第8話 レオン・トラヴァー
(んん……よく寝た……)
翌朝目が覚めて隣を見ると、そこには既にローレンの姿はなかった。どうやら公務に出かけた後のようだ。
アイリスは伸びをしながら、昨夜のことを思い出す。あんなに誰かと話したのは、本当に久しぶりだった。広い部屋に独りぽつんと居ることに、わずかな寂しさを覚え、その感情に驚く。
(ついこの前まで、独りでいるのが当たり前だったのにね……いずれこの国を出て、また独りになるんだから、あんまりこの環境に慣れすぎないようにしないと)
誰かの温もりを失うことの怖さを、アイリスはよく知っていた。師匠であり友だった魔族――唯一の心の支えだった彼と、ある日突然、二度と会えなくなった。父が亡くなってから、まともに外出させてもらえなくなったから。
アイリスは大きく息を吸うと、吐く息とともに陰鬱な気持ちを吐き出した。
(よし……起きよう)
寝台から出て自室に戻ると、すぐにノックの音が聞こえてきた。
「おはようございます、アイリス様。お支度のお手伝いに伺いました」
「どうぞ、入って」
ノックの主は、侍女のハリエットだ。ハリエットはアイリスより四つほど年上で、赤みがかった茶色の髪にキリッとした顔立ちをしている。可愛らしいというより、美人と評されることが多そうだ。
「アイリス様、昨日はよくお休みになられましたか」
「え、ええ。よく眠れたわ」
寝る前に交わしたローレンとのやりとりを思い出し、アイリスは少しどぎまぎしてしまった。ハリエットはアイリスの動揺に気づかず、テキパキと身支度の準備を始めている。
身支度くらい自分一人でできるのだが、この城に来て間もない頃に手伝いを断ると、ハリエットから『私を無職にするおつもりですか』と叱られてしまった。以降はこうして、身支度の手伝いをお願いしている。
「アイリス様……なんだか雰囲気が柔らかくなられましたね」
「ふふっ……『氷姫』はもう辞めにしたの」
昨夜のローレンの言葉を思い出す。自分の感情を隠さなくていいと言ってくれた、初めての人――。ローレンの力強い言葉に、もう自分を偽らないと決めた。
「そうなのですね。昨日までのアイリス様も凛々しく素敵でしたが、私は今のアイリス様の方が好ましく思います」
「ふふっ、ありがとう」
ハリエットとそんな会話をしながら一通り身支度を終えると、再びドアを叩く音がした。
『どうぞ』と答えると、老年の男性と初めて見る青年が入ってきた。
「おはようございます。アイリス様」
「エドモントさん、おはようございます」
老年の男性は、ローレンの側近のエドモントだ。白髪を丁寧に纏め上げ、紳士然とした立ち姿をしている。
彼はローレンが幼い頃から仕えているらしく、信頼も厚いようだ。昔は騎士として名を馳せたとも聞いた。
エドモントもアイリスの雰囲気が変わったことに気づいたらしく、少し微笑んでから隣にいる青年について紹介を始めた。
「この者は、本日より貴方様の専属護衛騎士となります、レオン・トラヴァーでございます」
「…………レオン・トラヴァーと申します。よろしくお願いします」
(これはなんというか……相当な不満顔ね)
エドモントの隣にいた青年は、口をへの字に曲げ、アイリスを値踏みするように見据えている。とても王族に対する態度とは思えないほどだ。
青年は、やや癖のある茶色の髪に茶褐色の瞳を持ち、歳はアイリスとさほど変わらないように見えた。
青年がジロジロとアイリスを値踏みしていると、次の瞬間、青年の頭頂にエドモントの拳が振り下ろされた。
「がっ……!」
短いうめき声と共に、青年が痛そうに頭を抑える。
「王妃殿下に何たる無礼。アイリス様、大変申し訳ございません。この者に代わり、深くお詫び申し上げます」
「いえ、お気になさらないでください」
「寛大なお心に感謝申し上げます。レオンは多少腕は立ちますが、いかんせん若輩者ゆえ、至らぬところもあるかと存じます。何かございましたら、何なりと私めにお申し付けください」
青年は居心地が悪そうに、不貞腐れた様子でエドモントの側に控えている。その姿が何だか怒られた子供みたいで愛らしく、アイリスは少し笑みが溢れた。
「陛下より、アイリス様を宮廷内の図書室へご案内するよう、仰せつかっております。本日のご朝食の後にでもいかがでしょうか。もしお探しのものが見つからなければ、後日城下の王立図書館へ参りましょう」
「……! ありがとうございます……!」
(昨日の今日で叶えてくださるなんて……! 陛下に感謝しないとだわ!)
