第36話 修復が終わりました


「終わった…………お腹すいた……眠い……」


 結界の修復作業が全て完了し、パチリと目を開けたアイリスは、強烈な空腹と睡魔に襲われた。

 結界の修復には精密な魔力操作が必要なため、かなりの集中力を要するのだ。長時間集中を続けたアイリスは、既にエネルギー切れだった。


 窓の外は既に真っ暗で、時計を見ると今は夜の八時頃だった。


(まだ陛下は起きている時間ね……ひとまずご報告を……)


 そしてアイリスは、疲れ切った体を引きずりながら夫婦の寝室へと向かった。しかし、そこにはまだローレンの姿はなく、窓から差し込む月明かりが空の寝台を照らしているだけだった。


(陛下はまだご公務中かしら……いらっしゃるまで休憩を……)


 そう思い、アイリスが寝台に近づこうと一歩踏み出した途端、足がもつれて盛大にこけてしまった。


(床……気持ちいい……)

 

 体に触れるひんやりとした床が思いのほか気持ちよく、うっかり目を閉じてしまったアイリスは、そこで意識が途絶えた。



***


 

「……リス、アイリス! おい、アイリス!!」

「うーん……」


 数刻後、アイリスは誰かの大声によって叩き起こされた。


 まだ寝ぼけた頭で目を擦ると、美しい碧い瞳が目に映った。どうやら声の主はローレンのようだ。それにしても、彼は随分と焦った顔をしている。何かあったのだろうかと思い、アイリスは首を傾げた。


「陛下……何かあったのですか……? そんなに慌てて……」


 アイリスの返答に、ローレンは安堵したように大きく息を吐き出した。


「慌てもする。寝室に来たらお前が床で倒れていたんだ。刺客にでも襲われたのかと思って心配したんだぞ」

「へ……?」


 ようやく頭が冴えてきたアイリスは、自分の状態を確認した。するとローレンに言われた通り、どうやら床に寝ていたようで、今は彼が抱き起こしてくれていた。


「わあっ!? すみません!! 丸一日飲まず食わずで結界の修復作業を行っていたので、体力の限界が来てしまって……」

「馬鹿、丸一日ではなく丸二日だ」

「……え、二日!?」


 ローレンが険しい表情で指摘すると、アイリスは驚いた声を上げた。

 てっきり一日しか経ってないものだとばかり思っていたが、道理で疲れ果てていたわけだ。


「お前まさか、一度も休憩を取らずに作業してたんじゃないだろうな?」


 ローレンはそう言って眉を顰めると、アイリスをじとりと見遣った。完全に図星だったアイリスは、思わずローレンから視線を逸らし言い訳をする。


「こ、こういうのは、一気にやってしまわないと、逆に面倒なんですよ……?」

「つまり、二日間も寝ずに作業を続け、ろくに食事も取っていないと?」

「す、すみませんでした……。でも情けないですね……以前は二日くらい休息を取らなくても余裕だったのに……」

「そんなことを自慢するな馬鹿者」


 ローレンは呆れたように大きな溜息をつくと、アイリスを抱き上げた。


「陛下! 自分で歩けますので!」

「うるさい。今日はもうお前の言うことは聞かん」


 アイリスの抗議の声に、ローレンは機嫌が悪そうにそう答えると、横抱きのままアイリスを寝台まで運んだ。そして、アイリスをゆっくりと寝台に下ろすと、ローレンはこちらの顔を覗き込みながら言葉をかけてくる。


「少し食事を取れそうか? 何か口に入れたほうがいい」


 彼の言葉と表情には、険しさの中に心配の念が含まれていた。随分と迷惑をかけてしまっていることに、アイリスは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 そして、アイリスが返事をしようと口を開いた途端、盛大に腹の虫が鳴ってしまった。


(お、お約束すぎる……)


 赤面したアイリスは、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆うと、小声でローレンに自らの空腹を訴えた。


「お、お腹が空きました……」

「ふ、くくっ。わかった。すぐに持ってくる」

 

 これには流石のローレンも思わず吹き出したようで、必死に笑いを堪えている。アイリスはそれはもう恥ずかしくて、顔を覆った手を外せずにいた。


 すると、ローレンはやっと落ち着いたのか、アイリスの頭を軽く撫でると、一旦寝室から出ていった。


 しばらくしてローレンが寝室に戻ってくると、手には食器を乗せたトレーを持っていた。よく考えたら国王に食事を運ばせるという、とんでもないことをお願いしてしまったのかも知れない。


