第一話 その刀は何を斬る・後編

食事の後二人は店を出て並んで歩き出す。

すでに夜を迎えており、空には月が浮かんでいた。

無言のまま川沿いに二人は歩いていく。人影もなく足音とカスミの杖の音だけが響く。


だがそんな中、不意にカスミは足を止めた。

自分だけ数歩進んだ格好のヘイスケが不審がると、カスミは彼を止めた。


「ヘイスケ、それ以上行くな……いるぞ、人ならざるものが」


「へえ、さすがだな──やっぱり目が見えねえ分耳が効くのかい?昼間はどうも…礼をしにきたぜ」

 

「なっ……?ありゃ…!?」


暗がりから、ぬうっと現れたのは昼間カスミが叩きのめしたあの大男だった。

しかしヘイスケが驚いているのは彼にではない。

その大男の後ろにいる、サイのような重々しい足音で現れた、彼よりも頭一つは大きい異形にだった。


「な、なんじゃあ、あのバケモノは?腕が四本に、ヤギみてぇな頭……気持ち悪ぃ」


ヘイスケが言うように、下半身こそ人間には見えなくもないが、上半身には四本の腕があり山羊によく似た頭を持つ正に化け物がそこにいた。

その目は血走り、牙をむき出しにして低く小さく、しかし背筋が震えるような唸りを上げている。


「その特徴……レッサーデーモン……だったか。大陸の西北に住む悪鬼…薬だけではなく、そんなものまで飼っていたとはな」


カスミが引き締まった表情で言った。

そのデーモンを用いて、ヘイスケとカスミを始末しに来たことは二人とも理解していた。


「詳しいじゃねぇか。じゃあこいつに勝てるわけもない事も知っているだろう?」


レッサーデーモンには普通の刃物では歯が立たない。

カスミの腕前どうこうではなく、単純にその硬い皮膚を貫通しないのだ。

倒すには専用の刀剣か、もっと殺傷能力の高い武器、あるいは魔法の類が必要だったがどれもこの場にはない。


「……も、モンスターって奴ですかい…………足も速いんですかね」


「さあな。試してみるか?逃げ切れるかどうか」


達観しているのかそれとも何か策でもあるのか。カスミの声は落ち着いている。


ヘイスケはしばし黙っていたがやがて重々しく言葉を発した。


「………いや逃げるより姐さん、頼みがあります」


「なんだ?」


「あっしがなんとか時間を稼ぎます。姐さんは逃げて下さい……あんたは良い人だ。巻き込んだら、それこそシズに合わせる顔がねぇ…それで逃げ延びて、良かったら奉行所にモンスターの事をお願いしやす。あんなバケモン飼っているなんてバレたら、さすがにおしまいでしょ」


「……死ぬ気か、ヘイスケ。昼のようにあがく気はないのか?」 


ヘイスケは首を横に振る。その目は据わっているように見える。


「あん時とは違う。今は姐さんさえ逃げてくれたら、シノヤマも道連れだ。それなら本望なんですよあっしは………最期に姐さんと呑めて良かった…あんたどこかシズと…妹と似てるんですよ。姐さんほど別嬪じゃなかったけど、幸せそうにメシを食うところとかね」


