第2話 『ラブ』じゃなくて『ライク』だよ、きっと……
私の住む街は、東京から電車で30分ほどにあるベッドタウンだ。海が近く、南風が吹くと潮の香りが心地よい。おかげで自転車などはすぐに錆びちゃうけど……。
最近でも近隣にはマンションが次々と建設されており、少子化や人口減少とは無縁の街だ。
私の通う潮騒市立若葉中学校は、街の一番海側に立地する。最上階の音楽室からは東京湾に面する港が見え、その遠くには晴れていれば富士山も望める。
さて、そんな若葉中には、市の方針により少なくとも平日1日、週末1日の計2日、部活動を休みにしなくてはならないというルールがある。このルールにより、全校共通で毎週水曜日は部活動無し、週末は各部の裁量により土日のどちらかが休みとなっている。
そのため、片岡くんと出会った翌日は、水曜日で部活はお休みだった。
7日木曜日。帰りのホームルームが終わると、私はトレードマークのツインテールを揺らし、軽い足取りで音楽室へ向かった。
今、私たち吹奏楽部は、11月13日に予定されている海辺中学校との合同練習会に向けて練習が始まったばかりだ。そのため暫くは合奏はなく、全体での基礎練習が終わると各楽器ごとのパート練習となる。
トランペットパートの練習会場にメンバーが集まると、早速パートリーダーの
「えっと、今日はせっかく浅沼くんが頑張ってメトロノームをゲットしてきてくれたので、早速パートで合わせていきたいと思うんだけど、片岡くんは一昨日楽譜もらったばかりだから、いきなりは難しいよね?」
そう言う唯に、片岡くんは爽やかな笑顔で答える。
「いや、この曲は吹いたことないけど曲は知ってたし、昨日も何度か音源聞いてきたから、大丈夫だよ」
「おじょ~! さすが、片岡くん!」
私が感嘆の声を上げると、片岡くんは続ける。
「あ、別に他の男子みたいに呼び捨てで良いよ」
私は笑顔で答える。
「じゃ私も、『えり子』でいいよ!」
それに唯も続く。
「そんじゃ、私も唯で」
こうして、私と片岡は気軽に呼び合う関係が始まった。
さて、来月に予定されている「合同練習会」は、文字通りあくまで練習会であり、観客の前で演奏するものではない。私たちの中学校では定期演奏会などの独自の演奏会は行っておらず、1年を通じて一番大きいイベントは夏のコンクールとなる。一方でコンクールが終わって秋から冬にかけては「オフシーズン」だ。この時期は3年生の先輩方も引退して1、2年生だけの編成になるが、次年度の夏に向けて力を付ける重要な時期であるため、その一助となるべく他校との「合同練習会」が設定されているのである。
合同練習会の楽曲は野村正憲作、「アップル・マーチ」という大昔のコンクール課題曲だ。技術面での難易度は比較的低いが、その分基本的な力が試される楽曲らしい。先ほど片岡はサラっと「音源を聞いてきた」と言っていたが、こんなに古い課題曲の音源を持っていただけでも驚きだし、しかもしっかり予習済みとのことで、さらに期待は高まる。
「じゃ、頭から練習番号Aまで早速やってみようか」
「はい!」
パートリーダーである唯の指示にメンバー全員が返事をする。
唯がテンポ120のメトロノームに合わせて、カウントを取る。
「1、2、3、はい!」
6本のトランペットが一斉に鳴る。
冒頭から練習番号Aまでの4小節で一旦ストップ。唯は渋い顔で言う。
「う~ん、ちょっとバラバラだね~」
「テンポを60くらいに落として、丁寧にやってみない?」
「そだね」
片岡からの提案に従い、早速、唯がメトロノームを調整する。
テンポ60。ものすごく遅く感じるが、そのテンポでもう一度吹く。
「う~ん、それでもバラバラ」
私も思わず苦笑いする。
「テンポが遅い分、アラが出るよね~」
唯も苦笑だ。
「まずは縦の線を意識しようか」
片岡から指摘が入り、再び皆で吹く。
「ちょっと1年生だけでやってみようか……」
次第に練習の進行はパートリーダである唯から片岡へと移り、何度も何度も繰り返し練習……。
そしてあっという間に今日の練習時間を終えた。
帰り道。いつもと同じように私はみかんと一緒に下校する。
「どうだった、今日の練習は?」
みかんに問われると私は目を輝かせて言う。
「うにゃ~! すごいの、片岡の指摘が適切で! 頭から丁寧に何度もやって、結局今日なんか、4小節だけで練習終わっちゃったよ」
「たった4小節? それは大変だったね」
みかんは目を丸くする。
「うじ。めっちゃ細かいし、厳しいし」
「うわぁ、それはしんどい~」
みかんは眉間にしわを寄せる。
「でもさ、私こんなレッスン初めてだから、すごい興奮しちゃった!」
そんな私に、みかんは冷ややかな目で言う。
「ドM……」
「うぎゃ~! なんでよ!」
ふくれっ面の私をなだめるように、みかんは笑顔で続ける。
「でも、これで来週からの小原先生の合奏もばっちりだね~」
「うじ! 早く合奏やりたい~」
みかんはいたずらっぽく笑いながら言う。
「えり子は小原先生ラブだからね~」
「うじゅ~、
このころの私は、顧問である小原先生が大好きだった。そう、もちろん「ラブ」じゃなくて「ライク」。
小原先生の厳しくも暖かい指導、私たち生徒にはいつも親身になって相談にのってくれる姿勢、すべてが尊敬できた。そして、そんな小原先生への憧れから、自分も将来は学校の先生になりたいと思っていた。
「明日からもがんばるぞ~!」
