第1話 お金がない(1)
ノックの音で目が覚めた。
ルミナは重々しく上体を起こすと、まぶたを擦った。カーテンを透かして日の光が差し込んでいる。もう昼に近いようだ。
嫌な夢を見た。人生最悪の思い出の夢だ。まどろみに紛れて夢の中から暴風雨が追いかけてくるような気がして、ルミナは頭を振って覚醒に努めた。
「ごめんください。いらっしゃいませんか?」
ノックは尚も続いていた。さらに呼びかける男性の声も加わる。知らぬ来客なら居留守を決め込むつもりだったが、声の主はこの借家の大家だったので無視するわけにはいかない。ルミナは渋々立ち上がった。
「はい」
覇気の無い声と共にノロノロと扉を開けると、老齢の男性がにこやかな顔を見せた。そこでルミナは自分が寝間着のままであることに気づいたが、今更どうしようもなかった。近頃、どんどん身の回りのことに気が回らなくなっている。
「ああ、よかった。いらっしゃいましたか。こんにちは」
「こんにちは。どうかされましたか?」
「今月分の家賃がまだでしたので」
「ああ……」
すっかり忘れていた。
ルミナは部屋へ戻ると、棚の奥から銭袋を取り出して紐を解いた。
「あー……」
足りる。が、ギリギリ今月分までだった。とりあえず今の支払いと今日明日の食事くらいは何とかなりそうだが、これは大問題だ。
「はい。すみません遅れて」
「いえいえ。では失礼」
支払いを済ませて大家を見送った後も、ルミナはしばらく扉の前でぼうっとしていた。これからどうしようか。眠い頭で考えても答えは出なかった。
重い足取りで部屋へ戻る。ベッド脇の机に置かれたお守り袋が目に入った。小さな巾着袋に首掛け紐を付けた物だ。
「とりあえず、なんか食べるか」
ルミナは着替えを済ませ、お守り袋を首に提げると、軽い銭袋を掴んで家を出た。
*
行きつけの食事処『枯れ木亭』は半分以上の席が空いていた。昼のかきいれ時に、領都のど真ん中という立地でありながら満席とならないのは、ここが目抜き通りから一つ外れた細道にあるからだろう。しかし、決して味が悪い店ではない。日当たりには少々難があるが、店内には十分な魔術ランプが設えられており、明かりに不便はない。
ルミナはこの店の程よい客入りが好きだ。ごみごみとした表の人気店はどうも肌に合わない。
隅の空席に着くと、顔馴染みの店員が近寄ってきた。
「いらっしゃい、ルミナ。いつものでいい?」
ルミナと同じ十八歳の女性で、名前はセラという。ここの店主の娘だ。子供の頃からずっと店を手伝っていると聞いていた。
「うん。あ、ごめん。今日は卵無しで」
「ん? 珍しいね」
「ちょっと、今持ち合わせが」
苦笑いとともに言う。
いつもはパンと豆のスープ、それに卵料理の組み合わせで頼む。こんな大衆向けの食事処で卵一皿止めたところで節約できる金額は知れているが、今はそのくらい厳しかった。
「そっかー……わかった。待っててね」
店主へ注文を伝えにゆくセラの後ろ姿を見ながら、ルミナはため息をついた。なんとも情けないことだ。
仕事がうまくいっていた頃はもっと贅沢に食べられた。特に良い成果が出た時は、酒も追加してちょっとした宴会のようなこともした。
そうだ。あの頃は酒が飲める仲間がいた。
今、ルミナが座っているのは四人がけの卓だ。ルミナの前には卓を囲むように三つの空席が並んでいる。そこに楽しげな三人の幻影が見えたような気がして、憂鬱な気分になる。
「ほらほら、ご飯食べるときは暗い顔しない!」
明るい声に顔を上げると、料理を載せたトレーを手にしたセラが立っていた。
ルミナの前に料理が並べられる。
丸っこい小麦のパン、湯気の立つ豆のスープ、キノコが混ぜ込まれたスクランブルエッグ、太くて長いソーセージ、新鮮な野菜のサラダ、断面の瑞々しいカットフルーツ……。
「ちょっとセラ、こんなの頼んでない!」
突然目の前に置かれたご馳走に慌てるルミナへ向けて、セラは笑顔で答えた。
「まあまあ、これは私からのサービスだから。あ、パンとスープの代金も私がもっとくよ」
そしてルミナの向かいの席に座ると、少し声を落として言った。
「その代わりさ、ちょっと聞いて欲しい頼み事があるんだけど」
「嫌な予感しかしないけど……」
「いやいや、全然そんなことない。むしろめちゃめちゃうまい話だから。食べながらでいいから、聞いて聞いて」
「ますます怪しいでしょ」
「別に断っても代金取り立てたりしないからさ」
「まあ、それなら……」
ルミナは訝しがりながらもパンを手にとってスープに浸した。どうせ食事中は席を立ちようもない。聞くしかないのだろう。
セラはしたり顔で「そうこなくっちゃ」と言うと、話を始めた。
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