ヘイスケは覚悟を決めているようだった。カスミは説得は無理と思ったのか、小さく息を吐いた。


「…ところで尋ねるがヘイスケ、泳ぎは達者か?」

「へ?まあ、それなりに。生まれがティバなもんで」

「…そうか………御免!」


横からの強い衝撃にヘイスケは一瞬何が起こったのか分からなかった。

だが全身に水の冷たさを感じた時、カスミに突き飛ばされ、川に放り込まれたのだと理解した。

何故か?もちろんそれは、彼を助ける為に他ならない。


「そ、そんな……いけねぇ姐さん!あっしなんぞの為に命を張るなんて──」


必死に立ち泳ぎをしながら、ヘイスケはカスミに声をかける。

カスミは刀に手をかけつつ、その声に答えた。


「あたしにも兄がいる。こんな不出来な愚妹を、未だに思ってくれている兄がな!これが理由ではいかぬか!?」


「そんなっ…」


なら、尚更あんたを死なせられねぇという声は被った水にかき消された。


陸では盲目の女侍と睨み合う、異形のレッサーデーモンという異様極まりない光景が残った。


「へっ、川に逃げたって一緒だ。手前を片付けたらそのまま底まで沈めてやるよ」


「……貴様、勘違いをしてはいないか?あたしがヘイスケを落としたのは、助けるためではなく邪魔にならんようにだ。サナエ……抜くぞ?」



ついにカスミが抜刀をした、すうっと刀が抜かれる音が響き、その見事な波型の刃紋を持った紫色の刀身が月光を反射して光る。


「おおっ、それなりのモン持ってるじゃねぇか……だがな、どんな名刀だろうがコイツにとっちゃナマクラと同じよ!」


男が嘲るように笑い、レッサーデーモンの肩を叩く。 


「ナマクラ……お前の事を、ナマクラだとよサナエ。許せるか?優しいお前はともかく、あたしは許せんなぁ!」


刀を構えたまま、カスミは固く閉じていた瞼を開いた。


本来光のない黒い瞳があるだけのはずだが、今そこには刀と同じ、紫色の光沢を持つ瞳がらんらんと光っている。


「てめぇ……目が?」

「…こちらから行くぞ」


言うが早いか、カスミは一瞬でデーモンとの距離を詰めた。

その時、紫の刀身が闇夜に舞った。

男は思わず横に避けて、レッサーデーモンはカスミの斬撃を受けたが悠然と立っている。


「さすがに固いな……」

「へっ、目をあけて刀で斬ったからなんだってんだ……デーモンには効かな……腕ええっ!?」


男はすっとんきょうな声を上げる。デーモンの四本の腕のうちの一本が切断され、地面に転がっているからだ。

人の世の理から外れた生物だからだろうか、その切り落とされた腕からもデーモン本体からも血の一滴も流れていない。


「……固いとは言ったが、斬れぬとは言っていない」


刀を構えデーモンを見据えたままカスミは続ける。


「あたしの唯一の友──サナエは人は斬らんが、人ならざる魔を斬る!」


腕を一本失ったレッサーデーモンはほんの一時呆けていたが、すぐに現状と敵を理解して

カスミに向かって唸り声をあげた。

ちょうど肉食動物が、獲物を視界に捉え攻撃に映る直前のような唸り。


「ふん、怒っているのか?まだ人間様より一本多いだろう?」


しかしカスミは平然と皮肉っぽく笑った。レッサーデーモンがさらに怒り狂ったように咆哮する。


「うるおおおおっ!」


地面が揺れるような声だが、カスミは動じない。


「うるさい奴だ……サナエ、決めよう」


カスミの声は冷徹で、周囲の静寂を破る。彼女の視線はただ一点に向けられ、前に立ちはだかるレッサーデーモンにすべてを集中させている。

月明かりの下、カスミは無駄な動きひとつ見せずに、静かに間合いを詰めていく。


デーモンは凄絶な咆哮を上げ、三本の腕を振り上げた。その一撃は予想以上に速く、しかも重い。まるで鋼鉄の塊が叩きつけられるような衝撃が、空気を震わせた。

並みの人間であればかわす事も防御する事もできず、その一撃で首の骨が砕けてしまうだろう。

しかしカスミは一歩も退かず、剣を握る手に力を込めると、身を捻ってその攻撃を間一髪でかわした。


紫の刀身が月光を反射し、カスミの瞳もまたその紫色に輝いている。だが、それは同時に――どこか嗤っているかのようにも見える。魔物に対し冷徹で、無慈悲で、そしてその心には、決して躊躇いがない。