「申し訳ありません、陛下。自分で取りに行けばよかったですね……」

「いや。元はと言えば、俺が頼んだ仕事のせいだ。これくらいはさせてくれ」


 ローレンはそう言って袖机にトレーを置くと、椅子を寝台の傍らに持ってきて座った。

 そして、スープ皿とスプーンを手に持ったローレンを見て、アイリスは嫌な予感がし、先制して口を開いた。


「陛下、流石に自分で食べられますので……」

「無理はするなといつも言っているはずだ」


 アイリスの牽制に、ローレンは不機嫌そうな顔でそう答えた。


 自分では無理をしているつもりはないのだが、迷惑をかけているのは事実なので何も言えなくなってしまう。

 するとローレンは、仕方ないという風に一つ溜息をつくと、アイリスに皿とスプーンを手渡した。


「ほら」

「あ、ありがとうございます……ご迷惑をおかけしてすみませんでした……」


 ローレンに感謝と謝罪を述べた後、スプーンに一口分のスープを掬って口に入れると、野菜の自然な甘味が口の中に広がった。温かいスープが空腹にじんわりと染み渡る。


「美味しいです。ありがとうございます、陛下」

「ああ、好きなだけ食べるといい。それより、まだ作業が残っているなら引き継ごう。これ以上の無茶はさせられん」

「いいえ、作業は全て完了しました。これで魔物の出現も減ると思います」

「そうか……素早い仕事に感謝する。あとは、イオールの街に住み着いた魔物の討伐が完了すれば、一段落だ」


 アイリスは初めて聞く情報に目を見開いた。

 イオールは、今回結界が綻んでいた西の森付近にある街だ。西の森に魔物が転移し、そのまま街の近くに住み着いてしまったのだろう。


「どんな魔物が住み着いたのですか?」

「空を飛ぶ魔物としか情報が来ていない。たまに現れては畑を荒らして去っていくだけで、幸いなことに人的被害は今のところ出ていないようだ」


 討伐依頼が来ているにしては、情報があまりにも少ない気がする。魔物討伐のことが気になったアイリスは、ローレンに質問を続けた。


「その討伐は、陛下も行かれるのですか?」

「ああ、その予定だ。部隊の編成が終わり次第向かう予定だが、おそらく三日後には出立することになるだろう」

「では、私も……」

「お前は連れて行かないからな」


 アイリスが『連れて行って欲しい』と言い切る前に、ローレンにピシャリと牽制されてしまった。アイリスはむくれた顔で抗議の声を上げる。


「なぜですか? 『仮面の魔法師』としてついて行けば実績にもなりますし、魔物の討伐経験も負けてないと思います」

「無理をするなと言っても、お前が一切聞かないからだ」

「うぐっ」


 今まさしくローレンに迷惑をかけているアイリスは、返す言葉が無くなってしまった。


 しかし、命を狙われているローレンから今離れるのは、どことなく心配だった。アイリスは、なんとかついて行く理由を必死に探す。


「し、しかし、魔物に上空を取られるのは不利です。私なら浮遊魔法を使った空中戦が可能です!」

「空を飛ぶ魔物となら何度か戦ったことがある。お前の手を借りるまでもない」

「うう……」


 ローレンの魔物討伐の実績の数々は、この国を学ぶための講義でたくさん聞かされた。おそらく対魔物戦に関しては、本当に心配する必要はないのだろう。だが暗殺者に対しては別だ。


 他について行く理由はないかと必死に考えを巡らせていると、アイリスの中にふと思い出されることがあった。


(そういえば、イオールの街はコネリー伯爵家の領地だったわね……クラスメイトのドミニク・コネリーの実家があるはずだわ)


 ドミニクは、アイリスが入学した日に暴言を吐いてきた人物だ。魔族のことを毛嫌いしており、魔族の魔法を使う『仮面の魔法師』のことが随分と気に食わないらしい。

 入学初日以来、彼とはほとんど話していなかったが、クラスメイトの実家付近に魔物が住み着いているというのは普通に心配だ。


「イオールの街は、私のクラスメイトの実家が治める領地でもあります。友人のことを思うと、じっとしていられなくて……どうか、せめて魔物討伐の見学だけでも……!」

「――…………」


 ローレンについていく言い訳にクラスメイトの名前を使わせてもらうのは申し訳ないと思いつつも、ドミニクを心配する気持ちは本当だった。


 アイリスが両手を合わせて懇願していると、ローレンはしばらく考えた末、諦めたように大きく溜息をついた。


「一つも怪我をしないこと。魔法が使えると他人にバレないこと」

「?」


 何を言われたのか咄嗟に理解できず、アイリスは首を傾げながら険しい顔をしたローレンを見つめた。すると彼から、続きの言葉が紡がれた。


「この二つが守れるなら連れてってやる」

「ほんとですか!? 約束します! ありがとうございます、陛下!!」


 ローレンの言葉を聞いたアイリスは、手に持っていたスープをこぼさんばかりの勢いで興奮気味に礼を言った。そんなアイリスに、彼は呆れたような表情を向ける。


「わかったから、さっさと食べて、さっさと寝ろ」

「はい!!」


 アイリスは急いでスープを食べ終えると、ローレンに言われた通り、すぐに寝台に入り眠りについたのだった。

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