「それと、この国についてお知りになりたいとのことでしたので、アイリス様さえよければ、週に何度かこの国の歴史や政治経済についての講義の時間でも、と考えているのですが、いかがでしょうか」
「い、いえ、そんな! 私なんかのためにそこまでしていただかなくても!」
「遠慮していただく必要はございません。貴方様がこの国に興味を持ってくださって、大変嬉しゅうございます」
(――何だか、相当甘やかされてる気が……)
「では、ご朝食の後にレオンが図書室へご案内いたしますので。講義は昼食後に致しましょうか」
「あ、ありがとうございます」
流れるような説明の後、要件が終わるとエドモントとレオンという青年は部屋を出て行った。
***
予定通り、朝食後はレオンが図書室へと案内してくれた。少し癖のある茶色い髪に、くるくると丸い茶褐色の瞳をしたレオンは、何だか大型犬を思わせる。
図書室は想像以上に広く、幅広い種類の本が取り揃えられていた。
「うわあ……! 本がたくさん!」
アイリスは緋色の瞳をキラキラと輝かせながら、壁や棚一面に広がる本を見渡す。
(まずは、どこまでが人族の魔法で、どこからが魔族の魔法なのか、知るところから始めましょう)
アイリスは魔族から魔法を教わったため、その辺りの境界が曖昧だった。昨日ローレンと短時間会話をしただけでも相当な齟齬があったので、早めに知っておく必要があると思ったのだ。
魔法の本が並べられた一角に行くと、アイリスは一冊、また一冊と本の目次だけに目を通していく。本の内容を全て確認していると日が暮れるため、目次で概要だけをさらっていく。人族の魔法の範囲を知るにはこれで十分だ。
「何の本を探してるんです?」
レオンは目次だけ見て次々と本を手に取っていくアイリスを見て、目当ての本が見つからないのだと思ったのだろう。
「いえ、目的の本は全てこちらに。目次ばかりを見ているのは、人族の魔法学の概要を知りたいからで……。全体像を把握するには、これが一番手っ取り早いんです」
ポカンとした表情のレオンをよそに、アイリスは次々と本を手に取っていく。
(なるほど、各属性ごとに体系化されているのね。浮遊や転移魔法はまだ確立されていない……人族が使うには魔力量が足りなさすぎるのね。それからこっちは……)
集中が深まるごとに、周囲から音が消えていく。昔から集中すると周りが見えなくなる質で、魔法の修行の時にもよく師匠に呆れられていた。
「……様、……リス様! アイリス様!!」
レオンの大きな声に意識を呼び戻され、アイリスは慌てて返事をする。
「っはい!!」
「邪魔してすみません。でも、そろそろ昼食の時間ですよ? 一度休憩した方が……」
「え? ああっ!?」
時計を見ると昼の十二時を過ぎたところだった。図書室に来てから二時間近く経っている。
「ご、ごめんなさい! ずっと退屈でしたよね、私、気づかなくて!」
「いや、大丈夫です。気にしないでください」
レオンの態度はぶっきらぼうではあるが、朝の挨拶の時のような刺々しさは、少し和らいでいた。
昼食後、この国の歴史や現在の政治経済の状況についての講義を受け、その後は再び本を漁るべく図書室へと向かった。
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