「ぐるおおおっ!」


レッサーデーモンの声が荒く響く。カスミの刃がすぐ目の前に迫り、デーモンは激しく腕を振って迎撃しようとするが、すでに遅かった。


「はっ!」


カスミはまるで予め相手の動きを読んでいたかのように、デーモンの懐に飛び込む。その素早さはまさに死神のようだ。

カスミの刀が一閃――丸太のように太く、筋肉の塊のようなデーモンの太腿を、無情に切り裂く。

ぞぶり、という肉を裂く音が、戦場に響いた。デーモンは苦しそうに唸り声を上げ、足元を崩す。


カスミとデーモンの身長差がその瞬間なくなる。カスミの顔に不敵な笑みが浮かび、自らの腕に込めた力とともに、そのまま刀を横一文字に振り抜く。


刀身が一気に横に切り裂かれた瞬間、重い衝撃が響き、デーモンの体は引き裂かれ、無力に地面に崩れ落ちた。


 



ごとり。




重いものが地面に落ち、転がる音がした。その音だけが、戦の終わりを告げる静寂の中で響いた。


「ひっ……ひぃぃぃ!バケモノか…?」


震えながら、大男はその場で立ち尽くす。目の前には、首のないレッサーデーモンの胴体が倒れている。そして、その横に立つのは――紫の目をしたカスミ。

まるで暗闇の中に浮かび上がる亡霊のように、彼女の存在は男にとって異常なまでに際立っていた。


「化け物?それはあたしの事か?武士とはいえ年頃の娘に向かって失礼な」


カスミの声は静かで冷徹だ。だが、その冷徹さの中に微かな嗤いが含まれているようにも聞こえる。

大男はその声を聞き、全身が硬直するような恐怖を感じ、腰を抜かして地面にへたり込んだ。目の前に立ちこちら睨んでいるのは――化け物すら斬った存在だ。

自分は昼間そんな者に、喧嘩を吹っ掛けたのだと理解すると激しい恐れが湧いてきていた。


「……さっきも言ったが、あたしの友は人は斬らん。失せろ」


大男は這いつくばったまま、夜道をあたふたと逃げ去っていく。

同時にじゃばりと水音が響いた。ヘイスケが川から上がり、カスミの方へと駆け寄ってきた。


カスミは目を細めると、笑ってずぶ濡れのヘイスケに声をかけた。


「ヘイスケ……川に叩き込んですまなかったな。それにしてもお主、そんな顔をしておったのか。中々男前ではないか」

「姐さん、目が……お見えになるんですかい?」


ヘイスケは困惑した様子でカスミの紫の瞳を見つめた。


「サナエを抜いている時だけはな。そんな事よりデーモンの首でも持って奉行所へ行け。これ以上ない証拠だろう」


刀を鞘にしまいながら、カスミはお使いでも頼むかのように言う。

刀身が鞘に収まると、瞳の色が紫から黒に戻り光も消えた。

サナエ、ありがとう。というカスミの礼が闇夜に溶ける。


「……姐さん、姐さんはきっとボサツ様の化身か何かでしょう?そうに違いねえ」


ヘイスケは盲目に戻ったカスミに向かって手を合わせた。その声は涙で震えている。

彼にとってみれば突如現れ、命を助け復讐を助けてくれた神仏の使い。そのように感じても仕方のない事かもしれなかった。


「よせ。こんな大喰らいの大酒飲みと同じにされてはボサツ様も迷惑だ。あたしは、ただ化け物を斬った……それだけだ」


そう言ってカスミはヘイスケに背を向け歩き出す。


「姐さん、どちらへ?」


「さあな。目的はあるがあてはない旅中だ……達者でな」


カスミの声は遠く、でもどこか確かな決意を感じさせた。その言葉を最後に、彼女は闇の中へと消えていく。

ヘイスケはその背中を、手を合わせたまま、ずっと見送っていた。その背中が闇に飲み込まれた後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。


(それにしても、あのイカとグラタン、熱いうちに食べておけば良かったな。惜しい事をした……それと兄上、変わらずご健勝だろうか?)



夜道を歩くカスミの胸には食べ物と、久しく会っていない兄のへの思いが去来していた。


第一話 了

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