今日という日に同じ世界で

月ヶ瀬 杏

 最後の配達先に届けるのは、薔薇にピンク系の花をまとめたブーケだった。

 白とピンクのラッピングペーパーに包まれたブーケを届けるお客様の名前は、佐藤さとう菜々なな

 普段は事務的に確認するだけの送り状。そこに書かれた名前が目についたのは、《菜々》というのが、今朝別れを告げられたばかりの彼女と同じだったからだ。それも、漢字まで。

 もっというと、俺の名字は《佐藤》で。

 もし俺が彼女と別れずに結婚できたら、あの子は《佐藤 菜々》になったんだよな……、なんて。ひどくくだらないことを考えた。

 佐藤なんて名字はありふれてるし、菜々という名前も決して珍しくはない。お届け物のブーケを抱え直すと、俺は気を取り直して、オートロック式のマンションのインターホンの呼び出しボタンを押した。

 しばらく待っていると、「はーい」と女性の声が聞こえてくる。


「お荷物をお届けにあがりました」


 お届け先のインターホンのカメラにドアップに写りすぎないように一歩下がると、普段よりもワントーン明るいよそ行きの声で挨拶する。


「どうぞ〜」


 エントランスのドアロックが解除されると、ブーケを抱え直してマンションの中に足を踏み入れる。正面のエレベーターに乗り込むと、俺は佐藤菜々さんの部屋がある五階に向かった。

 玄関の前で部屋番号を確認してから、インターホンを押す。


「はーい」


 廊下をパタパタと歩く音が近付いてきて、玄関のドアが半分ほど開く。

 片腕に小さな男の子を抱いて出てきたのは、三十歳前後とおぼしき女性で。俺を見た瞬間、驚いたように目を見開いた。


「わあ……」


 感嘆の声を漏らした彼女が、俺の手元のブーケに気付いてぱぁーっと笑顔になる。あまりに嬉しそうな彼女の反応に、なぜか俺の胸が騒いだ。

 髪を無造作に後ろでひとまとめにし、シンプルなTシャツに細身の黒のパンツというラフな格好をしている彼女は、特別美人というわけではない。けれど、明るい笑顔の、不思議と目を惹く人だ。


「佐藤菜々様で、お間違いないでしょうか」


 送り状を見せると、ピンクのブーケに目を奪われていた彼女が、視線をあげてわずかに目を細めた。


「ああ、すみません。間違いないです。サプライズでこんなことされたの初めてだから、驚いちゃって」


 唇の端を引き上げた佐藤菜々が、溢れ出してくる喜びを抑えきれないといったふうに、ふふっと笑った。不思議そうな顔の俺を見て、彼女がまたふふっと笑う。


「これ、主人からで。実は今日、私の誕生日なんです」


 幸せそうに笑う彼女の言葉が、俺の胸をチクリと刺した。

 配達先で、お客様からこんなふうに話しかけられることはときどきある。たいていの場合、営業スマイルでサラッと流してしまうのだけど……。


「そう、ですか……。おめでとうございます……」


 今日に限ってはうまく笑えず、少し暗い声が出た。

 今日という日に、世界には、俺みたいに恋人からフラれる可哀想なやつもいれば、妻の誕生日にサプライズで花を贈るような幸せなやつもいるんだな……。

 妬みを含んだ複雑な気持ちで届け物のブーケを渡す俺に、佐藤菜々は感謝の言葉とともに、優しいまなざしを向けてきた。

 誕生日のサプライズブーケなんかで奥さんにこんなにも優しい表情かおをさせられる旦那は、どんな男なんだろう。

 ふと、最近は泣きそうな顔ばかりさせていた彼女のことを思い出して、幸せそうな夫婦が羨ましくなった。

 だが、お客様の前で私情を挟んでいる場合じゃない。


「ここに、サインを……」


 佐藤菜々の視線を避けるように少しうつむくと、事務的に送り状を差し出す。


「ああ、そうか。印鑑……、ちょっと待ってください」

「まぁま〜」

「はあい、ちょっと待ってね」


 ちょっとぐずり始めた子どもとブーケ子どもを抱いた彼女が、部屋の中へと戻っていこうとする。


「あ、俺、ペン持ってます」


 佐藤菜々の背中に声をかけながら、ズボンのポケットに手を突っ込む。ボールペンをつかんだ指先が、そこに一緒に入れてあったネックレスのチェーンに触れる。

 俺はギュッと奥歯を噛み締めると、ポケットからボールペンだけを抜き取って、佐藤菜々に手渡した。


「ありがとう」


 俺からボールペンを受け取った彼女は、左腕に子どもを抱っこしたまま、右手でさらっとサインを書いた。

 ペンを持つ彼女の右手の薬指には、透かしのハートを横にいくつか連ねたピンクゴールドの指輪が嵌っている。結婚指輪にしてはカジュアルだし、三十代の女性がつけるにしては少しデザインが子どもっぽく見えなくもない。だけどそれは、俺が別れた恋人の誕生日にプレゼントで渡そうと思っていた指輪とデザインがよく似ていた。

