて帰ったと思う」


 途中から寝てしまって記憶が曖昧だけど、俺が早朝目覚めたときに、既にカナエはいなかった。

 俺の話を聞いた高本は、俺の前からスマホを退けながら微妙そうに眉をしかめた。


「それ、ちゃんと菜々ちゃんに事情説明してる?」

「え、ああ……。いや」


 言葉を濁すと、高本がますます微妙な顔になる。


「それはまずいかもな。二限の授業の前、菜々ちゃん泣いてたよ」

「え、菜々、今どこ?」

「さあ? 二限始まる前に、友達の女の子ふたりくらいと連れ立って、講義室出てっけど。カフェテリアとか医務室……? もしかしたら、帰って――」


 俺は高本が最後まで話し終わる前に、立ち上がっていた。

 講義室を飛び出して向かったのは、社会学部の棟から一番近くにあるカフェテリア。菜々は、仲のいい友達と三人でそこにいた。


「菜々」


 駆け込んできた俺を見て驚いたように目を見開いた菜々は、もう泣いてはいなかった。だけど……。


「あ、洸希。ごめんね……、ラインの返事してなくて……」


 そう言って笑った菜々の目は赤くなっていた。


「菜々、そんなことより、もっと言ってやることあるでしょう」


 菜々の友達ふたりが、怖い顔で俺を睨んでくる。


「菜々、ごめん……。あれ、誤解だから……」


 額が膝にくっつきそうなくらい腰を折り曲げて、謝り倒すと、菜々は「わかった……」と笑ってくれた。

 菜々は許してくれたけど、友達ふたりは彼女以上に怒っていて。「次はない」と、鬼の形相でクギを刺された。

 そういうことがあったから、二ヶ月後の菜々の20歳の誕生日はちゃんとするつもりだった。

 夜景の見えるレストランを調べて予約して、指輪をプレゼントするために、平日も土日も、バイトをたくさん入れてお金を貯めた。

 その分、菜々と会える時間は減ってしまったけど、彼女に喜んでもらいたくて頑張った。

 それなのに……。俺の20歳の誕生日以降、菜々の笑顔は少しずつ減っていった。

 一緒にいても、無表情だったり悲しそうな顔をするようになって。俺の話にも、愛想笑いでしか応えてくれなくなった。

 菜々には笑っていてほしい。そう思っているのに、彼女の悲しい顔を見る度に、胸に少しずつ不安が募る。

 それでも、彼女の20歳の誕生日にはきっと以前のような笑顔が取り戻せるはず。そう信じて、俺は日々バイトに励んだ。

 そうしてやってきた、菜々の20歳の誕生日。

 夕方6時に迎えに行くと約束していたのに、菜々は昼の12時前に、俺の住むマンションのエントランス前で待っていた。


「なにしてんの、こんなとこで。夕方迎えに行くって約束したよな」


 配達のバイトに向かう予定だった俺は、驚いたし、ちょっと焦ってもいた。

 早口でそう言うと、菜々が泣きそうな目で見つめてくる。


「ごめん。今日の約束、キャンセルしてほしい」

「え?」

「洸希、別れよう……」

「え、急に何言って……」

「最近ね、ずっと不安なんだ。離れているときや会えない時間、洸希はどこで何してるんだろうって。洸希が私を好きでいてくれてるってことはわかってるのに、あのことがあってから、洸希のことを前みたいに信じきれなくて……。洸希のことを一ミリでも疑ってしまう自分が嫌だ……」

「菜々……」


 菜々の言葉に、ショックを受ける。

 カナエに写真を撮られたあの日のことを、菜々はもう許してくれていると思っていた。

 だけど、許されたと思っていたのは俺の勘違いだったのか……?


「ごめんね、洸希。今日の夕方は、もう迎えに来なくていいよ。今までありがとう……」


 よく見ると、泣きそうに笑う菜々の首元にはいつもつけてくれていたネックレスがない。それは、彼女の手の中に握りしめられていて……。

「さよなら」の言葉とともに、俺の手のひらの上に落とされた。



 バイトを終えて帰宅した俺は、ワンルームの部屋のベッドに腰かけると深いため息を吐いた。

 ポケットの中には、佐藤菜々が拾ってくれたネックレス。テレビの横の棚には、白い箱に赤のリボンがかかった指輪のケース。

 これ、どうするかな……。

 菜々にフラれてお役御免となったネックレスと指輪。それらの処分に困っていると、高本からラインが入った。


『洸希、菜々ちゃんと別れたの? 他学部の友達が来週行く合コンメンバーに菜々ちゃんがいるって言ってるけど』


「は?」


 ショックと、怒りと、悲しさと。いろんな感情がごちゃ混ぜになった声が出た。

 合コンてなんだよ。俺と別れたから、新しい相手を探すのか……?

 何かの間違いであってほしい……。

 でもほんとうは、俺のこと信じきれないなんて言っておいて、菜々だって裏切っていたのかもしれない。

 立ち上がると、テレビ横の棚に置いた指輪のケースを力任せにつかむ。

 それをゴミ箱に投げ込んだあと、ポケットに入れたネックレスを引っ張り出した。そのままゴミ箱に捨ててしまおうとしたとき、なぜか、配達先で出会った女の人の言葉が耳に蘇る。


『持ち主に返してあげてほしい。もしかしたら、後悔してるかもしれないから』


 佐藤菜々の言葉を思い出しながら、俺はネックレスをぎゅっと握りしめた。

 後悔しているのは、菜々じゃない。

 カナエのことで誤解されたときも、菜々から「別れよう」と言われたときも、俺はもっと必死になるべきだった。何があってもいつも笑って許してくれる菜々の優しさに甘えていてはダメだった。

 ほんとうに後悔してるのは、泣きそうな顔で別れを告げてきた菜々を引き止められなかった自分だ。

 もう間に合わないかもしれないけど……。

 俺は菜々との関係を、このままで終わらせたくない。

 ゴミ箱の指輪のケースを拾い上げると、ネックレスとともにズボンのポケットにねじ込む。そうして、部屋を飛び出した。

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