第7話 お手玉曲
翌日。
私は、今日も普段通りに仕事へ行く支度をする。準備をしている間、フロストは疲れからなのか起きてはこなかった。固く閉じられた瞳に、クセのない美しい黒の髪が枕の上で波を作っていた。
そんな彫刻のようなフロストに、しばらく魅入ってしまった。数分そうした後、自身の栗色の髪が落ちてきて立ち上がって置き手紙を残しておく。
簡単に握っておいたおにぎりに、ラップをひらりと乗せて乾燥から守る。
「いってきます」
そう小声で呟き、家を出た。誰にいうわけでもないその一言も、中に人がいるだけで意味を成す。
夢の中で、何度もフロストが出てきて手を伸ばすと星屑になって消えていったのだ。
起きた時に、床に敷いた布団の中にいる彼の姿を見て少しホッとしていた。それもあって、寝顔を眺めてしまっていたのだが、まじまじと見れば見るだけ見惚れてしまうのだ。
たしかに、黒色のツノというのは禍々しさを感じさせて妙な感覚にさせる。それを
どれをとっても彼の魅力だった。
「さぁ、今日こそは気持ちを切り替えるぞ!」
腰に手を当てて、華やかな春風を大きく吸い込み深呼吸をした。昨日よりも、気持ちは晴々としていて空を照らす太陽でさえも味方についているように感じさせた。
こんなにも1日が長く感じたことはない。時計を見上げても見上げても、時間がなかなか進まないのだ。
帰るのが楽しみだと、こうも時間が進まない。
一度伸びをしてみたりと、そのたびに気持ちを切り替えるようにした。
本日、何度目かの時間確認をして定時まで残り5分のところまでやってきた。そんな時間になった時に、山本が私をこっそりと呼ぶ。
「花川さん」
「はい」
「しばらく、このお店の改装工事でしょ?」
「明日からですね」
そう。ここ村田自動車は、古い建物すぎて改装工事をすることが決まっていた。それも明日からなのだ。
改装工事に伴い、しばらくお店を閉めておくことになっていた。我々は、しばしの休暇に入ることになる。
以前までは、ただの休暇で暇だと嘆いていたが、今は楽しみで仕方のない休暇に変わっていた。
「なんだか、楽しそうね」
「だって、長期休暇ですよ」
なんて言っているが、そんなことよりも自分の中にはもっと大きな理由があった。
(明日ってことは、ちょうど満月の日。ワクワクな冒険に出かけるチャンス! というか、神様が仕向けてくれた幸せの贈り物!)
どの神なのか分からないが、届けてくれたプレゼントに両手を合わせて深々と頭を下げながらお礼を言いたい気分になっていた。自然とゆるむ頬と、高鳴る胸が落ち着かない。
山本は印刷し終えた紙を合わせながら、何かあったのかと確信を得た視線を私におくる。普段から好奇心旺盛で、多趣味をもつ私だ。趣味として出かけることも多いことは、社内に知れ渡っていた。
だが私は、隠し事を一切せず何もかも話すそんなタイプだ。今回は、内容を伏せて楽しみなオーラだけを撒き散らしている。
山本は、聞きたいのをグッと押さえて私が話してくれるのを待っているようだ。そんな中、就業のチャイムが鳴る。
「お先に失礼します! 明日から、長期休暇を楽しんできます!」
それだけ言い残し、軽い足取りでスキップなんかして帰宅を急いだ。何処からともなくほんのりと香る夕飯の匂いに、お腹の虫が音を鳴らす。
今晩は何を作ろうか、どんなものを作ったら喜ばれるか。という具合に浮かれていた。
太陽も傾き、春の
フロストは、今日もまた冷蔵庫を不思議そうに見つめているだろうか。それとも、空を見上げて物思いに
そう思うと、さらに足は軽くステップを踏み出す。
職場から徒歩10分で着く距離。考え事をしながら足取りが軽ければ、本当に一瞬だ。
「ただいま〜」
家の扉を開くと、目の前に壁向きキッチンがあり廊下があって部屋に続く。昨日いた一番手前にある冷蔵庫には、フロストの姿が見えない。
私は、部屋の扉に手をかけた。少し指先が震え、緊張感が走る。電気もついていて居るのは明確だろう。
しかし、もしかしたらもう居ないかもしれないと思うと一気に寂しさの波に飲み込まれる。元から独り暮らしなのだから、この静けさなんて慣れているはずなのに。
ごくりと喉を鳴らして、扉を開いた。
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