♪ ♪ ♪
翌日もパート練習が始まると、昨日の続き――つまりは冒頭の4小節から始まった。
「じゃ次、えり子一人で吹いてみよっか」
「あいっ!」
片岡に指名された私は、後輩たちも見守る中一人で4小節を吹く。
「うん。もう少し、楽譜に丁寧に吹けるかな?」
「うにゃ? 楽譜に丁寧?」
決して乱暴に吹いたつもりの無い私は、首をかしげた。
「そう。例えば、1つ目の音符はテヌート、2つ目の音符はスタッカート、3つ目は何もついてないだろ? それをしっかり意識して吹き分けてみなよ」
「ほよ~」
次は片岡に言われたところを意識して吹いた。
「そうそう、さっきより全然よくなったでしょ~」
「うじょ~!」
私は喜びのあまり、笑顔で声が漏れる。
「ところでさ、ずっと気になってたんだけど、えり子の『うじょ~』とか『ほよ~』とか何? 感動詞?」
片岡は改めて私の口癖が気になったようだ。
「う~ん、これは私の鳴き声みたいなものだから、気にしないで」
自分でもいつから使ってるのかわからない、私の口癖。ついつい無意識に口にしてしまう。まぁ、気にしてないし直す気もないのだけれど。
「よし、それじゃ6人でやってみよう!」
片岡の提案で、久々に6人で合わせて吹く。
「いいね~!」
皆から自然に笑顔が漏れる。が、未だテンポ60のままだ。
「じゃ、次はテンポ72くらいまで上げてみようか」
唯がメトロノームを72まで上げる。
「なんか、急に速くなった感じがする~」
その後も96、108と徐々に上げていき、久しぶりに遂に元のテンポ120に到達したとき、私たちは……空中分解した。
あまりにも酷すぎて、思わず皆から笑いが起きる。
「3小節目の16分音符、全然間に合ってないね~」
笑いながらそう言う唯に、片岡が続ける。
「これは基礎練習に16分音符の刻みの練習、入れた方がいいかも」
♪ ♪ ♪
そして翌日。片岡が練習に加わって3日目の今日は土曜日。授業はなく、朝9時からお昼12時までが部活の時間だ。いつもよりおおよそ1時間長く、たっぷり練習ができる。
私達トランペットパートは、昨日片岡から提案があった通り、細かい音符の練習を加えた基礎トレーニングを行った後、早速曲の練習に入った。
そして冒頭4小節を何とかクリアし、3日目にしてようやく最初の練習番号「A」まで到達した。
「じゃ、Aの7小節目から」
パート練習の進行はすっかり唯から片岡に移った。まずは楽譜通りのテンポで吹く。
「う~ん」
片岡が唸る。また、振出しに戻った感じだ。再び冒頭4小節のような地道な「修復作業」が始まることを誰もが予見していた。
しかも、今度はたったの2小節。皆、不安ともあきらめともとれる表情を浮かべる。
そうした中、私は目を輝かせていた。パート練習というよりは、片岡の個人レッスンに参加しているかのような感覚だった。
「まずね、曲の流れが感じられないよね」
そう言って片岡が解説を始める。
「まずAからは、木管がメロディーを吹いてるだろ? そこに7小節目から俺たちペットが乗るわけだから、木管の流れを意識しないと。今みたいな吹き方だと、なんだか他人の家に土足で踏み込むみたいで流れを壊しちゃうよ」
なるほど。確かに片岡の言う通り、私たちの吹いている部分はその前の木管楽器のメロディを受け継ぐものだった。私は自分が休みのところはどの楽器が吹いているとか、全然意識しないで吹いていたことに気付かされた。
結局この日も、一日かけて先ほどの2小節と、その後に出てくる似た音型の2小節の、計4小節のみで練習が終わった。
お昼で部活の練習を終えて帰宅し、自宅で昼食を済ませた後、午後は塾へ向かう。土曜日の塾は午後2時から5時。女子中学生も何かと忙しい。
塾の行き帰りは大体みかんと一緒だ。自転車で自宅近くの公園まで戻って来た後はすぐに分かれず、おしゃべりタイムとなることが多い。
「最近ペットはパー練厳しんだって? かなり辛いって唯から聞いたよ」
不意にみかんが部活の話をする。ちなみに「パー練」とはパート練習の事だ。
「うじゅ~、片岡がかなり細かいところまで指摘してくれるからね。厳しいっちゃ厳しいけど、私はそんなに辛いとは思わないよ」
私がそう答えると、みかんは微笑みながら言う。
「やっぱ、片岡くんに惚れた?」
「はにゃ? 何言ってんの! そんなわけないじゃ~ん」
「ど~だか?」
みかんが意味深に笑う。
「私の恋人は、トランペットだけです~」
そう言って私は笑った。
夜、夕飯を済ませてようやくリラックスタイム。
洗面所でトレードマークのツインテールの髪をほどく。私がオフになる瞬間だ。
安堵の吐息を漏らすと、温かいお風呂場へと入った。
湯船につかり、今日の練習を思い出す。
こんなに丁寧に楽譜を読んで楽器を吹いたことなど、今まで一度もなかった。片岡の練習は想像していた以上にストイックだった。
でも、片岡の指摘は的確で、まだたった何小節かだけど、この3日間で随分上達したと思う。それに練習もいつもよりも何倍も楽しくて、時間もあっという間に過ぎてしまう。
「やっぱ、片岡くんに惚れた?」
ふと、みかんの言葉がよぎる。
正直それは違うんじゃないかと思う。私は天井を見上げながら呟いた。
「やっぱ、片岡も『ラブ』じゃなくて『ライク』だよ、きっと……」
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