 佐藤菜々の手元をぼんやり見ていると「あの、書けました」と、彼女がボールペンを差し出してくる。


「あ、ありがとうございます。それでは、失礼します」


 佐藤菜々に不思議そうな顔で見つめられた俺は、慌ててボールペンをひったくるように奪い取ってポケットにしまう。それから、彼女に背を向けた。


「あの、ちょっと待ってください……!」


 早足でエレベーターのほうに歩いていると、佐藤菜々が子どもを抱いたまま追いかけてきた。


「これ、落としましたよ」


 佐藤菜々が差し出したのは、俺がズボンのポケットに入れていたはずのネックレスだった。

 ポケットからボールペンを出したときに落としたのだろうか。

 ピンクゴールドの小さなハートのモチーフがついたそれは、俺が一年前の恋人の誕生日にプレゼントしたものだ。

 そんなに高価なものではないけれど、彼女はすごく喜んで、とても大切にしてくれていた。ほとんど毎日、肌身離さずつけてくれていたんじゃないかと思う。

 そんな思い出のあるネックレスを、彼女は別れ話を切り出したあとに俺に返してきた。

 彼女のほうから俺をフってきたくせに「持ってると、つらいから……」と、泣きそうな声で言われた。

 別れ話をされたのもネックレスを返されたのも、バイトに出かける直前のことで。すぐに理解が追いつかず、俺は返されたネックレスをとりあえずズボンのポケットに突っ込んだ。

 バイトが終わったら、処分の方法を考えなければ……。

 そう思っていたものを、わざわざ拾って届けてくれなくてもよかったのに――。


「ありがとうございます。でも、別に失くしたってかまわないんです。それはもう、誰のものでもないので……」


 自嘲気味に笑うと、佐藤菜々が悲しそうな目で俺を見てくる。


「ほんとうに、失くしてもかまわないもの?」

「はい……」

「そうかな。私は、これを持ち主に返してあげてほしい。もしかしたら、後悔してるかもしれないから」

「はあ……」


 佐藤菜々が、俺の手にちょっと強引にネックレスをねじ込ませてくる。

 後悔なんて、してるはずがない。

 別れた彼女は、わざわざ俺がバイトに出かける直前に自宅までやってきて、ほとんど一方的に別れ話をして、ネックレスを突き返してきたのだ。

 俺は茫然とするばかりで、去って行く彼女を引き止めることもできなかった。そんな彼女に、今さらどんな顔をしてネックレスを渡せというのだろう。

 自分たちは幸せで夫婦仲がうまくいっているからといって、他人にまで余計な世話を焼かないでほしい。

 複雑な想いでネックレスを握りしめると、佐藤菜々に抱かれていた男の子が俺に向かって小さな手を伸ばしてきた。


「ぱっぱあ?」


 俺のことを父親と間違えているのか……。それとも、偶然に出た言葉なのか。

 男の子は佐藤菜々に抱かれているくせに、なぜか俺に抱っこをねだるように両手を伸ばしてくる。戸惑いを隠せずにいると、佐藤菜々がふふっと笑って男の子を抱え直した。


「パパはまだお仕事中だよ」

「おちごと?」

「そう、お仕事。だけど、今日は少し早く帰ってくるって。ママのお誕生日だからね」


 男の子をあやして微笑む佐藤菜々の顔が、ふと、別れた彼女に重なる。

 あの子も、今日が誕生日だったのにな……。

 ほんとうだったら、バイトが終わったあと彼女と待ち合わせをして、予約していたオシャレなイタリアンレストランでディナーを食べて、指輪をプレゼントするつもりだった。ちょうど、佐藤菜々が右手の薬指にはつけているのとよく似たデザインの……。

 でも、世界は俺の思ったとおりには回らない。

 佐藤菜々が家族で幸せな誕生日を過ごす今日は、俺にとって恋人に振られた最悪な日だ。

 俺は佐藤菜々と男の子に向かって頭を下げると、今度こそエレベーターのほうに向かった。

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